宵ヶ淵(シリアス/迷信/ファンタジー)
あることをきっかけに自分の考えに疑問を持った男の取った行動。
美しいもの。
それは切り裂くもの。
醜きもの。
それは足掻くもの。
けれどそれは同時に、
とても尊きもの――
一歩先には雨が降っていた。
雨は空の涙だ。
悲しみをすべて吸い上げ含んだソレを、憎悪を込めて別ったものへと返す。
東雲の空はその刹那を以って輝き、私のこの穢れを浄化してはくれないだろうか。
清水のそのせせらぎはこの身をその本流に溶かしてはくれないのだろうか。
世俗に染まりきり、もはやもとの色すら垣間見ることすらもできないこの身を引き摺って、私は只管歩を進めた。けれどその幅は小さく、滴り落ちる自らのものではない朱が呪縛のように纏いついては私の歩みを阻んでいる。
これはきっと呪いなのだ。
潔く在れ。強くその身を誇り、何者にも恥じぬその伸びやかなきらめきを翳らすことなく捧げ奉れと。そのためだけに生まれ、これまで存在し続けてきた私が役目を果たす寸前になって皆を裏切ったための、その。
永く植えつけられたその志はいつからか私自身から滲み出たそれに摩り替わり、あの黄昏の刻まで揺らぐことなく私を支配していた。
そこでまみえたかの君の言葉を受けるまで、私はそれを当たり前のように受け入れていた矛盾を知らずにいた。けれどそれは仕様のないことだったと言えないだろうか。他の思惑が忍び入る隙間もないほどに統一された思想。それは深くそこに根付き続けて皆を支配していた。皆、支配されていることにすら気付かずにいたのだ。
けれど私は反旗をあげた。この身を捧げんと思っていたそれへ、刃の応酬で以ってこの身に迎え入れたのだ。
今尚それに悔いはないが、しかし皆の元を離れねばならぬのは身を切るよりも辛いことだった。それでもその惑いを振り切ってきたのは一重にあの言葉があったから。かの君より発せられた言はそれほど私の本能を刺激した。
かの君はこう仰られた。この風習は間違っている、これではお前が良いように利用されて終わるだけ、お前が消えた後も彼らはのうのうとお前から奪った権利に群がり続けるだけなのだ、と。
皆のためならそんなことなど厭わない、はじめはそう返していた言葉も日を重ねても一向に変わることのないかの君の言を聞くうちに、本当にそうだろうかと思い始めた。根深く私に息衝いたそれはそれから数日経っても数十日経っても拭い去ることはできなかった。けれど、わからないならそれでいいのだと、救いの手を伸べてくださったかの君は助言すらも私へ与えてくださった。
その助言により、惑いが拭われたのはまさに行動を起こす寸前のことであった。
かの君は…
かの君はどこにおわすだろう。
あの方が救ってくださったこの魂を、それならばあの方の傍であの方のために使いたい。
かの君は、どこに――
自らのものではない、けれど自らのそれもが交じり合った朱がゴプリと一度大きく溢れ、倒れた私により深く入り込んだ無粋な柄を伝って地へと染みこんで行った。
ザ、ザ、と砂を踏む音が骸へ近付く。
生者であろうことを疑わせるその真白い腕は骸、いや、骸へとうつろう躯へと伸ばされ、触れる。
クッと片方だけを引き上げられたその笑みは眇められた眼と合間ってその秀麗な顔を不思議と完成へと導いているかのようだった。
人目には既に黄泉路へと旅立ったかに見える若者をその腕に抱き、真白き隠者は立ち上がる。
「横槍を入れて、何をするかと思えば」
隠者の後方より投げられた声音には呆れよりもからかいが言葉を彩って届く。それにゆうらりと振り返る口元には変わらぬ笑み。けれど確実に孕む色を変えた歪みが浮かんでいる。
「あんな小物に譲るには惜しかろう?」
嘲るような、誇るような、それとも別の何かを含む言葉には聞く者を震わせる艶が輝く。
それは獲物を手に収めた堪えきれない喜悦か、はたまたこれより手にする更なる愉悦への底知れぬ期待か…。どちらにせよ込められた隠者の高揚はあまりに強く、上等な神経などすぐに腐らせてしまう猛毒を孕んでいた。
「ここに先がないと知れたら、その坊やはどう喚くかね」
「どう喚こうと栓なきこと」
「ま、そうだろうがな」
話はこれまでとばかりに歩みだした隠者は、けれど瞬きのうちにその場より朝霧のように掻き消える。
「栓ないこと、ではあるが…ねぇ」
ぽつりと零されたその言の葉の先を紡ぐ者も、寸瞬のうちに霧の如く姿を消した。
曙色に染め射られた山間の村には僅かに朱色の煙が混じってくゆり、やがてはそれも大気に消えた。
(2007/5/1)