流るる時の水(シリアス/過去/交互視点)
少年成長記、の青年版。
不意に駆られた激情に慣れることはなかった。
普段は大人しく極力人の目に留まらぬように振る舞って自分の中の獣を慎重に隠してきた。
それ以外のどんな方法も、俺はまだ何一つ知らないでいた。
あるとき、
魔法の言葉を手に入れた。
これがあれば俺は獣を隠し通せる。獣を護ることができる。
獣を傷つけないことが俺の急務だ。何故なら獣の傷は全てそのまま俺に降りかかるのだから。
魔法の呪文を手に入れた。
それがあれば、俺の中の獣は眠り続けて表に出ない。
それから世界はとてもがらんとした世界へと変貌した。
俺はきっと、人の中にあってこそ意味のあるものなのだと思う。
逆に人から離れた俺には何の意義もないのだとも言える。
他人と衝突するほど強い自我はなく、ただ流されるままに日々を費やすことに今は何の抵抗もない。付き合いだけは人一倍長かった性格は対極にでもあるような友人には、結局彼が故郷を離れるその時になっても理解されることはなくて、本気で怒ったとき特有の皮肉な冷たい笑みが最後の記憶だ。
それは今思い出してもなんとも苦い記憶だ。
彼は知らなかったのだ。
自分を曝け出し、むき出しになって無防備のまま相手にぶつけても、それを相手に受け入れてもらえる確率はどんなに頑張っても半分しかないことを。
受け入れられなかったとき、それまでの行程で受けた傷が決して癒えずに残ることを。残してしまう怖さを。
彼は知らなかった。
知ることができなかったのだ。
何故なら彼は
とても強い、人間だったから。
意識を飛ばしていた数瞬、場違いな、でも根強く寄生した記憶が甦っていたらしい。
俺の目の前で本人は魅力的だと思っているのだろう表情でこちらを見つめている男に、俺も口元を緩ませた表情を返す。
人間にテレパシーの能力が備わっていなくて良かった。そんなものがあったら俺のような人間には人の中で生きていくことは叶わなかっただろうから。
自分を見せず、他人を拒絶し、同時に他人の中にいることを望んでしまうこの矛盾はなんなのだろう。
人恋しいのとは何かが違う。
他人の体温も優しさも、俺は求めてはいない。
期待して裏切られることには、もう出会いたくない。
と、そこまで考えて思い至る。
もう、ということは過去にそれを経験したということだ。
一体いつ、俺はそんな過去を経たというのか。
思考は中途半端なまま、上辺だけしか綺麗さの窺えない笑みを貼り付けた男によって投げ出された。
暗闇の中、誰かが泣いている声が届く。
ああ、またあの夢だ。
そう判断して、俺はゆっくりと据えていた腰を浮かす。
夢。そうわかっていても、それを何度も繰り返していることもまた繰り返していくだろうことも、何の救いにもならないことをも理解してる。
それでもそうしないではいられないってこと、あるだろ。
意味はないかもしれないけど、価値はある。形にならなくても俺の中だけでそれがあれば充分だ。
泣いている声は子供のものだ。
正直言って俺はガキが好きじゃあない。無駄にでかくてトーンの高い声でぎゃあぎゃあ喚くのなんてオンナのヒステリーそっくりだ。
俺はマゾでもサドでもないからそんなもん聞いても嬉しくなんかない。むしろ不快だ。夜中に大騒ぎしてる酔っ払いやら大喧嘩かましてる近所迷惑な奴らといい勝負だ。いっそ公害指定されるべきだとすら思うね。
あぁ、でも。
この声だけは何度聞いても不快じゃない。
実際耳にしてるわけでもないのに、脳が勝手に頭痛まで引き起こしてくれるほどガンガン俺の神経をすり減らしてくるのに、だ。
とすると俺は立派なマゾなのか…?
いや、人間開けちゃいけない扉のみっつやよっつあるもんだ。決して逃避じゃない。自衛手段の一つだ、うん。
泣いているのはいつもと同じ、幼馴染の小さい頃の姿だ。
多分7歳ごろ。小学校に上がるか上がらないかの頃合だと思ってる。なんでそんな推測が成り立つかって、それは至極簡単なことだ。
これを最後に、あいつは泣くことをしなくなった。
他人に期待することをしなくなったんだ。
体中の水分が全部なくなるんじゃないかって心配になって、終いにはよくそんなに出てくるもんだと呆れるくらい。でもそれだけこいつにとって大きなことだったんだってガキだった俺にも嫌でもわかるくらい切実な涙だった。
俺は最初はいつもみたいに叱り付けたんだ。男だったら簡単に泣くなって言いながら、その実つられて俺まで泣き出すのが怖かったから。情けない俺なんて見せたくなくて、でも堪えきれなくなりそうでいつも以上にキツク叱り付けた。
それでも泣きやまないそいつを前にして、俺は正直戸惑った。
いつもなら俺が怒ると、俺に嫌われたくないあいつは必死になって泣きやもうとして失敗してた。それを見ていつも変な顔だと言って笑ってやって、あいつが笑い返して、それでケリがついていた。
でもその時はその兆しすら見えなくて、困った俺は一番しちゃいけないことをした。
あいつから逃げ出した。
しかも、最低な捨て台詞を残して、あいつを置き去りにして。
次に会ったときのあいつはいつもと変わらないように見えて、その実確実に違うものになってた。うまい言葉が今でも見つからないけど、あれは、壊れてしまってたんだと思う。陳腐な言葉だけど、心が。
壊れたものを中に詰め込んだ器が無理矢理人の形をとってるような脆さがそれからのあいつには常にあった。
俺が逃げたせいだとは認めたくなかった。
でも、人形みたいに人の言うことばかりはいはいと聞いて、自分の意思を置いてきぼりにしてるそいつを放っておくことはできなかった。いつも傍にいて何度もそれじゃ駄目だと言って聞かせたが、つぎはぎの隙間だらけの器からは風のように通り過ぎてただ流されるだけだった。
その様は以前の幼馴染と姿が同じだけの紛い物にしか見えなかった。
成長して自分のしたことを振り返れるようになってから、俺はようやっとあの時投げた言葉があいつを砕く決定打となったのだろう事実を認めた。
そうして今度は罪の重さに耐えかねて、その証から逃げ出すために、再び過ちを犯した。
あいつは今、何をしているだろうか。
逃げた先の殺伐とした、あいつのいない世界でいつも思っていた。
今でもあの町にいるのだろうか。
俺を恨んでいるだろうか。
それとも
忘れて、しまっただろうか。
向き合うことができなくて、ひたすら俺を押し付けた末に俺はあいつから逃げた。
その先には、何もないというのに。
あれから数年。
あいつは、まだあの町で
人形のまま、日々を暮らしているのだろうか――
そういえばいつからこの男とこうしたことを続けてきたのだろうか。
思い返してみても細かいことは覚えていなかった。ただ、夜を一緒に過ごした後、チェックアウトを済ませてからカフェに入って一緒に朝ごはんを食べて。そんなサイクルをそれなりに長く続けている気がする。
今日入ったカフェは時間のせいかひどく混んでいて、道路に面した壁際の席しか空いていなかった。
いつもは店の奥まった席を選んで座る俺は視界の端が明るいのも、たくさんの他人が通り過ぎるときに作る影が横切るのにも落ち着かなさを覚えて、普段はもっと冷ましてからゆっくり飲むコーヒーを一気に飲んで早々に店を出た。
少し低い音のドアベルが、俺の後ですぐに鳴る。同時に何歩も離れていなかった俺の腕を捕らえた。
男はいつもの思い込み甚だしい顔に、昨夜の余韻を滲ませた滑稽な色を浮かべて耳打ちをしてくる。そういえば次の約束をまだしていなかった。男の指定した日時を了承し、体に巻きついた腕が離れるのを待っていたら何かに強く引っ張られ、そのまま別の何かが俺を抱きこんだ。
俺は目を見張って驚いた。
何故なら、今閉じられた瞼の二重のラインまで見分けられるほど間近にあった男の顔が、醜く歪んで大きくよろめいた様を見てしまったのだから。
けれど、
「あんた、今こいつに何したんだ…っ」
そんな驚きは、真後ろから聞こえた声に掻き消された。
凪いだ鏡の湖面がわずかに震える。
ふらつきながら俺の後ろにいる存在に鼻息荒く突っかかっている、いつにない険悪な表情と声。
いつも忌避していた他人のその感情の波ですら今の俺には届かなかった。
だって嘘だ。
彼はここにはいないのだ。
俺は、彼が去っていくのをこの目で見届けたんだから。
それでも
彼の声を聞き間違えることはできなかった。
「なんで…」
都会のそれよりも随分背の低いビルとビルの間の日影は、この時期のこの時間、長くいるのにはとても寒い。
それでも、この手の震えはそんな寒さの介入のせいではないとはっきり自覚できる。
男と乱闘、というよりも一方的に彼が男を殴りつけていて、カフェの店員が呼んだらしいパトカーの音に追われるようにしてここへ駆け込んだ。小さな町のことだ。きっと今頃は暇を持て余した町の人間に格好の餌食となっているだろう。
「早く、帰った方がいいよ。みんな騒いでるだろうからいつ、鷹也に気付くかもしれない。…昔と、全然変わってないから、余計」
俯きながらそう言い終わると、あとは自分の心臓が動くやけに早い音だけが耳に聞こえる。
旋毛の辺りに痛いほど強い視線が注がれているのがなんとなくわかる。
その視線が告げている。顔を上げろ、目を見て話せ、と。
それがわかっても、俺は彼を視界に入れることができない。
だって、もし俺の汚れが彼を捉えた視線から感染してしまったら?
彼の視線に。失望の念を垣間見てしまったら…?
他人に期待なんかしない。
受け入れることも受け入れられることも何も望んだりなんかしない。
けれど、彼は他人じゃない。
彼は、彼以外の何かじゃない。
だから、俺は彼を…彼に――
「帰りたいよ、俺だって」
心臓が、一際大きく脈を打つ。
咄嗟に彼を見上げてしまう。
駄目なのに。
彼を汚してしまうのに。
彼に。
縋ってしまいそうになる。
心が悲鳴を上げそうだ。
「帰って来いよ霞依」
滲んだ声につられる顔を見られたくなくて霞依の腕をぐいと引く。
いつの間にこんなに細くなったんだよ。
ちゃんと食ってんのかよ。
いつか、そう遠くないうちにその不安定な心と一緒に器まで壊れてしまうとか、そんなのは嫌だからな。
こんないくらも力を入れてないのにぎしりと軋む細くて脆い体を俺は知らない。
帰って来い霞依。
心ごと。壊れかけの体ごと俺のところに帰って来い。
今度は逃げないから。今度こそ向き合うから。
だから。
「帰って来い、霞依。俺のカスイを返してくれ」
溶けた雫は、一体どちらが先だっただろうか――
雫は呼び水となって
眠りの淵を揺らす。
(2007/2/11)