朔(コメディ/学園物?)
他人を惹き付けてしまう体質の柳と、何事にも興味を示さないカサネ。
厭が応にも、他人を惹きつけて止まない。そんな人種は確かにいる。
誘蛾灯のように、天を巡る太陽のように、己の意思とは関係なく他人を巻き込んで放さない。そういう奴はきっと、磁場を細胞レベルで組み込まれてしまっているんだ。
磁場に囚われ、捉えられたことにすら気づかない羽虫なんてそいつらにとっては何も価値が無い。何故ならそいつらにとって羽虫は、自身の生活にずかずかと土足で上がりこんでくる害虫でしかないからだ。
他の磁場保持者にとってみれば異論がある発言かもしれないが、俺にとってしてみればこれが真実。
だからこそ俺は、俺に引き寄せられることのない存在を求めて止まない。
私立鶯昂学院は緩やかだが長い坂の上にある。
住宅街の中に建ち、駅からも五分とかからない立地は通学には好条件といえなくもないが、その全てが坂を登る時間となれば少々難がつく。偏差値は上の下、その上校風にも何の特徴も無く近辺には同レベルの公立校があるとすれば、自然と人の足は遠ざかるのが常だ。それでもこの学院へ入学するべく努力する学生が絶えないのは、偏にこの学院の生徒会に所属して箔をつけるために他ならない。鶯昂学院生徒会とは一流大学、ひいては一流企業への進出するための最有力の切符になるのだと実しやかに囁かれていた。
そんな周囲の野望に満ちたある種混沌とした空気の中、何の野心もなさそうに試験会場へと吸い込まれてゆく影があった。
歩くことすらダルそうな影は、その場の目を余すことなくひきつけた。寝癖のついた焦茶の髪、不機嫌そうな口元、見るからにやる気が無いというように丸められた背中、そんな中でそこだけ不自然に強く光る眼差し。
その不安定な、けれどどこか心を捕らえて放さない雰囲気を持つ少年は、周囲に目もくれずにひたすらダルそうに歩いていた。
少年が通った痕には、慌てて手放していた競争心を取り戻す学生で溢れていた。この学院に入るため、そして再びあの少年を見るために試験に臨む気迫に、試験監督官たちは背中に冷や汗をかいて試験終了時刻を待ち望んでいたのだった。
入学から三ヶ月。絶えず纏わりつく視線にうんざりしていた柳は、向こう一ヶ月間この煩わしい視線から開放されることを心から喜んでいた。
周囲に煩わされるのは今に始まったことではない。物心がつき、周りへ目を向けられる年頃から既にこの状況は始まっていた。好意、悪意、羨望。その他、特に名前すら付けられないほど些細な注意を向けられることには未だに慣れない。これからも慣れないだろうし、そもそも慣れるつつもりも無いのだ。
柳自身、視線に気付いた当初は色々と画策し、どうにかできないかと奔走したり頭を悩ませたりもした。けれどもどれだけ努力をしても変わらない状況にいつしか諦めと妥協を覚えた。
人の興味を否応なく惹いてしまうのは体質なのだから仕方がない。だからといっていちいちそれに構っていてはストレスが溜まる一方だ。それならば、それら全てを無視してしまえ、といった具合だ。
幼い頃からの悩みに、そう結論付けたのはつい最近のことで、それを身に染込ませるには未だ時間がかかるだろう。
そんな中で大勢の人間が集まる終業式などは、柳にとっては害にしかならない行事である。早々に教室を抜け出し、やや熱気のこもる視聴覚室へと忍び込んだ。本当は屋上へ行こうとしたが、先客がちらほらと見えたため撤退してきたのだ。
誰もいない空間に満足して、窓辺へと移動する。カラカラと硝子をずらせば意外にも爽やかな風が入ってきて涼をもたらす。その涼しさに口元を緩め、近くの長椅子へと体を横たえた。
「こんなノビノビすんの、どれくらいぶりかな」
バイト先でも学院でも人の気配に煩わされているため、落ち着くことができない。
一人住まいで生活費を稼がねばならないために、唯一安心できる家にいられるのは眠るときくらいだ。それも夏休みの間はほんの少しではあるが緩和できると思うと柳の胸は躍った。
一人になれた安堵からか、普段の疲れが出たためか、風音にまぎれて柳の寝息が聞こえる。それは暫くして外から生徒たちの喧騒が届き、やがてはそれすらなくなった後も聞こえ続けていた。
「ふえっくしっ」
柳は自分の盛大なくしゃみで目が覚めた。
辺りは既に暗く、天辺には月が煌々と輝いていた。時計を見れば午後九時を指している。
「ヤベ!バイト…」
と焦ったのは一瞬。どうせ今から行っても働くのは一時間にも満たない時間。今更遅刻の連絡を入れても仕様が無いだろう。どうせ明日もシフトは入っているし、風邪を引いたとでもいえば何とかなるだろう。夜風に吹かれていたため風邪はあながち間違いともいえなさそうだ。
そう判断して今日はこのまま帰ろうと、窓を閉めて視聴覚室を後にした。
教室へ寄って鞄に荷物を詰める。ついでに机の上に置かれた通知表も詰める。毎度ながら見せる相手がいないのがもったいないほどの評価が並んでいたが、柳にとっては価値など無いものだったのでぐしゃぐしゃにして突っ込んだ。
誰の視線も感じなければ、意外に居心地の良い教室に小さく驚きつつ廊下へ出る。と、目の前が突然白くなった。
「…学生?こんな時間に何をしてるんだ」
つかつかと近づいてくる足音の主を見ようと目を眇めて前を見る。強い光に僅かに慣れた瞳は相手が青っぽい色のシャツを着ていることしかわからなかった。
けれどそれで充分だ。この時間この状況から察するに相手は警備のものだろう。別段後ろ暗いことがあるでもない、素直に理由を述べれば少々小言を頂戴するだろうが何とかなるだろう。
そう、小言ぐらいはなんでもないことだ。柳が堪えねばならないのは誰かの視線に晒されなければならないことだ。
「ちょっと、寝過ごして…」
この後なんと言えば一番早く開放されるだろうか。
柳は少しでも相手の視線から逃れるために俯き、ひたすらそのことだけを考えた。
「へえ。何でもいいから早く帰れよ」
「……え?」
あれこれと考え込んでいたため反応が遅れる。
「だから早く帰れって言ったんだよ」
言うが早いか守衛は踵を返していて柳を見ていない。
こんな、ものなのだろうか。
あまりにもあっさりした受け答えに呆然とする柳の耳に
「ああ、昇降口はもう締まってるから守衛室のドアから出てけよ」
戸締り面倒だからそこらの窓から出てったりするなよー、とのんびりした声が届いたきり、あとは遠ざかっていく足音しか聞こえなかった。
生まれてこの方こんなにあっさりとした会話は初めてだった。そのことに彼へ僅かな好感を抱いたが、これから先会う事は無いだろう。
柳も家へ帰ろうと出口へ向かおうとする。しかしそこで、目的地が学院のどこにあるのか知らないことに気付いた。
この3ヶ月間、学院内のさまざまな場所へと赴いていたが、それは人気の無い場所を捜し歩いた末行き着いたのであって、人の気配のある教室類、職員棟、ましてや守衛室などそこにあるのか見当すらつかない。となれば、先ほどの彼に場所を訊くのが一番だ。
しかし、と柳は躊躇する。多少彼を好意的に思ってはいても、長年染み付いた自分へと向けられる視線に対する嫌悪感は根深く、柳の方から誰かに話しかけることは極力避けてしまうのだ。
暫く考えた後、柳は自力で出口を探し出すことに決めた。校内は広いが無限に続くわけでもなしに、目星をつけて探せばすぐに見つかるだろうと、階段を下って行った。
暗く長い廊下に漏れ出す光が見える。
件の守衛室はあそこか、と柳は疲れた足を引き摺って光へと近づいていく。
あれから悠に二時間が経過している。予想以上に広い校内と、見慣れていたはずの場所が暗闇によって見覚えの無い場所のように見せられたため、結局校内を余すところなく探索することになったのが原因だ。
山の上に建つ学院の夜は思いのほか寒く、温かい飲み物を求めて自動販売機の探索を優先したことも影響している。苦労の末に見つけたそれには今の柳には殺人的な冷たさに思える液体しか置かれていなかったため、正に骨折り損のくたびれもうけというヤツだ。
そんなこんなで冷えた体を抱えたまま漸くここへとたどり着いた。ぐずぐずせずにさっさと帰ろうと半ば早足になると、疲れと冷えに冒された足は見事に縺れて冷たい廊下へと倒れた。
受身を取りそこねたために強かに打った顔を覆って悶絶している柳の頭上から、不意に声が降ってくる。
「キミ、まだいたの」
顔を上げればそこには先ほどであった彼が、困惑と呆れと驚きの混ざったような、なんとも言いがたい顔でこちらを見ていた。
あからさまに面倒くさいと言わんばかりに手渡されたカップを冷えた手で包み込むと、漸く柳は安堵した。指先にじわりとした熱をもたらすそれは、けれども口にすると驚くほどにぬるかった。
「…コレ、ぬるいんだけど」
「お子様には丁度いいだろ」
そう言って伸びてきた手に擦れて赤くなった鼻を抓まれると柳も二の句が告げなくなり、大人しくカップをすする。
「それ飲んだらさっさと帰れよ」
ソファーに寝転んだ体を起こしもせず言い放つ様に、柳は好奇心をくすぐられる。自分に関心を持たない彼だからこそ会話をしてみたい。今はそっぽを向いてしまった顔をこちらへ向けさせてみたいと、子供のような純粋さで悪戯心を起こしたのだ。
「あんたいくつ?」
「………」
「あんまり老けて見えないけど童顔なの?それとも見たまんまの歳なのか?」
「………」
「そんなに面倒くさがりなのになんで守衛なんてやってるの?」
「……グゥ」
初めて返った応えに苦笑しつつ空になったカップをテーブルに置き、静かに立ち上がって背中に近づく。
「早く帰れよ」
「寝てるんじゃなかったっけ?」
「誰かさんがいるせいで寝られないもんで」
「じゃあ、一つでいいから質問に答えてくれたら帰るよ」
笑い含みにそう言うとちらりと肩越しに向けられた視線に、にんまりと笑って見せた。
暫くの沈黙の後、いかにも大儀そうに起き上がり、けれども何も話し出そうとしない彼に柳は要求が受諾されたものと理解した。
そのことに更に笑みを深め、さてどんな質問をしようかと考える。柳へと視線を向けさせたくて言っただけの言葉ではあるが、折角のチャンスだ。どうせならちゃんと身のある質問をしようとあれこれ考える。
「あと十秒以内に言わないと答えないから」
「えっ?」
じゅーう、きゅーうと早くもカウントダウンを始める守衛に柳は焦る。
「ちょっと、それじゃ俺帰らないけどいいの?」
「制限以内に訊けばいいだけだろ。帰らないなら追い出すからな。ろーく」
「お、横暴!ケチ介!」
「俺はそんな名前じゃありません。さーん」
「じゃあ、名前なんていうんだよ!?」
やけで叫んだ柳の言葉にぴたりと数え声がやむ。とっさに口をついてしまったが、あながち悪く無い質問だと柳は内心で自画自賛した。
「…名前なんて知って何が楽しいんだかね」
ぶつぶつ言いながらもサネモトカサネだ、と名乗る。どういう字を書くのかと訊くと誠実の実に元気はつらつの元で、あとは平仮名だと教えてくれた。柳は説明している口調とその内容のアンバランスさに思わず笑ってしまった。
すると憮然とした顔で、
「どうせ女みたいな名前だよ」
とどこか拗ねたように呟かれた。どうやらコンプレックスなのだと更に声に出して笑う柳の襟首がむんずと掴まれる。
「質問には答えたぞ。とっとと帰んなさい学生」
「なにすん、降ろせってなあ!」
細身に見える体のどこにそんな力があるんだと訊きたくなるほどにビクともしない腕に引き摺られ、そのままドアを開けて外へと放り出される。そしてすかさず閉められた扉のバタンと言う音が、夜の校舎に響く。
犬猫のように扱われ、少々自尊心を傷つけられてドンドンと扉をたたき、文句を言う。二、三分ほどそうしていたが一向に反応を示さない相手と、ジンジン痛む拳に柳はその場を後にした。
「実元かさね…。カサネさんね」
寝過ごしてバイトを無断欠勤して、挙句は校舎内で出口を求め散々彷徨って、けれども初めて自分に興味を持たなかった相手を見つけた。
そのことが無性に嬉しく思えて、日のあるうちに見たのなら不審に思われるだろう笑みを口元に浮かべつつ駅までの道を軽やかに降っていった。
何故か他人を惹き付けてやまない柳と何に関しても無気力なカサネの、これが出会いの夜。
静寂の戻った学院の校舎にはどこからともなく盛大なくしゃみの音が響き渡った。
(2006/8/14)