猶予(シリアス)
ブログ短編
その呪文を口にしたら、今のこの関係が終わってしまうのは知っていた。
けれど言わずにはいられなかった。もしかしたら、ほんの少しの可能性にかけてみたかったのかもしれない。
呪文が空気に溶けて、なじんで消えてしまう、その寸前。彼はクッと口端を歪めてこう言った。
"俺も好きだよ"
こうして俺の呪文は完成した。刻一刻と、俺には期限の分からない時計の砂が、音もなく積もり始めた。
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まっすぐ向けられすその視線が、いつもとは違う色を決しているのを見逃すことはなかった。
いつもは厳重に隠し通しているそれが、今は真摯なまでにぶつかってくる。
それが意味するものを俺は知っている。そして俺がそれに答えられないことも。
これは賭けだったのかもしれない。俺が抱く、報われることのないこの想いを振り切るための。あるいは、ほんの少し残された罪悪感だったのかも。
けれどあえてその答えは見つけない。なぜならそれは、意味のないことだから。
普段から好ましく思っていた人物からの精いっぱいのそれを、俺は俺のために利用する。
そんな己を嘲笑いつつ、これから投げる言葉を止めようとは思わない。
そして俺は、彼のあどけない赤らみが失せるその様を見届けた。
ほんの少し疼いた胸の内には気づかぬふりで蓋をした。
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彼との日常は、それまでと変わらずに繰り返された。
俺が笑い、話しかけ、そして彼がゆるく笑んで言葉を返す。
それまでと変わらないようでいて、確実に内側を苛む罅は乾いたそこに領土を増やしていく。
放っておけば、それはいつか崩れてしまうだろう。けれど、その時に起こすだろう俺の行動は、俺の望むものではなかった。
嘘で固められた彼への、俺の意地もあったのだろう。
胸に広がる罅を上から塗りつぶすことで、俺はそれを食い止めることにした。
上塗るそれすらからからに乾いていることも知っていたけれど、ほんの少しでもこの偽りの幸せを長引かせることができるなら、俺も俺にうそをつき通すことくらいなんでもないと思えた。
それはいつしか、痛みという感覚を、俺のうちから消し去ってくれた。
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もともと仲の良かった人間との今までとは違った日常の共同は、それほど苦もなく受け入れられた。
彼から向けられる無垢の笑みは、深く根付いた俺の傷を否定するのではなく、その傷ごと包み込んでくれるような暖かさでもって浸透する。
深すぎた傷は大きな痕を残し俺を苛み続けていたが、彼に触れた指先から癒されていくような気すらした。
このままでもいい。この傷と、その源となる過去を含めてすべて俺なのだと。
否定し、否定され、自らの膿だと思っていたそれなのに、今は殆ど抵抗なく受け入れることすらできるようになっていた。
古傷は時折ひどく俺を苛むけれど、その度に脳裏に浮かぶ彼の全てが、涙に乗せて浄化して行ってくれた。
内心の変化は周囲の認識も変化させていたらしく、以前は考えられなかった輩が俺の周りを囲い始めた。
まるで新世界のようなその状況は俺に新たな光を見せてくれたが、それにつられて煩わしい輩も呼び寄せてしまう。
俺にとっては煩わしく迷惑でしかないそれが、彼の堰を切るその大きなきっかけになってしまったことを、俺は愚かにも彼に告げられるまで気付くことはなかった。
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彼が変わった。
それは悪い方向にではなく、むしろ良い方へ。
けれど俺には歓迎できない方向へ。
俺は別に、あの頃のいわば退廃的な空気をまとわせた彼だから惹かれた、というわけではない。竹馬の友人であったのなら、むしろ喜んで受け入れたであろう、この変化。けれどその光あふれた世界に繰り出す彼の姿は、あまりに眩し過ぎてその背中さえ俺から隠してしまった。
それまでの彼と同じ、どこか気だるげな仕草は、せれどそれまでとはまるで違う事柄に苛まれているようだ。
それはあまりに健康的で、そして世にあふれた若者特有の色をしていた。
彼との在り方に、このまま彼と共にいることに、それは影を落としはしたが決別の決定打とはならなかった。
俺を打ち抜いた弾丸は、そんなものではありえなかった。
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ぶつけるのではなく、放たれるのでもなく、まさに零れるように落ちた言葉を、俺は最初、正しく受け取ることができなかった。
真っ赤な染料が白い布へじわじわ浸透していくように染み入ってきたその意味は俺にかつてない感覚を起こさせた。
信じられなくて、否、信じたくなくて聞き返せば、今度は否応なく突き付けられた言葉が誤りではなかったことが知れた。
何故、と聞き返すことはできなかった。
それは俺が持ちえた最後の分別だ。彼を最初に踏みつけ、その気持ちごと碑に縛り付けたのは他ならぬ、俺自身だ。
けれど、それでも。しかし。身勝手な欲求による言葉を、理性が打ち消して口だけが無様に喘ぐ。
俺は彼に何一つ答えられないまま、けれどそれを彼はあの笑みでもって受け止めた。
無償のものと信じたその笑みで、同じように俺の全てを受け入れた。
そう、思った。
俺の無言の葛藤を受け、彼は静かに背を向けた。
彼は何一つなじることなく、俺の愚かささえも受け入れたのだ。
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日常は変わらない。
太陽が昇り、暖かな日差しは地上に息づく者すべてに平等に降り注ぎ、そして安らかなる慈しみの光に変えて日々を繰り返す。
そう、日常はそう簡単に変わらないのだ。それについていくか否か、個人の都合はそこには関係がない。
彼との決別に対し、後悔を覚えたことはない。
始まりからして不自然だった、一方的に擦れ違う互いの都合のうち、片方が消滅すれば自然ともう片方も同じ道をたどるのが道理だったのだろうから。
彼は、当初の目的ではないにしろ、俺という塗布を有効に使いきったのだ。そして様々なものを目にし、手に取ることもこれからは自由だ。
けれどその中に俺は入っていくことはできない。効果の切れた塗布は宿主の目に届かないところへ行って二度と目に着かない個所に身をひそめるべきだ。
だって、近くにあればそれはいらぬ波を宿主の心に起こしてしまうかもしれない。そうでなくとも、無用となった身でいつまでもまといつけば疎ましがられることだろう。そうはなりたくなかった。
自ら離れるのが、最後の矜持でもあった。
以前ならそんなつまらないものよりも痛みの少ない"今"をとっただろう。
そうならなかったのは一重に、俺が彼との関係で得た、たった一つの成果のおかげだ。
この胸は何も感じない。何故なら、しんしんと落ち続けていた時計の砂はもう、残っていないのだから。
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彼は知っていた。一度失えば、二度とは手に入らないということを。
そして。
彼らはまた、知らず同じ過ちを犯したのだ。
(2009/06/15)