第七章(15)
じわじわと血液が循環していくように手足の重さが引いてくる。
もう立てるだろうかと思った次の瞬間には、エリスはすでに立ち上がっていた。
「はぁーーー……毎回これだよ、ったく。たまにはスパッと勝ちたいもんだな」
口が回るのは元気が戻ってきた証拠だろうか。
まだ疲労感は、あるにはあるが、問題ない。戦える。迷いなくそう判断し、ライトグリーンの愛剣を引き寄せた。
顔を上げ、激戦区を見つめる。
「それにしても楽しそうにしやがるな、あの野郎」
今まで休んでいたとはいえ、ただぼんやりとしていたわけではなかった。しっかりと、戦いの様子は見ていた。
おおざっぱなようで意外と注意深いのが彼女の特徴と言えようか。
その上で思慮深くあればいいのに、とレクト辺りならば言うだろう。そしてきっと、いつまでも保護者気分の抜けない奴めとエリスはむずがゆさを感じるのだろう。
楽しそう、と見えたのは言うまでもなくキングのことだ。
ただし嫌悪感のある猟奇的な楽しさではなく、まるで遊びに熱中する子供のような楽しさ、である。
無邪気で、清々しくて、つられてこちらまで笑ってしまうくらいの楽しみよう。真剣勝負の血生ぐささとは対極にあるものだった。
戦いの中でそんな楽しさなど少なくともエリスは見たことがない。
だから、かもしれない。そんなキングの姿を見ていたから、肩の力が抜けて少し冷静になれたのかもしれない。
いろいろ考えすぎていたかな、と振り返る。
あるいは、ため込んでいた、とも言えるだろうか。
リゼンブルのこと、『モンスター』のこと、仲間のこと、世界のこと。立て続けに直面した様々なことを複雑に考えすぎて、どこか空回りしていた気がしたのだ。
もやの中にいた。
しかし今なら、ちゃんと前を見ることができる。進むべき方向がわかる。
こうして一度頭を冷やす機会を得られたのだから、ダウンするのもそう悪くない。とエリスは苦笑いした。
これっきりで終わりならと付け加えるが。
「なんでみんなが来たのかも、なんであのふたりと仲良くやってんのかも、あたしにはわかんねぇ」
口にしたのは、自分自身に向けた言葉だ。
「けど、わかんねぇもんを考えてて目の前のことが疎かになってたら、それこそ意味がわかんねぇよな」
銀影騎士団のみんなたち、人間と、ハーニスとリュシール、リゼンブル。その両者が曲がりなりにも協力して戦っている。肩を並べている。
良い光景だ、と思った。
今はそれで充分ではないか、とも思う。
その先のことは、その先に進んだ時に考えればいい。
「あたしは大それたことをやるつもりはねぇんだよ。あたしがやってきたのは、いつだって目の前のことだけだ」
体の調子を確かめるように、一歩を踏み出す。そのまま二歩三歩。前へ、戦いの場へと進む。
「でかい壁にぶち当たったとしても、大抵そんなもんは見せかけだけだ。険しく見えても、難しく見えても、突き詰めてきゃぁやるべきことは簡単なもんなのにな」
障害を乗り越えられるかは、それに気付くか気付かないかで決まってくる。それが早いか遅いか、もしくはあきらめるかの違いしかないのだ。
「だから今までやってこれた」
徐々に歩調は早まり、いつしかエリスは走っていた。
冷静さは返上する。いつまでもそうしているのは、やっぱり性に合わない。
「だから今もそうする!」
そのまま剣林術雨の中へと飛び込んだ。
皆の視線が集まる。不意の驚きと戸惑いも構わず、走り続ける。
誰よりも前へ。誰よりも先へ。
仲間の誰よりも、敵に近い距離へ。そこがエリス・エーツェルの定位置だ。
「姉御!」
ザットの嬉々とした目を背中に受ける。
「エーツェル」
ラドニスの憂慮の目を通り過ぎる。
「ブレイジングガール」
ハーニスと、リュシールの、期待の目で後押しされる。
そして。
「エリス・エーツェル」
肉薄する先――キングの歓迎の目が、エリスを正面に捉えた。
「そのための、オーバーフレアぁぁぁっ!」
同じ轍は踏まない。技を乱発するのは控えようとわかってはいるが、この一発だけは放っておきたかった。景気付けである。
噴き出した炎の刃は、しかしキングの両手から現れた炎で、がっちりと受け止められてしまった。
「そうだよ、ご存知エリスちゃんだ。だから教えろよ。あたしは名乗ったけど、まだあたしはてめーの名前聞いてねぇぞ!」
「それは失敬――失念して失礼していた。ヴァーゼルヴ・ヴァネスという」
「けったいな名前しやがって。お前なんか『ネス』で充分だ!」
「ふ……。初恋の相手にそう呼ばれていた頃を思い出す」
突然の介入によって乱されていた連携の輪が、そこでようやく機能を取り戻す。
組み合って動きを止めたキングへ、いち早く、背後からラドニスが斬りかかった。
「押さえていろエーツェル」
「都合の良い注文しやがって!」
「たしかに、このままでは都合が悪い」
瞬時に羽を広げるキング。そして羽ばたき、目の前で盛る炎を思い切り巻き上げた。
「うぐっ!」
視界が塞がれる。熱風が顔面を叩く。思わず目をつぶったエリスは、次の瞬間、手応えがなくなって前のめりに倒れそうになった。
互いの炎がかき消える。エリスは勢いあまって、反対側から突撃してきたラドニスに抱きつく形になった。
キングの影が、頭上を駆ける。
◆
キングがしなやかに降り立った瞬間、武器を手にした戦士たちが殺到してきた。 今までにない機敏さである。まるでエリスの姿に感化されたように……と表せようかとキングは思った。
背後からひとり、左方からもうひとり、が先んじて踏み込んでくる。
タイミングは計ったようにピッタリだったが、キングは如才なく武器の違いを見て取った。
背後はショートソード。左方はポールアックス。このまま同じタイミングで飛び込んでくるのなら、重量のぶん長得物のほうが遅い。
鼻差の話ではあるが、キングにとって、それは決定的すぎる突破口だった。
ショートソードが電撃を帯びる。ポールアックスが竜巻をまとわせる。
両者が攻撃体勢に入り、狙いを定めて振りかぶったのを確認し――キングもようやく迎撃体勢に入った。
しかし一度動き出してしまえば『ようやく』などという言葉は使えなくなる。
キングは反転し、ショートソードが帯びる電撃よりも速く踏み込み、拳を放つ。
攻撃の寸前であった戦士は為す術もなく拳を食らい、砕けた防具の破片ごと後方に殴り飛ばされた。
同時に、キングは、背後で武器が空振りした音を聞く。素早くターンし、ポールアックスを持つ戦士の横っ腹を正面に捉えた。
そこで武器の重さが仇となる。容易には切り返せず、キングの竜巻よりも激しい回し蹴りをまともに受ける羽目になった。
一瞬、と言っても過言ではない刹那にふたりが倒された光景を目の当たりにしても、人間たちに怯んだ気配はなかった。
狩りをする狼の群れのように、間髪を入れずにキングへ襲いかかる。
その戦意に揺るぎはない。
――人間たちの戦い方が攻勢に傾いてきた、とキングは感じていた。
そしてそれは感じただけでなく、実際にあの指揮官がそう命じたのだろう。そう断定できるほどの攻勢であった。
様子見をやめ、仕留めに来た。そうするだけの条件が整ったということだ。
その条件の一端を担ったのがエリス・エーツェルであると見た推測も、恐らく間違いではなさそうだった。
他人に影響を与える魅力がある。彼女が誰よりも前に行くことで、引っ張られるように周りの味方の士気が上がる。
珍しい人間だ、と、似たようなことを言われるキング自身が思った。
それは彼女が過信なまでに自身のことを「弱い」と言ってのけたところから、強く思い始めたことだった。
冗談で言ったのともまた違う。
自身を弱いと自負するのはキングも同じだが、それは単に、常に弱者の側であろうという表明に過ぎない。
本心から自分のことを弱いと思っているわけでも、そんな自分が易々と『キング』になれたなどと世間を甘く見ているわけでもない。
勝利よりも敗北のほうが得るものが大きいという矛盾した言葉に賛同するわけではないが、強者に足りないものは弱さである、という矛盾した理論は持ち合わせていた。
強者の力を強者の心で使えばいずれ破滅を招く。弱者の力を弱者の心が使ったところで何の成果も生み出さない。
強者の力を弱者の心で使う。それがヴァーゼルヴ・ヴァネスの、唯一と言える、数多くの戦いに打ち勝ってきた方程式だった。
しかし逆に言えば、キングは自分が強いということを否定している。
だがエリスは、自分が弱いということを認めているのだ。
それはキングのように姿勢を表明しているわけではなく、実際に、事実として弱い。
銀装の戦士たちが弱者の力を強者の心で使う者とするなら、エリス・エーツェルは弱者の力を弱者の心で使った上で、強者たろうとしている者と言えるだろう。
自分の弱さを誤魔化さず、それでいて卑屈にもならずに前へ前へと進んでいける。
それがどれだけ困難なことかは、他者への関心が薄いキングでも想像に難くない。
はったりめいたことを口にするのは、そんな、ともすればたやすく折れてしまいそうな自分自身を懸命に励ましているのだろう。
常に自分と戦っている。
矛盾を孕みながら、誰も歩んだことのない道を切り開こうとしている。
そういった点において、キングはエリス・エーツェルという人間を好意に思っていた。
「その心、戦う相手として申し分ない」
声にして言いたくなるほどに。
◆
取り囲まれているにも関わらず、無駄も隙もない動きで前衛を蹴散らしていくキング。
何を思ってかいきなり上空へ跳んだところへ、しかし、待ち構えていたように『魔術』の総攻撃が放たれた。
電撃が飛び、氷が走り、風が舞い、岩石が打つ。しかしキングはそれを読み、避け、受け、流し、ことごとくの攻撃を捌いてみせた。
「……まったくよ!」
と、エリスはついつい吐き捨てる。
まるで熟練の殺陣を見ている気分であった。
守りに入ったキングを打ち崩すのは、団長から小遣いをせびるよりも至難の技かもしれない。
「今まで色んな奴と戦ってきたけど、最後の最後がてめーみたいな奴とはな!」
エリスは追いかけっこをするように、地面を滑る影を目指して走った。
キングは強力なジャンプ力と羽による滑空で空を駆けるものの、鳥のように羽ばたいて空中でさらに上昇、という芸当は出来ないはずだ。頂点を過ぎて落下軌道に入れば、そのまま地面に向かうしかない。
いくら空へ逃げられようと着地の時を狙えばいいというのは道理だろう。
「拍子抜けするぜ、実際!」
とはいえ、すんなり降りてきてくるわけでもない。視線を上に向けると、続けざまに打ち込まれる矢を、殴り、蹴り、弾き返しているところだった。
「今までの奴と違って、どうにも悪い奴には思えねぇ。変な奴だがむかつかねぇし、気に入らねぇけど気に食わねぇってわけでもねぇ!」
「同意します」
エリスの左右へ、ハーニスとリュシールが追いついてきて並んだ。
狙うところは同様らしい。
「けど! だからこそ、戦い甲斐がある!」
今までエリスを戦いに引き込んできたのは、ひとえに怒りの感情だ。
許せないことをする。見過ごせないことをする。居たたまれないことをする。だから戦ってきた。
しかし今は違う。エリスの怒りの矛先は『キング』という名前に向けられているだけで、ヴァーゼルヴ・ヴァネス本人に向けられているわけではない。
今エリスを突き動かしているのは、それとは別の感情だった。
「強いからな!」
頭上のキングが、ちらりと三人を見下ろす。一瞬とはいえ、エリスは視線を真っ向から受け止めた。
「強い奴を見ると、挑んでみたくなる。倒してみたくなる」
ただ勝つために、だ。
すべてのものに。
怒りも遺恨も、憎しみも敵意もない。スポーツ選手のような晴れやかな闘争心だけが、エリスの胸の中を占めていた。
負けず嫌いな性格も『世界』を相手取るところまでくれば大したものだろう。
「お前みたいな奴のほうが、戦ってる時も、勝った時も、気分が良さそうだ。だから、拍子抜けはしたけど嬉しいよ」
三人は歩調を合わせるように、一丸となって駆ける。もっとも両側のふたりがエリスに合わせているのだろうが。
滑空しながら降下してくるキングへ、一足先に、ハーニスとリュシールが飛びかかる。
人間のジャンプ力では到底届かない高度での激突。
落ちてくる、と踏んだ。
ふたりなら、仕留められなくとも打ち落としてくれる、と根拠もなく思った。
「『キング』がお前で良かった!」
足を止めて身構えるエリス。逆光となった太陽の下で、三つの影が弾き合った。
そこへ四つ目の影が乱入してきたことは、この場にいる誰にも――もしかしたらキングにも――予想できなかった。
餌を取る鷹のごとく、上空から鋭角に飛来する影。しかしその背中から伸びるのは、鳥類ではなくコウモリを思わせる禍々しい翼だった。
「あいつ……!」
見間違えようもない姿を目に入れ、エリスは文字通りに天を仰いだまま仰天する。
いや、あるいは彼女たちには予想ができたかもしれない。他でもない『彼』を追いかけて、この場所にやって来たのだから。
高速で降下してくる影が、両手に『光の剣』を発現させる。
そのまま一直線に――。
トュループは狙いあやまたず、キングの体を斬り裂いた。