第七章(26)
「あ、クイーンだ!」
「おはよう、クイーン」
「やぁクイーン、お出かけですか?」
「良い天気だねクイーン」
「ちょっと寄ってってよクイーン、良い茶葉が手に入ったんだ」
「どこへおでかけ? クイーン」
「案外ちっちゃいなクイーン」
「クイーン、今日もまた遊ぼうよ!」
「握手してクイーン」
「サインしてクイーン」
「クイーン抱いて!」
「朝食は済ませたかいクイーン。まだなら一緒に食べてきなよ」
「昨日は娘がお世話になったねぇクイーン」
「おっすクイーン」
「ごきげんよう、クイーン」
「さっき仲間を見かけたよ、クイーン」
◆
『継承決闘』から四日。
エリスは案外あっさりルル・リラルド民たちに受け入れられていた。
「……」
「なんだレクト、微妙な顔して」
「いや、なんでもない」
エリス、レクト、そしてザットの三人は、朝の涼しい風がまだわずかに残っている中、敷石の広い街路を歩いていた。
周りでは多種多様な『モンスター』たちが行き交っている。
街に着いたばかりの時とは打って変わって、今や誰もが振り返る有名人になっていたエリスだった。
とはいえ継承決闘を勝ち抜き、『クイーン』の称号を手にしたのだ。彼らの習性を考えれば自然な変化と言えるだろう。
思っていたよりずっと友好的な態度に当初は戸惑ったものの、今では自然と接せられるまでには慣れていた。
「しかしオレはまだ慣れませんぜ、この状況」
すぐ後ろをついて歩くザットが苦笑いをこぼす。
「夜も落ち着いて寝てらんねぇ。姉御はよく平気ですね」
頭では理解していても今までの経験が体を動かしてしまう。それも、逆の意味での慣れだ。
「比べても無駄だ」
とレクトがそっけなく言う。
「いつだったか、これから戦う『モンスター』の住みかの目の前でだって平然と昼寝していたような奴だからな」
「細けぇことまで覚えてんな、お前は。つーかザット、そんなら他のみんなみたいに人間連中が暮らしてるとこで寝床借りりゃいいだろ」
「そんな名折れみたいなこと出来やしませんよ。どこへだってついて行くのが子分ってもんでしょう! 姉御が寝るところオレ有りですよ!」
「……そいつは時と場合によるな」
――あれから四日だ。
継承決闘でどっと疲れてしまったためか、あのあと決闘場の一室で丸々一日休んでしまった。
アリーシェ始め銀影騎士団の皆は人間たちが暮らしているという地区に宿を借りて休養したらしい。理由はザットの言ったような心境からだろう。
まさかこの街に人間が暮らしていたとは、と驚いたエリスはまずそこへ寄って、子供たちから複雑な顔をされた。
どうやら以前の『キング』――ヴァーゼルヴ・ヴァネスは頻繁にこの地区を訪れて子供たちと遊んでいたという。
なついていただけに彼が死んでショックだったのだろう。
その称号を受け継いだエリスには、子供ながらに思うところがあったのかもしれない。
エリスは代わりに子供たちと目一杯遊ぶことにした。
日が暮れる頃にはすっかり打ち解けられたと言って差し支えないだろう。その日は久しぶりにアリーシェたちと寝食を共にした。
そしてこの巨大な街を一通り見て回っただけで、ゆうに二日が過ぎていた。
「そもそもエリス、お前がその場その場で寝泊まりしすぎなんだ。猫じゃあるまいに」
「いいだろ別に。泊めてくれるって言うんだから。広すぎていちいちあそこまで戻るのが面倒なんだよ」
幸い『クイーン』の称号を狙う挑戦者はまだ現れていないが、寝込みを襲われるかもしれない、という警戒はまったくしていないエリスだった。
大物なのか単純に自覚が薄いのかは微妙なところである。
「それに、ここももうすぐ見納めだからな。せっかくなら出来るだけ色んなとこ見ときたいだろ」
エリスは歩きながら周囲をぐるりと見渡す。
見慣れたものよりすべてのスケールが巨大な街。『モンスター』たちの暮らす街。今まで見たことのない光景の連続だった。
そう気軽に来れる場所ではない。ならば存分に楽しんだほうが良いというものだ。
「目的は果たせたとはいえ、このまんま長居するわけにはいきませんしね」
この街は、旅のゴールではなく折り返し地点だ。
激しい戦いの疲れを癒やす必要はあったが、あくまで休憩。登った山は下りなければならない。いつまでも山頂には留まらないものだ。
「寝不足だからって寝ボケてんなよザット」
エリスは前方の遠景へと視線を向ける。
彼女の目には、すでに次の山が映っていた。
「目的を果たすのは、これからだろ」
そしてなだらかな下り坂になっている街路を進み、目的の場所へ。
「おっ、もうみんないるな」
エリスは歩きながらぶんぶんと手を振ってみせる。
街の玄関口には、旅支度を済ませた銀影騎士団の面々が集まっていた。
継承決闘における戦死者十一人。行方不明者二人。
銀影騎士団の残った十八人全員が、十数台の馬車と共にそこに集まっていた。
「もう少しゆっくりしてきゃいいのに」
銀の防具を身に付けた皆を見渡してエリスが言う。
色々あったものの、共に旅し、共に戦った仲間たちだ。
別れを惜しむ理由は充分すぎるほどある。
「そうもいかないわ」
とアリーシェが輪から進み出て答える。
凛々しくも柔和なところは初めて会った時と変わらないが、常にどこか張り詰めていた雰囲気は今は感じられなかった。
背負っていた大きな荷物を下ろした――エリスにはそんなふうに見えた。
「たしかに『キング』は倒して、あなたが『クイーン』にはなったけど……この街の『モンスター』たちはともかく……世界がそんなにあっさり変わるなんて、私には信じられないから」
メッセンジャーはすでに世界中へ放たれている。しかしエリスの言葉が広まるのにも時間がかかるだろうし、全員が全員素直に従うとは限らない。
彼女たちはそれまで手をこまねいているより行動することを選んだのだ。
「まだまだ苦しめられている人々が世界中にいる。それを守るのが、そのために戦うのが、私たち銀影騎士団よ。じっとなんかしていられない」
アリーシェの言葉に背後の団員たちも頷いてみせた。
「万が一……本当に『モンスター』が心変わりをして人間と共存できる日が来るまで、私たちはこれまで通りに活動し続けるわ」
「そりゃそうか。つまんないこと聞いたな」
「出来ればあなたたちにも協力してほしいところなんだけど、こればかりは仕方ないわね。……故郷へ帰るんでしょ? あなたのほうこそ、それにしてはずいぶんゆっくりしてるじゃない」
「ああ、なんか一緒に連れてってほしいって奴がたくさんいて、そいつらの準備に手間取ってんだよ」
さすが『クイーン』と言うべきか、故郷に帰ることを告げたら、ロバーツを始めとした五十以上もの『モンスター』がそんなことを言い出したのだ。
この街の規模からすればごくごくわずかではあるが、単純な数としては大所帯だ。
目の前の皆と共にいた時以上に賑やかな旅になるかもしれない。
幸いエリスは何もしなくていいというので、彼らをまとめるのはロバーツたちに一任してある。
「ふふ……そう。さっそく頼もしい仲間が出来たみたいね」
「おうよ。『エーツェル騎士団』設立の夢にまた一歩近付いたぜ」
「えっ、そんな夢があったんですかい?」
初耳だったらしいザットが驚いて聞き返す。
「昨日決めた」
ずいぶんフットワークの軽い夢だ。
レクトは苦笑いを浮かべながら、
「いきなり大量の『モンスター』を引き連れていって村のみんながひっくり返らなきゃいいがな……」
と半分本気の心配を口にした。
「あの、レクトくん……」
そんな彼へパルヴィーが歩み寄る。
普段の陽気な性格はなりを潜め、伏し目がちな思い詰めた表情をしていた。
それもそのはず。
彼女は銀影騎士団と共に旅立つ。レクトはエリスと共に故郷へ帰る。ここで別れれば次に会うのはいつになるのかわからない。
「……えへへ、またね」
しかしパルヴィーはパッと顔を上げて明るく笑ってみせた。
「ああ。村の場所は覚えているな?」
「うん、ばっちり」
銀影騎士団は各地を転々として活動する。所在地がはっきりしない以上、彼女のほうから会いに行くしかない。
「あたしが忘れないうちに遊びにこいよ」
「そりゃもう。ふたりがどうにかなっちゃわないうちには行かなきゃね。……あっ、そうだ」
パルヴィーは猫のようにエリスに飛びつき、耳元でささやく。
「わたしに黙ってキスとかしないでよね? 約束だよ?」
「誰とだよ」
「もう、わかってるくせに。鈍感なふりしたって見逃したげないよ?」
「……そんなんしねーよ。したとしてもお前には言わねーよ」
「あーんそれが一番困る!」
「めんどくせーなーコイツ」
エリスはパルヴィーを振り払って、他の団員たちとも別れの言葉を交わしにいく。
居並ぶ顔ぶれはやはり寂しい。
いなくなった者のことを思うと胸が痛んだが、それはなるべく表情に出さないようにした。
しんみりするのは柄じゃない。
別れの時こそ快活に。もう二度と会えないと決まったわけではないのだから。
「達者でな」
そんなラドニスの言葉が最後だった。エリスはもう一度全員を見回して、最大限に明るい声を張り上げた。
「みんな、また会おうな!」
と、ひと通り別れのあいさつを済ませたところで、再びアリーシェが歩み寄ってくる。
今度は互いの体が触れ合いそうになるくらい近かった。
「結局なにも言わないつもりなのね……リフィク君のこと」
ふたりだけが聞き取れる声でささやく。表情は少しだけ苦しげだった。
「せっかく気ぃ遣ってやってたのにほじくり返すのかよ」
エリスは対照的に微笑みを返す。
「あれはもう許した」
あっけらかんと言った言葉に、アリーシェは不意を突かれたように口をつぐんだ。
「他の奴らには『みんな仲良く』っつっといて、当のあたしがいつまでもこだわってるわけにはいかねぇだろ」
「エリスさん……」
「お前も反省してるみたいだしな。だから、もう後ろ向きなこと考えんのはやめて前を向けよ。きっとあいつもそう思ってる」
リフィクが最期に願ったのは仕返しではない。自分を刺した相手をも救うことだ。
無意義な争いへの反抗。その遺志を反故にしないためにはこうするのが最善だろうとエリスは思った。
「そういう奴だったからな」
「……そうかもしれないわね。けど、目をそむけたりはしないわ。きちんと向き合い続ける。目をそむけていたら、まっすぐは進めないもの」
「まっ、好きにしろよ。この話は終わりだ」
アリーシェは微笑みを残して体を離し、団員たちのもとへと踵を返した。
「また会いましょう」
「ああ」
「……あたし、間違わなかったよな?」
去りゆく皆の背中を見送りつつエリスが呟く。
レクトは、彼女の肩に優しく手を置いた。
「正解なんてない。だからこそ、どんな道にだって進むことができるんだ」
◆
銀影騎士団の一行は『ルル・リラルド』を背に草原を進む。
馬車の中で、アリーシェは隣に座るパルヴィーの肩にそっと手を添えた。
「今ならまだ引き返せるわよ」
パルヴィーは「え?」と振り向く。しかし、すぐに首を横に振ってみせた。
「いいえ。いいんです、これで」
「いいの? けど、もし心残りがあるのなら、誰に遠慮することもないのよ。あなたの人生を決めるのはいつだってあなただけなんだから」
「はい。だからわたしは、自分が決めたことに従ってるんです。昔の自分が信じたことを、今でも信じてるんです」
そしてにっこりと笑う。それは苦笑いでも作り笑いでもなく、本心からの笑みだった。
「アリーシェ様と同じように」
「……」
馬車の進みに合わせてふたりの体もかたかたと揺れる。
アリーシェの表情も少しだけ揺らいだように見えた。
「私は……正直なところ、自分が何を信じていたのかよくわからなくなっているわ」
ささやいたそれは、彼女にしてはめずらしい弱音だった。
ため息のように小さい声だったのは他の団員たちに聞こえないようにという配慮だろう。
「他にやることがないからこうして戦っているだけよ」
「じゃあ、それが終わったらどうするんです?」
「終わったら?」
虚を突かれたようにアリーシェは目を丸くする。
「はい。もし人間と『モンスター』がちゃんと仲良くなって、銀影騎士団がいらなくなって、アリーシェ様が戦わなくてもよくなったら……」
「そんな先のことまでは考えたことがなかったけど……」
果てしない未来。しかし、決してあり得なくはない未来。
「……そうね、その時は」
アリーシェは幌の隙間から空を見上げる。
どこまでも青く、どこまでも高い空は、雲ひとつなく晴れやかだった。
「牧場でも始めようかしら」