第七章(3)
登ってきた道とは逆方向へ下り、幾ばくか。潮風を肌身に感じるようになる頃には、街の景色はガラリと変わっていた。
ひとことで言うなら、小さい。
この区画に入った途端、建物や道幅など目に見えるすべてのものがひと回りほど小さくなったのだ。
相対的には縮んだように思えるが、ハーニスとリュシールにとってはとても見慣れた縮尺である。
巨人の国から元の国へ戻ってきた……童話的にたとえるならそんなところだろう。
そして街並みだけでなく、道を行き交う住民たちもその様相を一変させている。
無意識に肌を粟立たせる『モンスター』たちは姿を消し、そこには人間たちが生活を営んでいる光景が広がっていた。
「話には聞いていましたが……」
ハーニスは、少し前に立ち寄った『リゼンブル』の隠れ里パーシフィルで聞いたことを思い起こす。
『モンスター』の魔都の中にあって、人間たちだけが暮らす地区。そこでは特に争いや迫害もなく、人間と『モンスター』とが『平和に共存』できているのだという。
ただし両者のあいだにはひとつだけ取り決めがある。
定期的に、一定数の人間を『食料』として『モンスター』側に差し出すこと。それが守られる限り、先述の『平和な共存』が約束される。
「いつか旅人が言ったそうだ、まるで人間牧場だと」
ジャンが冗談めかして言う。
「まっ、存外うまい例えだな」
「一本取られたなんてヒザを叩く気にはなりませんけどね」
ハーニスは眉をひそめて辺りを見た。
共存とは耳障りの良い言葉だが、実際に行われていることは鼻つまみ以外の何物でもない。暴政にもほどがあるだろう。
しかし……。話を聞いた時にイメージしたものとは、まったく異なる光景がそこにあった。
人間牧場などという物騒な言葉とは裏腹に、住まう人々の様子は『普通』に見えるのだ。
悲観も憤慨も絶望もなく、それをそれと受け入れているように。
そして一番に驚いたのは、『モンスター』たちが暮らす区画と人間たちが暮らす区画の境目が無いことである。
堅固な壁で仕切られていたり、厳重な検問所があったり……などといったこともなく。通りをひとつ挟んだだけの気安さなのである。
内実を知らなければ、本当に共存しているふうにも見えてしまうだろう。
「逃げ出そうとは思わないのですか? ここの人々は」
「思わねぇさ」
実際にこの区画で暮らしているというジャンが、さも当然とばかりに答える。
「なぜ……?」
「そこは常識の違いってやつだな。まぁ、込み入った話は家に着いてからにしようぜ」
家と言うより小屋。ジャンの住居は、失礼ながらそんな言葉が当てはまった。
狭くはないが広くもない木造の平屋。玄関、キッチン、テーブル、ベッドすべてが一部屋に収まる間取りで、奥の扉の先は水回りだけらしい。
「……ふう」
自宅に帰ってきてひと息、といった具合にジャンがずっと被っていたフードを脱ぐ。
あらわになった頭部には、ネコ科を思わせる三角形の耳がピンと立っていた。
「笑ってもいいぜ」
次いで、おどけた声がかけられる。
「いいトシした男がネコ耳なんてな」
実は一概に人間と同じ外見とは言いがたいのが『リゼンブル』である。仮に肉球までついていたとしても別段おかしいものでもない。
そういった外見的特徴のないハーニスが気にならないのだから、奇妙に思う同胞はいないだろう。
「ふふ……」
「マジに笑いやがった」
ジャンは笑い返しながら外套も脱いでいく。シャツだけになったあと、ふたりをテーブルへと促した。
「まぁ、俺にしてみれば生まれた時からついてあるもんでも、人間には普通ないもんだから、外に出る時はやっぱり隠す」
三人とも着席したところで、ジャンが外での会話を引き継ぐ。
「それと同じで……たとえば生まれた時から空を飛べない人間は、空を飛べないことを不便には思わないだろ? お前が感じた疑問は、つまりそういうことだよ」
ハーニスはちらりとリュシールに目を向けてから、彼へと視線を戻した。
「ここで生まれてここで育った奴にとっては、別に嘆くまでもない普通のことなんだよ」
実際にここで生まれ育った彼だけに、その言葉は真理に近いのだろう。
その上で違った視点を持てているのは『リゼンブル』という出自故か。
「『モンスター』が隣にいるのが普通。たまに食われるのも普通。まぁ食われるって言っても、全体からすればごくわずかだけどな」
人間の数が減ってしまっては『モンスター』たちも都合が悪かろう。増やさず減らさず、管理的に育てていく……まさしく牧場といったところか。
現状に疑問を抱かなければ、脱しようとも思わない。たとえば壁のようなもので閉じ込めていないのも、そんな不満を抱かせないためならば効果的だ。
「ほとんどの人間は、特に危険も争いもなく、平和なままに暮らしていける。『供え物』に選ばれるのだって……他のとこで生きてたって、事故や病気で不意に死んじまうことがあるだろ。それが置き換わったってだけさ。わざわざ出て行こうと思いやしねぇよ」
たとえ紛い物の平和だとしても、貴重な平和には違いない。そういうことだろうか。
だからといって納得はできないが。
とはいえ……だ。人間と『モンスター』が同じ街で、何の疑問もなく暮らしている……その一点だけを見れば、あながち否定的ということもない。
それはハーニスたちが望んだ世界に限りなく近い形なのだから。
「……『モンスター』に支配されているのが普通。人間が虐げられているのが普通。『リゼンブル』が迫害されているのが普通。……そういう『普通』をなくすために旅をしてきた我々には、とても興味深いところではありますね。ここは」
ハーニスはあえて結論を避け、嘆息まじりに呟いた。
憂える現状ではあるが、それもキングを倒せばいくらでも改善できるのだ。紛い物の平和を自分たちの手で本物の平和にしてやればいい。それだけだ。
そしてその機会は、もう明日にも迫っている。
「まぁ『リゼンブル』の扱いに関しちゃ……」
とジャンが自嘲的に返す最中。外から、なにやら騒がしい声が聞こえてきた。
反射的にカーテンのかかった窓を向くハーニスとリュシール。 ジャンはこともなげに「キングが来たかな」と言った。
「……キング?」
予想外の言葉に、ハーニスは疑問符を顔に浮かべてみせる。
「さっき、キングには予定があるとかって言われただろ? たぶんその予定をやりに来たのさ」
◆
「あーっ! キングだーっ!」
「キングーっ!」
「ねぇキング、今日は何して遊ぶ?」
「はっはっはっ、そう慌てるな」
ひとことで言えば、にぎやか。そんな光景がハーニスの目に飛び込んできた。
道の真ん中を埋める人垣。その中心にいるのは『モンスターキング』だ。そして大勢の子供たちがわいわいと彼を囲み、その様子を大人たちが気を許して眺めている。
皆の表情は笑顔。嬉々。そして歓迎。そこに警戒や戸惑いといった感情はみじんも見受けられなかった。
他の街ではまずありえない状況だろう。
「……ずいぶんと人気者なんですね」
その人垣をさらに離れたところから眺める『リゼンブル』三人である。
キングの他に『モンスター』の姿はないが、それでも驚くべき光景には違いない。
「たまにああやって遊びに来るのさ」
ジャンがさらりと説明する。
「なんのために?」
ハーニスとしては、それ以上の言葉はなかった。
往々にして人間は『モンスター』を恐れているが、『モンスター』も人間を蔑視しているものだ。あのように気さくに、愛想良く接しているところなど見たこともない。
しかもそれが彼らの頂点に立つキングともなれば、なおさらである。
「さぁな。遊ぶために来たんじゃないか」
ジャンの淡白な反応から察するに、本当に日常の一部なのだろう。常識の違いというやつもここまでくるといっそ清々しい。
「理解には苦しみますが……。ともあれ、『キング』のほうから来ていただけたのは願ってもない」
ハーニスが表情を正して呟いた言葉に、ジャンはぎょっと彼を見た。
「まさかいきなり斬りかかったりはしねぇだろうな?」
「この場所でなければ、その選択も魅力的ですけど。せっかくですから挨拶くらいはしておこうかと」
涼やかに言って、ハーニスとリュシールは歩き出す。
「おいおい」
制止と呆れの混ざった声を上げるジャン。
彼はその場に留まり、傍観の姿勢を崩さなかった。
「この前やったベースボールというのは楽しかったな。あれをやろう」
完全に人間の子供たちになじんでいるキングの姿は、異常を通り越してどこか自然にも見えてくる。
それは自分が人間と『モンスター』とを内包する身であるからだろうか。そんなことを頭によぎらせながら、ハーニスは子供たちの輪にさしかかった。
「キング・ヴァーゼルヴ・ヴァネス」
おもむろに呼ばれた声に、キングのみならず周りの子供たちも彼に振り向く。
「いかにも」
キングは特に警戒心を見せることなく、微笑を浮かべたまま応えてみせた。
こうして対面してみると、身長はほとんど変わらない。観戦中に受けた威圧感も、今はナリを潜めている。
「プライベートなところを失礼。私はハーニス、そしてこちらはリュシール。ちょうど先ほどの決闘中、あなたに『継承決闘』を申し込んで参りました」
不敵すぎる挨拶に、キングは「ほう」と驚嘆とも感嘆とも取れない返事をこぼした。
不穏な気配を察したのか、子供たちの顔にわずかな不安が走る。
キングはそんな彼らを、
「では皆の者、先に行って準備をしているといい。このあいだと同じ所だろう?」
と、すみやかにその場から離れさせた。
周囲から眺めていた大人たちも、訝る視線を送りつつ普段通りの生活に戻っていく。
特に混乱も起きないということは、めずらしい状況でもないのだろうか。
キングともなれば、闇討ち不意打ちは日常茶飯事……ということか? ハーニスはとりあえずそう納得しておいた。
「決闘場には行ったのだな。ならば大方、余には予定があるから明日にでも出直せ……などと言われて引き上げてきたのだろう?」
キングが軽口を叩くように問いかける。「ええ」と答えたハーニスに、「律儀なことだ」と笑い声が返された。
「あんなものは周りの者が勝手に管理しているだけだ。『継承決闘』に時間も場所も関係ない。『キング』と、『キング』に弓を引く者が出会う……その瞬間に始まるのだ」
表情には笑みを浮かべているが、その瞳の奥にはギラリとした闘志がたぎっていた。
ふたりが応じれば、すぐにでも戦い始める。そんな剣呑さを言外に表わしていた。
「……場所を選ぶ配慮くらいは持ち合わせているつもりです。律儀ですから」
「それは助かる。余としても、なるべくならこの場所を荒らしたくないからな。それに子供たちと遊ぶという約束もある」
そのひとことと共に、キングは瞳の鋭さを和らげた。
人間たちに気を遣ったとでも言うのだろうか。言動から何まで、つくづく異質な『モンスター』である。
やはり彼らの世界においても、『キング』にまで登りつめられるのはこういった異端者なのかもしれない。
「と、いうわけだ。前哨戦代わりに……貴様たちも一緒にやるか? ベースボールを」
そんなことを思った矢先にこの言い様である。命を賭けた戦いをしようという相手を球技に誘うとは……。
ハーニスは少しだけリュシールと目を合わせたあと、口端をニヤリと持ち上げてみせた。
「私の必殺魔球でお相手しましょう」
「やるのかよ」
いつのまにか会話を聞いていたジャンが、たまらず呟いた。