幸禍の盲目(幼馴染/アルコール)
何不自由なく過ごしてきた吾澄。突然全てを失ってから今までの独白文。※アルコール依存による後遺症などの症状は、創作です。
昔の俺の、なんと傲慢だったことだろう。
何の努力も無く全てを手に入れてきた俺は、世界が思い通りになることが当たり前だと思い込んでいた。
少々の障害はあれど、最終的に思い通りにならなかったものは記憶になかった。金も友人も遊び相手も。全てが向こうから寄ってきて、俺は有頂天になっていたんだ。
世界は俺のもので、俺以外の王者を認めることは無いと、根拠も無く確信すら抱いてすらいた。
けれど栄華はずっとは続かない。
たった一つ。けれど莫大な引力を持つ一つを失ってしまえば、当たり前にあった全てが波が引くように離れて行った。
世界が、俺を拒絶したように感じた。
全てを失った俺が求めたのは逃避だった。
水を飲むように、全身で浴びるように酒を飲んだ。朝も昼も夜も、意識が混濁してこのまま目を醒まさないかもしれないと思えるほどにひたすら飲み続けた。
けれど、そんな時必ずそれを邪魔しに来る奴がいた。
当時の俺にとって奴は、ただ俺を苛む邪魔者としか映らず、昔から見慣れていたはずの顔はまるで般若のそれに見えた。
姿を見せる度に喧しく声を上げて俺の手からグラスを奪い取っていく所業は、正に般若そのものに感じた。その理不尽にしか感じられなかった所業に全力で抵抗を試みるも、体力の差は歴然で最後はいつも簡単に床に押さえつけられてしまう。
正常な判断は出来ないくせに、そういった屈辱は自分でも嫌になるくらい鮮明に覚えていた。それを忘れるために更に酒をあおっては、また止められる。そんな悪循環の中に俺はいた。
その日もいつもと同じように次から次へとボトルを開けていた。
この頃はもう体が酒に慣れすぎていて、ちょっとやそっとの量では満足できなくなっていた。けれどいつもと違う感覚が俺を包んでいた。
それが何か霞んだ頭では考えてもわからない。わからないものは考えても無駄だ。
そう結論付けてグラスに液体を注ぎ入れた。入れた、と思った。
手にしたはずのボトルは俺の足元で中身を垂れ流しながら転がって揺れている。何故そうなったのかよくわからなかったが、転がったボトルを取ろうと屈んだとき、ボトルだけでなく視界の全てが揺れ始めた。
薄汚れたフローリング、ボトルへと伸ばした手、面倒でカーテンを開けていない薄暗い室内。辛うじて天井に差し込んだ毒々しいネオン光で、今が夜なのだとわかった。どうせなら最後に見るのは柔らかな朝日なら良かった、そう思って重くなった瞼を下ろした。
沈んでいく意識の中、どこかから澱んだ空気を押し流す風を感じた気がした。
鉛のように重い手足はまるで動かない。
瞼も口も死んだ貝のように閉じて開かない。
それでも皮膚は冷たく降りかかる飛礫を感じた。時折熱い雫が顔に落ちてきた。
それが何故かとても俺の好奇心をくすぐった。また、瞼の上に熱を感じる。意識を凝らしてみると今度は頬に、次いで口元に熱を感じた。何度も何度も。
その内俺はその熱に全身が包み込まれているとわかった。
暖かくて心地よいその熱は、とても懐かしい気持ちを呼び起こす。
それが何か確かめようと手を伸ばすのに、どうしても掴む寸前で靄がかかってしまう。
でもどうしても諦めたくなくて、なりふり構わず手を伸ばして足掻き続けた。
そして突然、伸ばした手が熱に包まれた。
「吾澄」
開け放した扉の外からの呼び声に、ゆっくりと振り返る。
「入ってくればいいのに」
「また酒を飲んでるんだったら止めに入るけどな」
からかうように軽く笑んで言ってくる奴に、水の入ったグラスをかざして見せる。
「何か用だったんじゃないのか?」
「ん、ああ。寛いでるところ悪いが、ちょっと手を借りたくてな。…今、いいか?」
答える代わりに立ち上がって扉へ向かう。
手を伸ばしても少し足りない距離で俺は軽くバランスを崩した。長く酒に蝕まれた体には、それを断った今でも受けた影響が抜けきれないでいる。
倒れかけた体が脇に差し込まれた力強い片腕に支えられ、抱え込むようにもう片方の手が腰へと回される。
耳元で奴の溜息が零れる。呆れているのか安堵したのか、はたまた別の感情か。
腕を回されたまま、支えられて歩き出す。
全て失ったと思っていた。けれど、失ったと思っていたものは元々俺のものではなかった。初めに離れていったものに魅せられて寄ってきていただけなのだと気付いた。
俺は何も失っていなかったのだ。この何物にも代え難い存在はずっと傍にいたのだから。
(2006/7/5)