ラプンツェル
二次創作
その塔には扉がなかった。
近郊の村に住む幾人かの若者たちは暇を見ては塔へ赴き、内部への入り口を探る。そこには好奇心などと悠長な動機はなく、あるのはひたすら日々の糧を得る足しになる何かがあるのではないかという堅実な願いだけだった。
けれどそこには遥か高所に空いた物見窓が一つあるのみで、進入路となりうるウロも仕掛けも見つけることは出来なかった。そして若者たちはあるかどうかも知れない不確かな糧よりも、地道な労働を選び帰路へ着く。
幾組か目の若者たちがそれぞれの持ち場へ戻るのを見ていた、どこか疲れた顔をした中年の夫婦は彼らの辿って来た方向へ視線を向ける。
村の周辺一帯に群生した常緑樹からひときわ高くそびえたつそれを、人々は幸呼の塔と呼んだ。
白く細い月が冴え冴えと天に君臨する頃、地上のどこよりも空に近い窓からスルスルと下ろされた何か。それをたどり、一つの人影がゆっくりと塔を上がっていった。夜虫も眠るこの頃、周囲にはかすかに縄の軋むような音が漏れ聞こえてくる。
しかしそれもやがて途切れ、辺りには静寂が戻った――
「んもー!ばあ様、またふくよかになられたんじゃないのっ?さっきから首がぎっしぎっし言ってもげちゃうんじゃないかって冷や冷やしたんだから!」
「相変わらず口の減らない子だね。あんたのその馬鹿みたいに長い髪の手入れを誰がしてやってると思っているんだい。道具もなにもアタシが揃えて来てやっているってのに感謝の一つもないってのかい。全く、親の顔を見てやりたいね!」
「ばあさまがこんなところに閉じ込めるから悪いんでしょ!私だってできることならとっとと出て行ってやりたいわよこんな所。第一!私を親から引き離したのは自分の癖に、どの面下げてほざくんだかこの厚顔婆ァ!」
轟くのは月の化身とも見紛うばかりの髪の長い少女と、深い皺が幾筋も刻まれた、小柄ながら背筋の伸びた老女の声。双方から発せられる言葉は外見から激しく差があった。
月の冴える神秘の夜が、こうして罵詈雑言の応酬に彩られていたことを、誰も知らない。
また別の夜。
長々と埒のない応酬を終え、本来の目的遂行へ移った。只でさえ体力と根気のいる作業を前に、体力を温存しようなどという考えは二人の中にはない。互いに肩を大きく上下させ呼吸を繰り返す二人の様子はとても他人とは思えぬほどに似通っていた。
「いたたたたたたたたたっ!ばあさま引っ掛かってる引っ掛かってる!もっと優しく梳いて!」
「このくらい我慢おし!大体何だいこの髪は。毎回丁寧に世話してやってるって言うのに途中でちぎれているわ艶はないわ傷んでいるわ。喧嘩でも売っているのかい?」
「だからっ、ばあ様がこれでもかってくらい引っ張るからじゃないの、登るときに!私だってつやつやきゅーてぃくるな髪の毛の方がいいわよ」
「文句があるんなら自分で登ってごらんよ!アタシみたいな年寄りにはただでさえ辛いってのに、これ以上を求めるんじゃないよ」
「嫌よ、やるわけないじゃない。だって私高いところ大っきらいだもの」
「全くなんて子だろうね!恩を受けながら仇で返すなんて、とんだ恥知らずめ!」
こうして、今宵も月の静寂は脅かされる。
「ねえばあ様。もうさ、私、腹くくることにしたわ」
「いきなりなんだい、藪から棒に」
いつになく穏やかな夜。赤みの増した月がやわらかく夜を包んでいた。
「だから、腹をくくることにしたの。あのね、別に突然言い出してるわけじゃないのよ?ずっと考えていたの。ばあ様ももう年だし、いつまでも私の面倒を見させるわけにはいかないでしょ。というか、本当なら私の方がばあ様を世話するべきなのよね」
「…おかしなものでも食ったのかい?アタシの持ってきた食い物に問題はなくても、腐らせたのを意地汚く食ったとか、生えてきたキノコを食って当たったとか」
「誰がそんなことしますか!っていやいやそうじゃなくて。…だからね、決めたの。私、ここを出るわ」
「……何だって!?」
「そもそもきつく編んだ髪が地面まで届くのなら、髪を切ってしまっても編み方次第で長さの問題なんてなくなるわけよねっ。それでも包丁で切るのはちょっと不安だったからばあ様の持ってきてくれるはさみを待ってたのよ」
「ちょっとお待ち!何を考えてるんだい!」
「あったあった。えーと、とりあえず背中くらいまで残ればいいかな?すぐ伸びるし」
「お待ち!あんたの髪はアタシのお気に入りなんだよ?それを切るなんてあんまりじゃないかい?」
「ええ、じゃあここから出たらまた伸ばしてあげるわ」
「馬鹿なことお言いでないよ!その質の髪が一体どれだけ手間がかかると思っているんだい!ろくに日の入らないここだからその程度の痛みで済んでいるんだよ!一日中日に当たるようになったら、どれだけ値が崩れることになると思っているんだ!」
「…………」
「…………」
部屋の中に不穏な静寂が漂う。
「やっぱりそういうことなんだ?ばあ様」
「…………」
「おかしいと思ってたんだ。時々、毛先を揃えるには過ぎるくらい切られてると思ってたもの。…そう、私はやっぱり金づるなのね」
うつむいた少女に、目を彷徨わせつつも終いにはそれを座らせてから少女へ向け直した老婆は口を開く。けれどそれは映した少女も満面の笑みに、いっとき音を失う。
次いで、その音を吸い込み、飲み込んだ。
「そんな事だろうと思ってたわよ、ゴウツク婆ァ」
金属と硬物がぶつかる音の後に衣ずれに似た乾いた音が響く。それはもしかしたら持ち主から離れた長髪が丈夫な柱に縛り付けられる際の音ではなく、呆然とするしかない老婆のうちから生まれる音かもしれなかった。
そんな老婆をしり目に、着々と身支度を整え終えた少女はこれまでにないほど神々しく、晴れやかな笑みを養い親だった存在に向けた。
「それじゃあ、もう会うこともないだろうけど元気でね。本当は背負って降りてあげたいけど、荷物も重いしばあ様ったらしぶとい人だから放って行くわね。あ、ばあ様って私がまだ幼くて騙されやすかった頃にいた小屋にまだ住んでいるのよね?ため込んでいる財は手切れ金代りにもらっていくわ。ああそれから、この髪は選別にここに残して行ってあげるから、せいぜい高値で売ることね。それじゃ!」
窓の縁に足をかけた少女はいったんごくりと唾を飲み、極力下を見ないよう、けれどすばやく塔を降りて行った。
突然のことに呆けていた老婆が我に返り、住み家へ戻った頃には蓄え続けた財どころか値の張る主な家財道具の一切が忽然と消え失せていた。
とある森の中に、程高い扉のない塔が建っていた。
近郊の村の誰もが近づこうとしないそこを、人々は幸乞の塔と呼んだ。
(2010/10/5)