あわれな彼の恋人(コメディ)
ブログ短編
味覚音痴な恋人を持つと、苦労するものである。
俺は今窮地にたたされていた。
それと言うのも、目の前には件の恋人が朝から張り切って作った料理がテーブルいっぱいに並べられているからだ。何も知らない者が見れば美味しそうだと唾を飲むだろう程の見栄えがいい料理が。…見栄えだけはいい料理が。ほんの数分前の俺はまさにそんな状態だった。
しかし普段は照れ隠しばかりの素っ気無い態度ばかり取るつれない恋人がこのご馳走を作ってくれたのだ。このまたとない甘い雰囲気を不意にしてしまえば、恐らく次が訪れることはない。
だったら、味はどうあれ完食するしかないじゃないか。
「どうしたの、顔色悪いよ?」
「いや、なんでもないよ」
人間の限界と言う強敵にタケヒゴで挑みながらなんとかひねり出した笑顔で答える。
「でも辛そうだ」
「ん…ちょっと食べ過ぎちゃったから、かな」
あんまり美味しかったからつい、と続けると、恋人は無言で俯いてしまう。前髪でよく見えないが、もしかして、照れているのだろうか。
そんな美味しい状況を見逃しては男が廃ると、椅子から立ち上がろうとした俺は、
「じゃあ少し早いけどデザートもって来るね」
と言う恋人の言葉で、中腰のまま固まった。
パタパタと台所へ消える恋人の後ろ姿を目で追いながら、握った拳に汗が滲むのを感じずにはいられない。
俺は甘い物が苦手だ。本当は甘ったるい匂いを嗅ぐのすら遠慮したいが、甘味を食べて綻ぶ恋人の顔見たさに何度も甘味屋へ連れて行っているので恋人は知らないだろうが。
加えてこの殺人的な味付けの料理を作った本人が手がけたデザート…。
ああ愛しい人よ。
君は相乗効果と言う言葉を知っているか?
ウキウキとした様で戻ってきた恋人の手にある視覚の暴力を見つめながら、俺は心の汗で滝を作り、堪えきれずに卒倒した。
どうしたの、大丈夫か、と呼びかけてくる愛しい声は聞こえても俺から返せるのは不明瞭な呻きのみ。
なんとか体を起こして大丈夫、と言葉を返そうとすれば、言葉ではなく胃の辺りからせり上がって来るものを感じ、恋人の驚く声を背に聞きつつも俺は慌ててトイレへ駆け込んだ。
部屋へ戻って俺は固まった。
大切な大切な愛しい恋人が涙目で俺を見つめてきたからだ。その手には取り皿に盛られた恋人の手料理。
状況が飲み込めず呆然としている俺に、涙目のまま恋人が声をかけてきた。
「ごめん俊明っ!こんなもの食べさせちゃってほんとにごめんなさい~!」
うわーんと擬音がつきそうな泣き声混じりで、涙に濡れた顔でも恋人は飛びっきりに可愛い。
なんて思っていたがちょっと待て。
こんな料理を作ってしまうほど、恋人は味覚音痴なんじゃなかったのか?いや、でもそういえば、甘味屋では美味しそうに、そう、美味しそうに顔を綻ばせてやいなかったか…?
いやいや落ち着け。だって料理の際は必ずあれを…もしかして、しなかったのか?
「…味見は、しなかったのか?」
「あじみ?」
知らなかったのか!?いやいやいや、しかしあれだ、普通に作っていればあんな味には…
「分量はちゃんと守ったのか?」
「分量って、何かあるの?」
「いやほら、本に書いてあるだろう、何人分の材料とか、調味料の量とか…」
「ええっそうなの?俊明って、料理に詳しいんだね!」
普通だろうこれぐらい!
思わず突っ込みそうになったが、純粋な尊敬を込めた目で見られては俺に言える言葉はない。というか、こんなに頬を赤らめてモジモジと俺を見つめる恋人を見て、そんな突っ込みは風の前の塵の如く跡形もなく消え去り、代わりに残ったのは荒くなる鼻息のみ。
期待、してもいいだろうか。むしろ期待されているだろうこの顔は!
今まで健全すぎて接吻すら交わしたことがない俺たちの関係に、今この瞬間、進展と言う名の極楽を与えても許されるだろう!
恋人の肩をがっちり掴もうと上げた俺の両手を、けれどきらきらした瞳のままの恋人にがっちりと掴まれた。
「お願い俊明!料理教えて…!どうしてもおいしい料理を食べさせたい人がいるんだ…」
ああ、なんて健気な恋人なんだ。
俺においしい料理を食べさせる為に俺に料理の指導を頼むなんて…何かおかしくないか、恋人よ?
まさかとは思いつつ、おそるおそるマイスイートラバーに問いかける俺。「それは、誰か訊いても…?」
言った途端にかあっと頬を染めぱっと俺から目を逸らし恥ずかしそうに、内緒、とは言わず、
「武彦に…」
と言った後で内緒だよ、と可愛らしく呟いた。
武彦?武彦って誰だ!?
いや、きっとタケヒゴを言い間違えたんだ。
飯を食べるタケヒゴなんて聞いたことがないが、そうやって己を誤魔化していると、恋人は俺の心も知らずに更に続けた。
「でも良かった。武彦にこんなもの食べさせられないもの。俊明が味見してくれて助かったよ」
恋人の俺よりその武彦とやらのが上なのか?どこまで照れ屋なんだ可愛い奴め!ああでも今はそのツンデレさが痛い。
と一人現実から逃げていると、その逃避すら許さないかのように残酷な言葉が、愛しい、大切な可愛い恋人の可憐な唇から落とされた。
「俊明が友達でよかった」
これからもよろしくね、とニッコリ微笑んだ恋人は、本当に可愛らしかった。
て、恋人だと思ってたのは俺だけ!?
そんな馬鹿なー!
俺はその場で再びぶっ倒れた。
(2008/05/23)