第七章(22)
歓声とも罵声とも判別のつかない、声という声がその空間を席巻する。
感情の種類はどうあれ最高潮に場が沸いていることだけはたしかだった。
たった今『キング』が倒され――その最強者の称号が、倒した者へと受け継がれたのだから。
「……で」
今の激戦によって岩塊が吹き飛ばされ、あるいは砕かれ、広場のように開けた空間――地べたに座るエリスは、『治癒術』の淡い光に包まれながら誰ともなしに問いかけた。
「どうなんだ、これから」
すぐには答えが返ってこなかった。
その『治癒術』を施しているアリーシェ以外の全員が――レクトも、ザットも、ハーニスも、リュシールも、ラドニスも、クレイグも、パルヴィーも、ファビアンも、その他の戦士たちも――ただただ呆然と空を見上げているだけだった。
合流できたことで少し気が緩んだのか、あるいは今の光景を見せつけられたからか。皆少なからず疲労の色がにじんでいる。
頭の中に浮かべているのは、エリスと同じ漠然とした疑問だろう。
「何も変わらないわ」
淀みなくアリーシェが口を開いた。
「『モンスター・キング』と『灰のトュループ』……戦うべきふたつの敵がひとつにまとまっただけ。そうでしょう?」
とアリーシェはハーニスに視線を向けた。足の負傷も癒えたらしい彼は、その通り、と力強く頷いてみせる。
「キング――ヴァーゼルヴ・ヴァネスを倒したトュループが次代の、いえ現在の『キング』のはずです。そして我々の目的はまだ達成されていません。ここで諦めるという選択肢も、ありません」
「わかりやすくなって助かったってところか。そりゃいい」
エリスは治療もなかばに起き上がり、愛剣をつかみ取る。
「やっぱりあいつに目にもの見せてやらなきゃ、あたしらの旅は終われねぇからな」
一瞬は怪訝な顔をするアリーシェだったが、すぐに『治癒術』を打ち切って臨戦態勢に移った。
上空のトュループがゆっくりと降下してきたからだ。
そのままどこかへ飛び去られてしまったら厄介なところだったが、どうやらそうはしないようだった。
天使と例えるには悪魔すぎる外見のトュループが、もったいぶるように天から舞い降りる。
地上で迎え撃つ構えを取るエリスたちは、しかし自ら攻撃を仕掛けることはしなかった。
疲労も負傷も満遍なく体を蝕んでいる。
状況が未知のものに変わったならまず慎重を期す――それがアリーシェの中で培われた常套手段であり、必勝法だった。
敵が逃げずに向こうからやって来るのだから焦る必要はない、とハーニスもそれには同意した。
羽毛のように静かに、ゆっくりと、トュループが正面に降り立つ。
「一カ所に集まっててくれてありがとう」
その姿を目にしてエリスは少し戸惑った。
前『キング』と戦っていた跡だろう。左足は明後日の方向ねじ曲がり片足だけで立っている。胸部には拳の跡を中心に大きな亀裂が走り、顔は黒く焼けただれて原型も残っていない。
激しい戦いだったとはいえこうもダメージを負っていたとは。
しかし同情もしなければ手心を加えてやろうという気も一切ない。戸惑ってしまったのは単に、トュループのイメージとその状態とがあまりにかけ離れていたからだ。
「みんな――気分はどうだい?」
トュループが、外見に反して悠々と言葉を継ぐ。
前『キング』にしてもそうだったが、『モンスター』というのは痛覚も人間の常識から外れているのだろうか。
「『彼』を倒すために長い道のりを旅して、作戦を練って、ようやく戦いの舞台に立てて、一生懸命奮戦していたのに――横から出てきた僕に台無しにされた気分は、どうなんだい?」
今までとなんら変わらない、嘲りを隠そうともしない高笑いがそれに続いた。
皆の顔に怒り、あるいは嫌悪の色が浮かぶ。こちらももはや隠そうという気はなかった。
「僕は最高の気分だよ」
トュループは両腕を広げる。見せつけるように。受け入れるように。
「君たちの希望を破壊した。目の前で。それはね、君たちの今の顔が見たかったからさ! ははははっ!」
エリスは、そんな哄笑を打ち切るように切っ先を体の前に突き出した。
「好きなだけ笑ってろ! 希望なんかひとつも壊されちゃいねぇかんな」
「ははははっ!」
「ここらでいいかげんケリつけようぜトュループ。今までの積もりに積もった因縁、キングだったあの野郎のぶんも含めてぶつけてやるよ! 破壊できるもんならしてみやがれ!」
「あはははははっ!」
「いややっぱり笑うなーっ!」
イヤな奴、というのが全員の共通認識であろう。もっとも、のどかにそんなことだけを思っているのはエリスとパルヴィーくらいのものだろうが。
「ふふ……いやいや笑いたくもなるよ。これからのことを考えるとね」
笑い終わったトュループは言うが早いか、片手を突き出して光条をうち放った。
「!」
手のひらを返したような先制打。体は傷付いているようだが動きの俊敏さはいささかも衰えていないらしい。
しかし俊敏なのはトュループだけではなかった。
「リジェクションフィールド!」
すぐに対応できるよう身構えていたのだろう。素早く飛び出したアリーシェが、防御用の『魔術』を発動させて皆の盾となった。
彼女の手の先で凶光が四散し、激しい明滅を繰り返しながら明後日の方向の岩塊や大地を貫いていく。
さながら雷雲が目の前に現れたかのような光景に皆思わず目をすがめた。
光の明滅が収まり、すべてを防ぎきったアリーシェが『リジェクションフィールド』を解除した時――その視界の中に、トュループの姿はなかった。
「どこへ……!?」
彼女に一拍遅れる形で全員が周囲に視線を飛ばす。
単純な目くらましだが、トュループの速さと組み合わさると厄介な事この上ない。
姿を見失っている隙に斬りかかられでもしたらひとたまりもないだろう。
「上です!」
と、最初に声を上げたのはハーニスだった。
頭上を向いたエリスは、はるか上空に浮かぶトュループの小さくも禍々しいシルエットをたしかに見た。
どうやらいきなり斬りかかられる心配はないようだ。
しかし待ち受けていたのは、比べるべくもない、真に恐るべきものだった。
「新たな『キング』、トュループがルル・リラルドのすべての者に命じる!」
頭の中に直接響くような異様な声が降り注ぎ、エリスは思わず耳をふさいだ。
しかし超音波もかくやという声は構わず鼓膜を振るわせる。
「手を止めよ! 空を見よ! 新たなキングの姿を目に焼き付けよ!」
「こんな声出してりゃ言われなくたって見るっつーのバカヤロー!」
せめてもの反抗にと声を張り上げるエリス。
「無駄に仰々しい名乗りですね」とハーニスが言ったのがうっすら聞こえてきた。
やたらと芝居がかった口調はともかく、ただ名乗りを上げるだけにしてはやりすぎだ。エリスは別の意味で耳が痛くなったが。
「そして! そして! そして――! 僕からみんなに祝いの破壊をプレゼントだ! 受け取るといいよ」
その時。前触れもなく空に暗雲が立ち込めた。
途端に日が隠れ、周囲が不気味に薄暗くなる。
一転して空気が肌寒くなった気もするが、エリスの体は反対にカッと熱くなった。
「おいおい、なんか見覚えあるぞ、これ!」
心臓が早鐘を打つ。忘れようと思っても忘れられない光景だった。
暗雲の中に浮かび、太陽のようにまばやく輝くトュループ――その忌まわしい光景は。
すぐ隣でアリーシェが息を呑んだ気配が伝わってくる。
「天地を焦がす霹靂は――」
まざまざと蘇る記憶と寸分たがわぬトュループの声が、それに続いた。
「ちょっ、ちょっとちょっと! またあれ!?」
パルヴィーが悲鳴に近い声を上げる。 煮え湯を飲まされたのは彼女にしても同じだ。苦い記憶がよみがえっているのだろう。
恐らくは初めて目にしただろう戦士たち、そしてザットは、何が始まるのかと落ち着かなくしていた。
「……噂に聞いた程度ですが」
同じく空を見上げるハーニスが、一段と険しい表情で呟く。
「『灰のトュループ』の名の由来――ディストラクトレイ――それが……これであると?」
硬い声音は、エリスたちの反応から確信に近いものを感じ取ったからだろう。「そうよ」とアリーシェがうなずいてみせる。
「そして私たちは、一度それをこの目で見ているわ。大きな町がほとんど丸々消し飛ばされるところも、奴が平然とそれをやってのけるところもね」
「どうする!? また前の時みたいにやるか!?」
エリスが焦りを隠さずにアリーシェへ振り向いた。
あの惨状を思い出せば焦らずにはいられない。一刻も早く対処しなければならないのだ。
「前の時?」
と首をかしげるハーニスへ、レクトが手短に説明する。
「『魔術』で起こした風でエリスを空に打ち上げてトュループを止めようとしたんです」
「……よくよく無茶をやりますね、あなた方も」
ハーニスは苦笑いを浮かべて呆れた表情を傾けた。
やはり考えてみると無茶な方法としか言いようがない。しかし、だ。
「それをやるか大人しく消し炭にされんのを待つかって時だったんだからしょうがねぇだろ。つーか今だってそうだよ」
エリスは言い捨てて再び暗い空を見上げる。砂粒のように小さいトュループは、先ほどよりもまとっている輝きを増した気がした。
「ああなっちまったらいつあの技が飛んでくるかわからねぇ。悠長にしてる場合じゃねぇんだよ!」
ここで『ディストラクトレイ』を放たれたら前の時を凌駕するほどの惨状となるだろう。
いくらアリーシェに頼ったとしても防げるのは微々たる範囲だ。
町にも住民たちにも甚大な被害をもたらすことになる。大半は『モンスター』だが――そんなことは今は関係なかった。
なにより二度とあんなことはさせないと心に強く刻んでいるのだ。
なによりも強く。
「無茶でもなんでも、あたしは何度だってやってやる」
「たしかに、あの高さでは『魔術』の攻撃でも届きそうにありませんが……」
ハーニスはちらりと改めて頭上を確認したたあと、
「彼女ならば届きそうです」
と、リュシールを振り向いた。
「はぁ……?」
エリスを含む全員が、言葉の意味を理解しかねて彼女を見やる。
矢も『魔術』も届かないであろう上空に、何をどうして届くというのか。
「あまり多くの人の前では見せたくないのですが、状況が状況ですからね。……やってくれるかい?」
言葉の前半は周りの皆へ、後半はリュシールへと向けてハーニスが言う。
「私は構わない」
短く答えたリュシールは、おもむろに上衣を脱ぎ始めた。
黒いタンクトップ一枚となった彼女の背中から、小さく折り畳まれていた――艶やかな黒髪と同化したような黒い翼が大きく開き、一同は驚きに包まれた。
鳥類……さしずめカラスを思わせる漆黒の羽毛。それが人間の体から伸びている姿は、まるで作り物のような異形さと、幻想のような美しさを同居させていた。
エリスは状況も忘れて一瞬見とれてしまう。
「……そういえば」
アリーシェが思わずといった口調で呟く。
「『リゼンブル』は、人間とは異なった外見的特徴を持った個体……いえ、特徴を持って生まれる者も稀に存在していると聞いたことがあったけど」
エリスは無意識にリフィクを思い浮かべる。彼は人間とまったく同じ外見をしていたはずだ。少なくとも温泉に入って裸になっても気付かれないぐらいには。
「我々の世界でも珍しい、わかりやすすぎるくらいの『リゼンブル』である証ですからね。掛け値無しの最後の手段というわけです」
「すげぇ! 飛べるのか!?」
無邪気に顔をほころばせるエリス。ハーニスは「もちろん」と答えつつも難色を示した。
「しかし何も問題がないわけではありません」
彼の言葉を飲み込むように、リュシールはわずかだけ眉尻を下げる。
「私たちは以前、行きがかりからトュループと戦ったことがあります。その時は勝負がつかずに互角……当然あちらも本気ではなかったでしょうが、こちらは二対一、万全と言える状態での話です。ですが今は……」
「私なら大丈夫」
気丈に口を挟んだリュシールに、ハーニスは迷いを滲ませて「いや……」と首を振った。
「攻撃どころか援護もままならない。消耗している彼女ひとりで、どこまで渡り合えるか……」
珍しく消極的なことを態度である。もしくは冷静な、と言うべきか。
表面上はピンピンしているリュシールではあるが、考えてみれば彼女は戦いが始まった時から――それこそエリスたちが駆けつける前から――常に戦線に加わり続けていたのだ。
いくら人間よりも身体能力で優る『リゼンブル』とはいえ、蓄積された負荷はかなりのはずだ。
とてもじゃないが万全とは言えない。
数秒だけ沈黙がただよった。誰も何も言えるはずがない。
切羽詰まった状況だとしても、それを打破できる可能性があるとしても――危険に身を投じろ、と無責任なことは言えないのだ。
自分たちが日頃から危険に身を置いているだけに、尚の事。
「そうだな、リュシールなら大丈夫だ」
と口を開いたのはエリスだった。
「あいつだって似たようなもんだしな」
トュループは反対に素振りはピンピンしているが、表面上は重傷を負っている。あちらにしても万全というわけではないだろう。
条件はそう変わらない。
「それにさ、もう何事もふたりだけとか、ひとりだけとかでなんとかしようとしなくていいんだぞ」
勇気づける笑顔で、同時に企みを思いついた顔で、言うエリス。
「人間ひとりくらいなら、抱えて飛べるよな?」
言わんとすることを読み取り、ハーニスは「まさか」と冷や汗をかいた。