螺旋階段(シリアス/現代/視点入替有)
傷つくのも、気付かないのも、醜いのも全て××に囚われているから。
心は捨ててしまった。だから、この体だけなら差し上げよう。
そう答えると、彼は口端をクッと上げて哂った。
私と彼の生活リズムは月と太陽にたとえられる気がする。月が出ている時はどこかで眠っている太陽が彼なら、逆に太陽が出ている時に眠っているのは私だ。見事なまでに真逆な私たちは言葉を交わすことは少ない。当然、目を合わせる事だって稀だ。
彼は私に生活を求めた。食事を取り、湯に浸かり、そして眠る。そのあまりにも当然なサイクルを彼は私に差し出せと命じたのだ。
低い日が窓から差し込む前に起き出し、食事を作って家を出る。私の顔を火照らせた料理は彼が口にする頃には被せてきた蓋に付着した水滴に浸って奇妙な味に成り果てているだろうけれど、食事に味は求められなかったのだから気にしない。
平坦で単調なデスクワークに勤しみ、彼の眠る狭い箱の一角へ戻る途中、翌朝の食材を買いにスーパーへ寄る。蛇行の後に行き戻った部屋へ入って先ず浴室へいく。シャワーから溢れるのは水、浴槽を埋めるのは蒸気沸き立つ熱湯だ。それを縁ギリギリまで溜め置いて、蓋と密着するように気をつけて保存しておく。
その後、やることのないまま起きているほど不毛なことはない、と、寝室へと向かった。
*****
彼女が布団へ倒れこんだのを確認し、同じ布団の数センチ先に横たわる彼女を気にかけてゆっくりと起き上がる。お休み三秒。どこかの野比さんもびっくりな寝つきは、彼女に安眠を届けてくれるのだろうかと、目元に浮かんだ隈を擦りながら思った。
日課になりつつある溜息を一つ吐いてリビングへ向かい、いつもと同じ湿気たっぷりの存在と対峙する。いつもながら心の準備が必要な様を呈しているそれを迎え入れる気持ちの整理をするため浴室へ向かうと、触らば焼かんと言わんばかりの蒸気が立ち上がり、思わず閉めた蓋の上に再び溜息が落ちる。
こんなはずではなかった。
日常の当たり前のことを要求することで、彼女をその当たり前に絡め取って巻き込んでしまおうという目論みは見事に失敗した。当然、その後に期待した人間らしい感情の起伏も彼女の元を訪れることはない。
高校を卒業して以降、初めて見た彼女は在校中に纏っていた雰囲気をガラリと変えていた。それが社会にもまれ草臥れた様相ではなく、高校の頃に負った傷を引き摺ってのことだということは、その瞬間を見てしまった僕だけは断言できる。
僕には幼馴染がいた。子供の頃は仲が良くて、けれど年を追う毎に口煩くなり、僕を縛り付けるそいつから逃げ回ることがその当時の僕の急務だった。そんな中、逃げ場所のひとつに音楽準備室があった。無秩序な秩序に基づいて散乱した楽器に囲まれたそこで、昼休みになると隣室から流れてくる柔らかなピアノの音にささくれた心を癒して貰っていた。
けれどその日は乱入者によってそれを妨げられてしまった。乱暴に開けたために跳ね返って大きな音を立てた扉をもう一度伸ばした腕で遠ざけて固定した際、再び大きな騒音が響いた。その頃には隣室の音色も消えてしまっていて、代わりに訪れたのは何事かと顔を覗かせた彼女だった。
僕の背筋を嫌な汗が辿った。彼女に目を向けたとき幼馴染は、ニヤリと嗤って確かに僕を見据えていた。
予感は当たり、幼馴染はどう誤解したのか彼女にちょっかいをかけるようになった。最悪だったのは彼女がそれを嫌がるどころか頬を染めて受け入れてしまったことだ。彼女のピアノとは違い、彼女自身に対してあまり関心がなかったとは言え、今まで飽きるほど見て来た光景が繰り返されることが厭で、僕は更に幼馴染を避けた。
それがさらに誤解を植えつけたのだろうか。彼女は僕の見ている目の前で勘違いした幼馴染に手酷い言葉で切りつけられ、今尚その痛みに苛まれることになったのだ。
彼女は僕を知らない。初めて顔を正面から見たとき、彼女の瞳は何も映してはいなかったから。
そんな、彼女にとっては見も知らない他人の要求に諾々と従ってしまえるほど、彼女はあの言葉に縛られているのだろう。
彼女に非はない。ただ、僕の所為でとばっちりを受けてしまったがためにこれほどに人生を狂わされてしまったのだ。だから僕は、その責任を負わなくてはいけない。
仕事用とは別けて使っているパソコンを開いてメールを確認する。案の定届いていたメールに目を通し、何度も見直して確認した文書を返信した。
*****
二度と、顔も見たくない。
どんなに怒っても俺を選んでくれた幼馴染からの、それは決別の言葉だった。
自分の想いが受け入れられないことは認識していても、他の想いが受け入れられることを容認することは到底できなかった。異性か同性か、それだけの違いで、同じ事をしても違う対応をそれぞれに返してくる幼馴染にも腹が立った。
あの頃の俺は煮詰まっていて、馬鹿で。どうしようもなく、焦がれていて、冷静に判断することさえ思いつかなかった。その所為で失った信頼はあまりに大きすぎて、俺は心に大きな穴ができてしまったように感じた。その穴は塞がるどころか、時を経るごとに大きく開いて行っている気がする。
毎日会っていた、会ってくれていた幼馴染を怒らせてしまったことを、俺は今でも悔いている。けれど…それを知って尚許してくれない、俺の傍へ戻ってきてくれないあいつが、理不尽だとはわかっていても憎くてたまらなかった。
しかし何より憎み抜いているのは、俺と幼馴染をここまで隔てる原因となった、あの存在だった。アレさえ存在しなければ、大事な幼馴染はきっと今でも呆れた顔をしながらでも俺の傍にいてくれたはずなのに。
あの時一瞬で変化した邪魔者の表情を思い出す。その絶望に今でも、いや、一生でも囚われてしまえばいい。雁字搦めに縛られて、俺より深いどん底に墜ちていればいいと、願わずにいられない。
*****
朝。低い日が窓から差し込む前に起き出し、食事を作って家を出る。
いつもこなしているそれが狂ってしまったのは、目が覚めるずっと前から手を包んでいた温もりのせいだ。冷えた室内にあって、夢現にその熱にすがってしまった。
そのあまりにも温かい感触が、何かを埋めると同時にそれを抉って行った。
古い軋みは新たな軋みを生んで更なる歪みを生み出している。
眠っている間、その痛みに涙することが今でもある事が不思議だった。それを不思議と感じる感覚は、彼が来てから、涙を拭った痕を見つけてから生まれたものだった。
(2008/3/15)