白か黒か(シリアス/軽い)
父親に言われて行った場所で遭遇した男は、自分を貰いに来たとのたまった。
ふわふわ湯気のたつ『私を飲んで』と言わんばかりのホットミルク。
本当は湯上りに飲みたいところだけれど、体質なのかぽかぽかしている時には気持ち悪くなって飲めない。が、それならそれで他の時に存分に飲んでやるのが俺のやり方だ。
だって人生は短いんだ!
後ろ向きになってたって時間の無駄。ダメなものはダメ。
人生は諦めも肝心なんだってのも俺のモットーだ。
ああでも今の俺には目の前で冷めていくホットミルクの存在が遠い。
「…何?聞こえなかったんだけど、おたく、どちらさんだって?」
できればそのまま答えないで、俺の前から消えて欲しいと願ってしまった相手は、
「はい。貴方のお父上に頼まれて、貴方を戴きに上がりました」
耳遠いんですね、と失礼なことまでのたまってニッコリ笑った。
俺は、人生何があるかホントーにわからないって事を、改めて学んだ。
「大丈夫ですよ、環さん。俺より先に寝たり、俺より早く起きなきゃ追い出す、なんてことは決して言いませんから」
関白宣言を全否定した男は、料理はできないが片付けは得意だと続けて言って、またあの胡散臭い笑顔を向けてきた。なんでも掃除屋をやっているらしいと訊いてもいないのに勝手に色々喋っている。けれど俺が溜息をついたのはそんなことが理由じゃないって事を、誰かこいつに教えてやってくれ。
そう思えてならなかったがここにいるのは俺とコイツだけ。他に誰かいる気配はない。それと言うのも今いる場所はコイツの住処らしい独身男にはちょっと広めのマンションだった。
根本的なことだけど、何で父さんが俺に何も言わずにコイツに俺を預けたのか、そもそもコイツの言っていることは本当なのかと疑った。けれどコイツと会った場所へ行くように言ったのは父さんだし、ここへ来るまでの車の中で電話したところ、直接は話せなかったがコイツと会わせるのが父さんの狙いだったって言うのはわかった。
でも。
「環さん?」
一体、俺を貰ってコイツはどうするんだろうと思った。
あれから何度か試みたが、一向に繋がらない電話をかけることは放棄した。
人生は短いんだ。無駄なことなんてしていられない。
佐紀也と言うらしい男も宣言通り俺がいつ起きようが眠ろうが、ついでに作った飯がどんなに不味かろうが俺を追い出すことはしなかった。住む場所さえあれば他の事はとりあえず、今はどうでもいい。そんなこんなで、俺は佐紀也との生活にも早々に慣れた。我ながら素晴しい順応性だと思う。
「今日の夕ご飯は何だい」
冷蔵庫の中身を確認している時にノシッと覆い被さられたもんで、俺はひんやりした庫内に頭を突っ込んでちょっと咽た。背中の重みは変わらず圧し掛かったままなので、俺は意趣返しに佐紀也の大嫌いな納豆を掴んで鼻面に突き出してやる。狙い通り嫌そうな声を上げて背中から剥がれたのを更に押しのけて、もう片手にワンタンの皮を持って扉を閉める。そこから献立を察したらしい佐紀也は眉間にしわを寄せてブーブー文句をたれたが、それでも俺は気にせず手を進めた。
改心の揚げ色をした納豆揚げの山を前にして、佐紀也は微妙な顔をしつつも箸を止めることはなかった。別段好き嫌いはない俺はと言うと、それを見ているばかりであまり食べてはいない。何分俺は小食なのだ。だからこの揚げ物の山を佐紀也が残さないように見張っているのが、目下俺のするべきことなのだ。だって、食べた後の片付けは佐紀也の仕事らしいのだから、それ以外にすることがない。
最後のひとつまで食べ終わるのを見届けてから、俺は入れたばかりの緑茶を差し出してやる。そうすると佐紀也はとても嬉しそうに笑った。初めて会ったときの胡散臭そうな笑みとは違う、少しだけ親しみのこもった笑顔だった。
俺の夜は早い。人生短し時は金なり、が俺のモットーだと知っている友人たちは、そう言うと大抵意外だと笑うが、健康第一もモットーなのだと言ってやると、環らしいと言ってまた笑うのだ。
全くだとその時は一緒になって俺も笑いに混じったが、この家に来た時、早寝の理由がひとつ増えた。寝台がひとつしかないこの家では必然俺と佐紀也は一緒の布団で眠らなければならない。佐紀也がどんな理由で俺を貰ったのか、そして何故俺の日用品は運んできたくせに寝台は運んでこなかったのか、そんな理由は知りたくもないが、俺は大の男がシングルベッドにひっついて眠るさまなんて想像も実感もしたくなかった。だから佐紀也の就寝時間には常に深い眠りの中にいたかったのだ。
しかし、ああ何故。俺は今起きてしまったんだ。
草木が眠っても新聞屋さんはきっと起きている時間、目が覚めてしまった俺は、俺を抱えるようにして眠っている佐紀也の寝顔を一寸ほど先に見て取ってしまった。はっきり言って寝覚めは最悪だった。できれば見なかったことにしたい。
が、後悔しても仕方がないと割り切り、割り切れないのはこのままの体勢でいることだと寝台を後にして洗面所へ向かう。
用事を済ませて、さてどこで寝ようかと考えていると寝室から佐紀也が出てきた。ちょっとバツが悪そうにもう起きるからと、俺から目を逸らせて告げてくる。その様子で俺は悟ったね。多分、俺の思ってたことにこいつは気付いてる。
溜息を吐いて、リビングへ向かう佐紀也のパジャマの裾を掴んだ俺は、そのまま寝室へ入る。不審げな佐紀也をとりあえず蹴飛ばして寝台に乗せてから俺もあとに続く。
正直、新しくできた早寝の理由を佐紀也に知られているとは思わなかった。でも、知られていないと知らない振りは何故だかできなくて、戸惑う佐紀也の気配を背に感じつつ、俺は知らん振りで眠る振りをした。暫くしてからおずおずと再び回された腕を、夕飯の侘びだと思って我慢してやろうと思ったのは、冷えた体に腕が温かかったからだと、そう理由付けた。
納豆入り出汁巻き卵を、佐紀也は苦悶の表情で食べていたのだ。
ここへ来てから、学校に入り浸る時間が減った。正確には入り浸っていたのは学校の図書館だったけれど。
この学校の図書館はそれが売りだというほど蔵書が豊かだった。実際、それが目当てで進学を決めた者が大勢いる。勿論俺もその一人だ。
深い知性溢れる本、世界の童話を集めた本、地質学の本、その他様々な世界が詰まった空間には様々な人間もいた。そいつらと討論したり、馬鹿話で盛り上がったりするのも楽しかったが、今は得た知識を生かすほうが面白く感じた。とどのつまり、料理の腕を磨くことに意義を見出したのだ。
「何だい、これ?」
「ま、いいから飲んでみてよ」
俺の前には湯気と甘く香り立つホットミルク。佐紀也の前にはこれまた湯気と少々きつく香り立つ茶色がかった液体。
促すまま、ゴクリと喉を鳴らして覚悟を決めたようにそれを喉へ流し込む佐紀也は、途中で咽て。口に入っていた液体を真向かいにいた俺に向かって噴き出した。
慌ててごめんと謝る佐紀也をよそに、口にまで入り込んだその液体に眉がよるのを止められない。どうやら俺にはアイディア料理の才能はないらしい。
できないことは無理に追求しない。これぞ人生を楽しく過ごす秘訣だ。因みにこれは、モットーじゃなくて教訓だった。
それが原因だった訳ではないが、借りていた料理の本を返してから俺は学校へあまり行かなくなった。
その代わりに夜中に目が覚めて佐紀也の腕を感じる回数が増えた。慣れとは不思議な物で、もう一々理由をつけて妥協しなくとも佐紀也の腕が回ってくることに依存はなくなっていた。
そんな生活が、ずっと続くなんて思っていたわけではない。
佐紀也だってまだ若い成人男性だ。気まぐれで貰っただろう俺に飽きるのは時間の問題だ。それ以前に短い人生楽しくがモットーの俺が、学校にも行かなくなれば、残る暇つぶし、もとい、楽しみは佐紀也への納豆攻撃のみ。
それもできないのなら、俺がそこにいる理由はない。
佐紀也は俺の所へ帰ってこなくなった。
帰ってくるわけがない。
だってここは、あいつの家じゃないのだから。
一人で寝台に横になって、ゆっくり考えてみるといろいろなことがわかった気がする。そのひとつは、意外にも俺は随分と佐紀也に助けられていたってことだ。
佐紀也はどんな時でも笑っていた。俺が佐紀也の大嫌いな納豆料理をテーブルに並べても、とんでもない物体を飲ませた時も、夜中に洗面所に長いこと篭っていても、どんどん柔らかくなる笑顔で俺を見てくれていた。
毎晩回した腕が余っていくことに気付いてもいただろうに、朝起きると何もない顔でおはようと声をかけてくれた。
あの日、何も告げずに俺と佐紀也を会わせた父さんは、俺を捨てたんだと思った。けれど違った。
それにやっと気付いたのは、見舞いに来てくれた父さんが、以前より大分痩せて、辛そうな顔をしながら笑おうとしているのを見たときだ。俺は、父さんが俺の願いを叶える為に俺と佐紀也を会わせたのだと、初めてわかった。そして、どれだけ辛いことを願ってしまったのかも。
「ごめん、父さん。もう、無理に笑わないでいいよ」
父さんはもうずっと、俺を見て笑えなかったのだろう。
俺は生まれつき爆弾を抱えていて、長くは生きられないと言われていた。母さんも同じ病気で亡くなったそうだから、多分、遺伝性のものなんだろう。
父さんは言うつもりはなかったみたいだけれど、人の口に戸は立てられるもんじゃない。
病院にいく度に沈痛な顔をして出てくるの様を見るのが嫌で、俺はひとつの頼みごとをした。父さんはそれをずっと叶えてくれていて、叶える為に無理をしてくれて、それがどうしてもできなくなったから俺を佐紀也に預けたんだろう。
でも、だったらどうしてだろうか。俺を預かったって何の得にもならないとわかっていて、佐紀也は何故俺を貰った、なんて言ったんだろうか。
目が覚めると、白い天井の代わりに長い睫毛が映った。
危うく寿命が尽きるところだった。どうしてくれるんだと睨むと、佐紀也はニヤリと笑った。今まで見たことのない笑みだった。
「環さん、知っているかい?」
「知ってるよ」
そう言うと、佐紀也は面白そうに何をと訊ねてきた。
「あんたが掃除屋じゃなかったって事くらいは」
だって基礎がなってないんだもん、とダメだししてやると笑いながら凹んでいた。器用な奴だ。
「いや、あれは元から冗談のつもりだったんだけどね」
「あー、じゃあやっぱり片付けじゃなくて抹殺とかの方って誤解して欲しくて言ってたんだ、あの時」
ノッてやらなくてごめんなと棒読みで謝ると、今度は本気で凹んだようだ。してやったりとにやりと笑ってやると、佐紀也はいきなり手を伸ばして俺の頭を抱きしめてきた。
「ちょっ、苦しい」
「うん。でも俺はこうしていたいんで、ちょっと我慢して」
「無理って、死ぬから。息できないから今現在本気で」
笑って、今度は体ごと起こしていつかのように背中から俺を抱きしめる。
「…後始末とか、全部させててごめんな」
「何を仰る。環さんの創作料理の片付けくらいいくらでもやりますとも。どれだけ納豆臭さが取れないキッチンになろうと、五徳の下に入り込んだ粒のひとつまで残らず取り除くくらいわけないですよ」
「失礼だな、わざわざ残しといてやったんだよそれは」
「それは毎度、どうも」
お前はどこの商売人かと突っ込みたかったが、さて置き。
「俺が言ってるのは洗面所の方だよ。排水溝とか、今頃凄いことになってんじゃねえの?」
佐紀也は答えず、代わりに笑う口元だけが見えた。
「ねえ、環さん。愛ってなんだかわかりますか?」
「は?」
「よく愛は純粋なものって表現を聴くでしょう?でも純粋って、綺麗なものって意味じゃないと思うんですよ」
「何言ってんの?佐紀…」
後ろを振り向こうとするも、回された腕に力を入れられては見えるのは佐紀也の口元だけだった。
「ほら、子供…特に赤ん坊なんかも純粋だって言われるじゃない。でもやることは結構えげつなかったり我侭だったりするでしょう。だから、俺は愛とは利己的なものだと思っているんです。所謂自分勝手な主張を無理矢理押し付けるって意味で」
「…よくわかんないけど、あんたが勝手にやってたことだから俺に気にするなって言いたいのか?」
「いいえ、存分に気にしてくれてもいいんですよ。ただ、気にするのは環さんのしたことじゃなくて、それを俺がどう思ったか、にして欲しいだけ」
…よし、聴かなかったことにしよう。
短い人生、わからないことを気にし続けても仕方ない。これ、俺のモットー。
とりあえず、佐紀也なりのやり方で慰めてくれたんだと思うことにする。人の行為には甘えるってのもモットーってことにしておく。
「ところで、それじゃああんた何して生計立ててるんだ?」
そう切り返すと、唇が薄く笑った。
「教えなかったら、どうしますか」
未練に思って、わかるまで傍にいてくれますか。
小さくそう言った佐紀也を今度こそ振り返って、俺はニヤリと笑ってやる。
「俺は悔いは残さず、がモットーなんだ」
そう吹き込んで、佐紀也に思い切り体重をかけてもたれかかってやった。
そうやって過ぎていく時間は、大好きなホットミルクよりも甘く、大切なものに思えた。
(2008/3/30)