曖昧な話(シリアス/暗い/現代)
告白され、一緒に出かけた街で"僕"が見たのは…
私を知り、私を思い、見止め、そして私に及びなさい。
掴んだその手に、あなたは何を得た――?
「え…?」
すれ違いざまにふわりと薫った慣れた香につられて振り返ったが、求めたものは既に行き交う様々に紛れて消えてしまった。
肩が触れたわけでも、特に目を引かれたというわけでもなかった香りの主は本当に行き擦りの、今こうして立ち止まっている間にも幾度となく交わされている一期一会未満の対象でしかなかった。だから本当なら興味すら抱く余地だってないはずなのに、どうして気になったのだろう。
香りに惹かれた?そんなはずない。だって、あの香りは街中で嗅ぎ分けられる類のものなんかじゃないのだから。
「どうしかした?」
肩に触れる感触に弾かれたように向き直ると、目の前にはちょっとビックリしたような間の抜けた顔があった。
ええと、誰だっけこの人…。
「落し物でもしたの?」
そう言ってにこりと笑いかけてくる相手の名前はやはり思い出せない。当然だ、覚えようとも思っていなかったのだもの。
彼は同じ学校に通う一つ上の先輩で、先週いきなり教室に現れて告白をしてきた人だ。
思ってもみない突然の展開に動揺はしたものの、硬直したのは一瞬で、けれど何も答えを返せず傍からは固まって見えるまま、僕はめまぐるしく頭を回転させていた。周りにこんなに人がいるところであんな事を言われた上、内容が内容だ。これでは暇な級友のいい話のネタだ。しかも相手は確か下級生にもそこそこ顔をしられている人物ときた。噂を知ろうともしない僕でも級友たちがきゃあきゃあはしゃいでいるのを否応なく見せ付けられていた。
その彼が、だ。よりにもよって、僕に告白。いつもは姦しい彼女たちから痛いほどの視線を感じる。正直勘弁して欲しかった。こんな場合、きっと受けても受けなくても結果は似たり寄ったりだろうと結論がでる。
はいともいいえとも言うわけには行かない。そうなれば僕の取る行動は一つだった。
「映画の前に買い物でも、と思ったんだけど、意外に人が多いね。早いけど食事でもしながら時間つぶそうか」
困ったような恥ずかしそうな、曖昧な照れの入った表情を向けられて、僕も得意の曖昧な笑顔を浮かべて彼を見返した。
彼が選んだ映画は人気のあるものだったらしく館内にはちらほら立ち見の人の姿もある。インパクトがあるんだろう加工画像を眼球に映しながら、僕は先ほどすれ違った香りの主のことを考えていた。
視界の端にほんの少し映った髪の長さから、あれは女性だろうと思う。けれどわかるのはそれだけ。顔も手も服の裾も見てはいないのに、彼女に妙な既視感を覚えずにはいられない。一瞬鼻孔をくすぐったあの香りは、けれど香りとは呼べない。他の誰がいい香りだと言おうと、僕だけはそれを感じることはできないものだ。
せめてもう一度すれ違えたら今度こそ見過ごさないのに、そう思っているうちに館内がオレンジの明かりに照らし出された。
彼はどうやらスタッフロールまで見るタイプだったとわかったが、それもすぐに忘れてしまうだろう。所詮、その程度なんだ。僕にとっての他人とは。
だからこそ、何故すれ違っただけの彼女にこうまで思考が占領されるのかが自分自身不思議でならなかった。
映画館を出ると、あたりは薄い紫に濁っていた。時計を見た彼にまだ時間はあるかと訊かれて、それからカフェに入ってしばらく話をした。
話題は当然と言うか今ほど見終えた映画についてで、あの場面が良かった、あの場所のカメラワークに騙された、とやや興奮気味に話す彼に得意の笑みを浮かべつつ相槌を打っては次の瞬間には話の内容を忘れていった。
ただ、楽しそうに語る姿から、余程あの映画を気に入ったのだなとだけ思って、その熱意になんとなく、少しだけ羨望を覚えた。
カフェを出て、最寄り駅に着くまで何とはなく話しかけてくれていた彼は、僕を自宅まで送ると申し出てくれた。断る理由は思い浮かばないが受け入れるのも迷っていたら、いつの間にか手を引かれていた。そうなれば今更断るのも気が引けて引かれるままに彼について歩いた。電車の中であれほど話をしていた彼は、道中道を尋ねる以外に口を開くことはなかった。
駅からの帰り道、自宅付近の大きな公園に差し掛かり、促されるままに街灯の灯るそこへ足を踏み入れた。
公園とはいっても子供向けの遊具があるわけでもなく、近隣住民の散歩用の敷地が広がるここは木が生い茂っていて、小さい頃は夕暮れの影ですら恐ろしく思えたな、と思い出して少し笑った。
彼は一つのベンチまで来るとそこに僕を座らせて近くの自販機で飲み物を買って手渡してくれた。お礼を言ってキャップをあけ、一口飲むと美味しいか、と訊かれた。
「美味しいです」
「それ、好き?」
「嫌いではないです」
「じゃあ嫌いなものは?」
「急に言われても浮かびませんよ」
意図のわからない質問にとりあえず返答していると、唐突に彼は大きな溜息をこぼした。
「俺、君を好きだって言ったよね」
「伺いました」
「付き合って欲しいとも伝えたね」
「だからこうしているのでしょう?」
曖昧な言葉。答えているようで、実は答えになっていない返答。そんな受け答えをするようになったのはいつからだろうか。
きっとこれと言った契機はなくて、徐々に徐々にこうなっていったんだ。これは元々持っていた僕の本質なんだろうと思ったときから、深く考えることを一層しなくなったまま、ここまで来た。親密な付き合いをする友人も親族もいないから、それで気分を悪くする人はいなかったし、いても簡単に離れて行った。
目の前にいる彼も、そのうち視界の外へ消えるだろうと、そう思っていたのに。
どうしてそんなに怒ったような目をして僕を見るんだろう。それならさっさと罵ってどこかへ行けばいいのに。
罵って、この強く掴まれた手首が赤くなる前に離してくれればいいのに。
「付き合う気がないならどうして告白したときにそう言ってくれなかったんだ…」
「そんなことありませんよ」
彼があまりに悲痛な声で搾り出すようにそう言うから思わず返した言葉は、
「なら少しでも俺を好いてくれている?」
明確な答えを求める声の前に、ただの発音の羅列として風に吹かれて消えてしまった。
何も言えずにいる僕に、彼はふっと唇の片端だけを上げて嘲笑いをこぼした。
「別に好意じゃなくてもいいさ。でも君は俺を嫌ってすらくれてないだろ?全く、本当に相手にしていない。向き合ってくれていないんだ」
やや俯いた彼の髪が風にそよぐ。なのに人に吹かれてばかりの僕が今、実体のある風に吹かれてもぴくりともしないのが滑稽だと、どこか隅の方で考える。
けれど風に流されて届いた香りがその全てを覆い隠した。
さくさくと軽く地を踏む音が届く頃には、彼女は僕の視界に入っていた。項垂れた先輩の、その随分と後方にじっと立ち止まってこちらを向いている彼女の顔は、街頭の光からやや外れていて見ることはできない。それなのに、僕は一つ、漠然とした確信を持って彼女を見つめる。
「どうして、こんな思わせぶりなことなんてするんだ」
掴まれたままの手首に走る血がせき止められて、じんじんと冷たい熱さを伝えてくる。
僕の視界に入ったまま、彼女はゆっくりこちらに踏み出してくる。
ああ、やっぱり――
「好きだから、君を知りたいのに」
真っ直ぐな彼の眼差しに遮られて一瞬見えなくなった彼女は、彼の肩越しに再び目にした時、ほんの数センチ先まで近付いてきていた。
女性は、僕と同じ顔のつくりで、哀し気な眼差しを僕に送っていた。
「…久しぶりだね」
「え?」
ボソリと呟いた言葉は小さすぎて近くにいた彼にすら届ききらなかったようだ。
薄く眉間にしわを寄せた彼が僕に回した腕を解いて、今度は肩を掴んで怪訝そうな視線を送ってくる。けれど僕はそれには目を向けず、一瞬にして消えてしまった彼女の残像だけを眼裏に映し出した。
「死にたくなかったんだ」
「……え?」
「あの時はまだ小さくてそうする事しかできなかったけど、もう逃げちゃ駄目って、事なのかな」
「…何を言ってるんだ?」
「先輩、ドッペルゲンガーって本当ですかね」
「はぁ…?あの、何を言ってるんだ…っ?」
「もし本当なら、僕は死んだってことになるのかな」
独り言のように呟いている僕に焦れたらしい彼は一層強く肩をつかんで、更に強い視線で僕を射抜く。
まるで睨んでいるようなその視線には、けれど戸惑っているような色が見える気がしてならない。
「聴かせてください。先輩は、僕を、どう思いますか?」
唐突に問うたせいか、ビックリしたように間の抜けた顔をして、それでもどうにか彼は質問に応えてくれた。
「僕、なんて男の子みたいだ」
その答えに今度は僕がきょとんとして、そして次には自然と笑みが零れた。
(2007/7/24)