懐かしい客(シリアス)
ブログ短編
例えば、目にかかった前髪が、その近さからぼやけて見えてしまうように、けれど決して近くにはないそれら。至近距離にはないが隣り合う程度には近くあるそれらを、皆は一体どう捉えているだろうか。
戯れに手を伸ばして見れば霞の如き手ごたえを返し、声をあげれば壁に返される響きでもって応える。それらに抱いた印象は、不思議の一言に尽きた。
成長するにつれ、それらとの接し方を学んだ俺は、こちらからそれらへ何某かのアクションを起こすことはなくなった。それらはこちらにそれとわかるような影響は及ぼさない、云わば空気と同じような存在なのだと思っていた。
それが崩されたのはとある夏の夕暮れのことだ。敷地内を掃除していると声をかけてくる者があった。
俺は軽く驚きつつも挨拶を返し、暫し世間話に興じた。その頃にはもう、それらが世になんと呼ばれる存在かを認識していたが、そんなそれらと、目の前の彼との在り様の差に始終関心していた。
彼はそれから毎日夕刻になると現れ、何気ない話を楽しんでは帰って行くようになった。長くはないが決して短くもないこの四半世紀にはなかった現象に、そして純粋に彼の深い知識と翳のない穏やかな在り様に惹かれ、俺も彼の訪れを心待ちにするようになっていった。
その日も彼は現れて、いつもと同じく会話を楽しんだ。その会話中、急に空が暗くなり、今にも雨粒を落とさんとする天候に変わった。
彼は帰ろうと挨拶を口にしたが、彼ともっと話をしたいと思った俺は家に上がっていかないかと彼を引き止めた。けれど彼は…
彼は俺ですら忘れてしまった認識を、俺よりはるかに正確に捉えていた。
彼は束の間寂しそうに笑っていたが、やがて背を向け一歩一歩来た道を戻っていった。そして降り出した最初の一滴が彼に触れる寸前、煙のように姿を消して二度とは現れなかった。
俺は既に見えなくなってしまった彼の背を、石の鳥居に寄りかかりながらいつまでも見送っていた。
雨に濡れ数日寝込んで溜め込んだ仕事を片付け、最後に倉の整理をしていると、古ぼけた木箱を見つけた。幼い頃は遊び場にしていたここで見た覚えのないその箱を開けると埃がたって咳き込んだ。
目に涙を浮かべつつ見た未知のはずの箱の中に、たった一つ既知の存在を見つけた俺は瞠目した。
勢い母に尋ねれば、彼は俺の曽祖父に当たるのだと知った。
そして、母から見た彼を深く知るごとに、彼は俺に会いに来てくれたのだと、改めて得心したのだ。
後に、彼の訪れが旧暦の盆と一致するのだと気付いてから、毎年迎え火を焚いては、もう一度彼と話す日がくることを願うようになった。
(2008/07/29)