第七章(16)
一瞬だけ時間が止まったように感じたのは、恐らくエリスだけではなかったろう。
そして次は、皆が足を止める番だった。
突然乱入してきた黒い影――『灰のトュループ』と呼ばれる細身の『モンスター』が、流星のような軌道を描いて、しかし軽やかに降下する。
次いで、空中で攻撃を仕掛けていたハーニスとリュシールがしなやかに着地。
最後にキングが、ネコのようにくるりと一回転して地面に降り立った。
その左肩には一文字の傷口が走り、紫色の鮮血が流れている。いまいまトュループが攻撃したのは見間違いではなかったということだ。
自分たちが散々攻め立てても崩せなかったキングの防御に、奇襲とはいえ目立つ傷をつけたことに幾ばくかの悔しさを覚えるエリスである。
当のキング本人は、しかしまるで何事もなかったかのように、乱入者のほうへと顔を向けた。
「前言を撤回せねばならないな、トュループ」
攻撃にしろ傷にしろ、まさしくすべてが起きていなかったように、口調にも表情にも変化がない。
穏やかで悠然としたままだ。
それは切り身にされてもしばらく動いている魚介類を思わせる不思議な違和感があった。
「たしかに、今回ばかりは貴様の言った通りだった。頭ごなしに否定したことを謝ろう」
「だから君が忘れてるだけなんだって」
トュループにしても明らかに、手にした『魔術』製の剣で斬ったはずなのだが、まるで旧知の友人と談笑するように応じている。
エリスとしては、意味のわからない状況だった。
とはいえ彼女だけでなく他の者もそうだろう。
トュループの出現に戸惑い、あるいは警戒し、うかつに動けなくなってしまっている。
加えて目の前の謎のやり取りだ。
戦闘は一時中断の形を余儀なくされていた。
「しかし驚いた」
挑戦者たちの動揺もどこ吹く風、キングは言葉を継ぐ。
「リゼンブルと人間が継承決闘に挑んできて、同時に戦うことになるとは。想定外の『面白いこと』だ」
「でしょ? これでも手を回したほうなんだよ。ちょっと運任せのところが大きかったけどね」
話してる内容はよくわからないが、なにやら場違いなほどに和やかということはわかる。
ここは昼下がりのコーヒーショップではないはずだ。
「いやいや待て待て!」
と、たまらずエリスが割って入った。
状況に戸惑っていた他の者たちからの、ほっとした溜め息が伝わってくる。彼女の良くも悪くも図々しいところが、今のような場合は頼もしい。
「お前ら……説明しろ!」
とはいえエリスにしても状況が飲み込めてない。口から出た言葉はひどく曖昧だった。
「お前は信用ならんからそっちの奴がだ!」
口を開きかけたトュループに先んじて、キングを指差す。
トュループはおどけたように肩をすくめ、指名されたキングは「はて説明とは」と腕を組んで小首をかしげた。
肩口からはいまだ流血しているのだが、気にも留めない。まさしく魚のように痛覚がないのだろうか、と思わずにはいられなかった。
「知りたいことがあるのなら、答えられる範囲でなんなりと答えよう」
いざそう言われると、である。
「……えーとえーと」
突っ込みどころが多すぎて逆に何から聞いていいか困るエリスだった。
結局口から出た言葉は、
「……知り合い?」
という気の抜けたものだった。
「察するところそちらもこのトュループとは面識があるらしい。ならば簡潔に言うが」
キングは同じ口調のままさらりと答える。
「幼なじみだ」
「幼なじみっ……!」
のどかすぎる単語に、エリスは逆に息を呑む。緊張感をなくしてしまったのは自分も同じだが、いくらなんでも緩みすぎだろう。
「うむ。なるべく近い言葉で表すと、そうなる。共に過ごし、共に育ち、共に戦い……そして」
だが弛緩した雰囲気は、すぐさま再び締めつけられることになる。続く言葉によって。
「共に先代の『キング』に挑んだ仲だ」
思ってもみない事実を聞かされ、その場にいる全員に衝撃が走った。
「それって……!」というエリスの言葉を、「ふたりで継承決闘に臨んだということですか?」とハーニスが乗り出すようにさえぎった。
「私とリュシールのように」
「形としては、その通り」
「結果は……聞くまでもありませんね」
「うむ。言うまでもないが、あえて言おう。余とトュループが先代の『キング』を打ち倒し、新たな『キング』の名を継いだ」
その場にいる者たちの顔色がわずかに変化する。それが意味するのは、トュループに対する認識の変化だろう。
言ってみればもうひとりの『モンスターキング』ということだ。
一介の『モンスター』ではない。
この場に『キング』がふたり。その認識は戦意にも少なからず影響した。
「もっとも最後にトドメを刺したという点で、現在は余だけが『キング』の称号で呼ばれてはいるが……」
「……へぇ、そうかいそうかい。なるほどなるほど」
エリスは恐れるでも戸惑うでもなく、ただ納得していた。
むしろ謎が解けてすっきりしたような顔でトュループを見やる。
「考えてみりゃ、そりゃそうだ。普通の奴にあんな無茶苦茶なことができるわけがねぇ。ただそれも『キング』とかってんならわかる話だ」
ただその顔も二秒と続かない。言葉の後半は、ありありとよみがえってきた怒りが表情を彩っていた。
「けど、わかりはしたところで許しはしねぇけどな!」
彼女の戦意に翳りは無い。逆に倒すべき敵の姿が鮮明になってやりやすくなったといったところだろう。
「無茶苦茶なこと……とは。今度はいったい何をやったのだ、トュループ?」
興味本位といった様子で訊ねるキング。
当のトュループは、「さぁてね」とわざとらしく考え込む素振りをした。
「心当たりが多すぎてなんのことやら。……とはいえ彼女にまつわることだから、もしかしたらあれかな? 人間たちの町を破壊したことかな? 跡形もなく……かどうかは忘れちゃったけど」
その白々しい態度にエリスは怒り心頭で牙を剥く。
だが激情が怒声となって表れる前に、
「はっはっはっ」
という笑い声がその場に吹き抜けた。
エリスは睨むように声の主――キングを見る。
「それはたしかに無茶苦茶だ。恨みを買っても仕方があるまい」
まるで小さな子供が暴れて食卓を台無しにした時のような、どちらかといえば微笑ましく呆れて破顔するキング。
客観的に見ても、その反応はさっきまでと同じだった。
穏やかで、にこやかで、泰然自若とした言動。
だがさすがに今の内容にもそんな態度を取られると、エリスとしては許せなかった。
あたかも讃え合う共謀者のようにも見えてしまう。
キングはひとしきり笑ったあと、
「さてトュループよ」
少しだけ笑みを残して、彼のほうへと振り向いた。
「そろそろ、気は済んだだろう?」
対するトュループも、満足げにうなずいてみせる。
「そうだね。さっきまでの緊張感のある雰囲気を破壊できて、僕の気は済んだよ。……じゃあ本題に入ろうか」
「ああ、待っていた。入ろう」
そこでようやく。キングの視線が自分の肩――トュループによって刻まれた生傷へと、傾けられた。
不意打ちによって負わされた傷。 普通に考えれば、それは忌々しいものだろう。
だがそれを見るキングの目は、どこか愉快そうな色を浮かばせていた。
「すなわち、そういうことでいいのだな、トュループ」
「もちろん」
返答を聞きキングは顔を上げる。改めた表情は、今までとは別種の喜びに満ちているように思えた。
「そうか。ついに、か。否応なく心が躍る」
「ま、長い付き合いだしね。そろそろって思ってさ」
なにやら以心伝心で意味深な笑みを向き合わせる『モンスター』ふたり。
「こっちにもわかるように話せっ!」
と、すかさずエリスが割り込んだ。
先ほどにも増して会話の内容が読み取れない。
まるで友達と、友達の友達との親しげな会話を横で聞かされている気分だった。
いやこいつらとは間違っても友達にはなりたくたいが、とエリスは心中でかぶりを振る。
トュループは変わらぬ薄ら笑いを浮かべて、「見ての通りさ」と意外にも説明し始めた。
「僕は『モンスターキング』に自らの意志で攻撃を仕掛けた。つまり、この継承決闘への参加者がもうひとり増えたということだよ」
「……!」
トュループの行ない……遅れてその意味を理解して、エリスは思わず言葉を飲み込んだ。
トュループがキングに挑戦状を叩きつけた。しかも、よりにもよってこの状況で……だ!
皆からのどよめきも伝わってくる。
そりゃそうだ。
この一世一代の大勝負は、とんでもない方向に転がりつつあった。
もしこれが他の者であったなら、頼もしい加勢、と取ることもできただろう。仮に『モンスター』であっても、「敵の敵は味方」という考え方は充分に通用する状況だ。
だが、奴は『灰のトュループ』。
ただそのひとつの事実が、そんな理論をたやすく崩壊させる。
「さぁ、みんな」
トュループは、空々しいまでに明るい声で人間たちリゼンブルたちに体を開いた。
「一緒に協力してキングと戦おう」
「ふざけたことを!」
と、いの一番に険しい声を上げたのはレクトだった。
例の件を思いかえせば、彼の中でくすぶるトュループへの激情は、もしかしたら誰よりも強いのかもしれない。
当然の抗議は、
「そうだそうだ!」
とザットへも引き継がれる。
今更トュループに「協力」という言葉を使われても、はいそうしましょうとは頷けない。
袂を分かったとはいえ仲間であったアリーシェたちや、短い時間であっても互いに認め合ったハーニスたちとは訳が違うのだ。
そのアリーシェは、トュループの意図を読み取ろうと思案顔で黙っている。
同じくハーニスも考えあぐねた表情で――ちらり、とエリスの顔をうかがった。
本来なら真っ先に――レクトよりも先に――提案を突っぱねていてもおかしくない彼女なのだが、なぜだか今は口を一文字に結んでいた。
アリーシェのように企みを看破しようとか先の戦況を鑑みようとまではいかないものの、なにか考えを巡らしていることは明らかだった。
「おいおい、ふざけてるのはそっちじゃないのかい?」
トュループは、そんな不評すら楽しむように口元をゆるませてみせた。
「君たちだけじゃ一晩かかったって彼には勝てないよ。そこを僕が手を貸してあげようって言ってるんだから、普通に考えて断わる理由が無いよ」
「普通に考えて、百害あって一利無しだぜ!」
とザットが反論する。
「ひどいこと言うね。君は毒をもって毒を制すって言葉知らないのかな? もしくは、毒も少量ならば薬なりっていうのをさ」
自分を毒と例える図々しさはともかく、そうまでして共闘したいトュループの思惑は依然として謎のままだった。
「毒は毒だろ。触らぬ毒に食あたり無しだ。……姉御もガツンと言ってやってくだせぇ!」
とザットに呼びかけられて、エリスは「まぁ、そうだな」と口を開いた。
「とはいえ毒を食らわば皿までって言葉は、あたし案外嫌いじゃねぇぜ」
「エリス」
言葉の響きはトュループに肯定的とも聞こえる。レクトは眉根を寄せて彼女に振り返った。
「そんな顔すんなって。こいつは最低最悪な野郎だけど、一応あたしはこいつに助けられたこともある……らしいからな。その借りを借りっぱなしってのも気分がわりぃ」
その現場に居合わせていなかったザットは、ピンと来ずに難しい顔をする。
初めてトュループに出くわし、戦った時のことだ。一矢報いたあと意識を失って上空から落下するエリスを、トュループは何を思ってか掴み上げている。
もしトュループがあそこで何もしなければ、エリスは真っ逆さまに地面に激突して悲惨なことになっていただろう。
形だけを見れば、たしかに助けられたと言えなくもない。
「だから、キングを倒すまではお前を攻撃しないでやる!」
エリスは、ビシリと人差し指を突き出した。
ザットとレクト含め、ざわざわと周囲から戸惑いの声が上がる。
指先のトュループは単に嬉しかったのか目論見通りだったのか、笑みを一段階深くした。
エリスは協力体制を認めたことになる。しかし他の人間たちは別だった。
当然といえば当然だが、いまだに混乱が収まっていない。
「まぁ、細かい相談はそっちでしといてよ」
そんな状況をじれったく思ったように、トュループはクルリとキングへ向き直った。
「少なくとも僕は君たちを勝手に仲間だと思っておくからね。もちろん裏切って急に攻撃もしないし、抜け駆けもしない」
両手からまばゆい輝きがほとばしる。例の光の剣を、再びその手に現出させた。
「約束するよ」
一方的にその言葉を残して――トュループは地面を蹴り上げた。
野生動物の威嚇行為さながら翼を大きく広げ、羽ばたき、一気に加速。地面を削るような超低空飛行で、一直線にキングへと迫った。
「話し合いは済んだか」
キングはあくまで落ち着き払った所作で、組んでいた腕を解いて拳を握る。
「ならば受けて立つ、トュループ」
右の拳から、態度とは裏腹な荒々しい炎が湧き上がった。
「リムズブレイズで!」
「ライトニングレイピア!」
火炎をまとった拳と稲光そのものといった刃がぶつかり合う。
激突のショックウェーブが放射線状に周囲の砂塵を吹き飛ばした。
一拍遅れて到達した風圧に、エリスは片腕で顔をかばう。なんとか開けていた目が見たのは、互角にせめぎ合ったまま笑みを浮かべる規格外の『モンスター』たちの姿だった。
「思い返せば奇妙なものだ。強き貴様と弱き余が、はばかることなく共にいたというのは」
ぶつけ合ったのは片手と片手。互いのもう片方の手が、すぐさま次の行動に移る。
先んじたのは、すでに『剣』を形状化していたトュループだった。
刃を足元に突き刺す。瞬間、地面が膨れ上がり、炸裂し、爆光と共にふたりの体を巻き上げた。
「速く、そして強い。貴様のそんな強さが、余は好きだった」
頭上を舞うキング。共に舞い上がった岩石群は、片手の炎で抜け目なく防いでいる。
エリスの脳裏に、先ほどの戦いの場面がよみがえる。空中に打ち上げられた自分とキング。飛べない自分ではキングに対して為すすべもなかったが――この場合はどうだ。
「僕は君のこと、実はあんまり好きじゃなかったけどね」
空中で素早く姿勢を正し、飛翔するトュループ。爆風と砂塵を引き裂くように、再びキングへ斬りかかった。
「言いよる!」