無明の光明(シリアス/トリップ/ファンタジー)
丘で見上げる空が曇ったとき訪れたのは、ありえないはずの熱で。
いつもと同じ光を受けて目を覚ますと、いつもと同じ光景にいつもと同じようにまあさがいて、いつもと同じ一日が始まる。
晴れ渡る空。その中で一際輝く総ての源。
あまり見ては目が焼かれるとみんなは心配してくれるけれど、大好きなそれを見上げることは決してやめられるものではない。そんな僕を仕方ないなと言う顔で、でもやはりみんな心配そうな眼差しを送ってくるので空を見るときはこの丘一番の大樹の影に座って見上げることにしている。
この丘には僕を含めたくさんの住人がいて、その誰もが下ばかり見て日々を過ごしている。けれど決してみんなが陰気だったり、意地の悪い輩だなんて思わないで欲しい。彼らはとても心が優しくて、一人ぼっちでいた僕にそっと手を差し出してくれた恩人たちなのだから。そんなみんなの注意を無碍にしてしまうのは申し訳ない気がしてならないのだけど、それでも僕はあの光に誘われ、気付けば足元にまあさを従え、いつもいつもあの空を見上げてしまっていた。
まあさがここへ来たのはごく最近だ。きっと迷い込んで道がわからなくなってしまったのだろうと、僕の腕の中の、足を怪我したまあさを見て、丘の住人は言った。それなら道が見つかるまで、と僕はまあさを預かることにした。足に巻いた包帯に染みができることはなく、怪我もあまり深くはなかったのだろう。良かったねと思いをこめてまあさの顎や耳の根元をなでてやると、まあさはゴロゴロと喉を鳴らして僕に応えてくれた。
空ばかり見ている僕とそれに釣られて上を見上げるまあさ、優しいが故に下ばかりみて日々を過ごす丘の住人たち。そんな僕らの視線が同じ方向を指すことは殆どない。けれど、僕の大好きな光が雲に阻まれ、彼らの視線の先にすら影響を与えてしまったら話は別だ。時折起こるこんな日が僕にはわけもなく怖いものに思えて、たまらず膝を引き寄せ体を小さくして、耳と目をぎゅっと閉じてやわらかな光の再来を待ち続ける。
いつもと同じなら、きっと、そう長くは続かない。そう言い聞かせて震えそうになる体を、ぎゅっと抱きしめる。
僕はこんな日がとても嫌いだ。けれど、丘の住人はこの日がとても好きらしい。
光が翳った途端、みんなは小さくどよめいて、次いですぐさま嬉しげに走り出して滅多にしない外出を始める。初めてその様を目の当たりにしたとき、僕はどうしてみんなは心細くならないのかとてもとても不思議に思い、みんなが帰ってきてから理由を聞いてみたけれど僕にはよくわからなかった。そんな僕を、みんなは困ったような顔で見て、そのうち僕にもわかるようになるだろう、などいくつか声をかけてくれたけれど、未だにわけのわからない恐怖の時間としか思えないままだった。
みんなが外へ出かけてしまって、この丘には僕一人だ。その事実がより一層の恐怖を齎す。ふと気付けば、いつも足元にいるはずのまあささえもがどこかへ消えてしまっている。僕はたまらなくなって小さく、次第に大きく喉を張ってまあさを呼んだ。もしかして、みんなの足運びに流されてまた迷子になってしまったのじゃないかと思ったからだ。
僕は気持ちとは裏腹にいつもより随分軽やかに動く足を駆使して、まあさを捜し歩いた。
軽いけれど頼りにならない足取りでふらふらと辺りを捜し歩く。けれどまあさは見つからず、とうとう丘の麓にまで降りてきてしまった。あの丘へ初めて行き着いて以来きていない、来たいとすら思わなかった領域だ。
ここには、嫌な記憶しか残っていない。あの丘では忘れていられたそれが脳裏をよぎると、まあさを探すことで紛らわせられていた頼り無さゆえの恐怖がぶり返してきた。耐え切れず戻ろうと踵を返したとき、左の手首に久しく感じることのなかった温かな何かが触れた。そして、
「 」
遠くでまあさの鳴く声が聞こえた気がした。
ありえない。
この左手の熱。
この感触は、あってはいけない。僕が触れていいものじゃない――
どうしてか思考が行き着いたその結論に従ってか、がむしゃらに暴れ熱を振り払おうと試みるが、それは僕の望みとは逆にますます強い力でもって僕の手首に絡み付いてきた。そればかりではなく、するりと背後に回った熱源が包み込むように僕を囲ってきて、まるで離してなるかと主張するように僕の体を戒める。
そして徐々に、本当に少しずつズリ、ズリ…と僕の体をどこかへ引き摺り始めた。
いっそ、気を失ってしまえたなら。
どんなに願っても、この太刀打ちできない恐怖から僕は逃げ出すことができなかった。助けて、と思わず口をつきかけたが、果たしてそれが叶えられることなどありはしないことを、僕は嫌と言うほど知っている。
絶望に侵食された思考に、けれどもう一度、先程より近くはっきりとまあさの声が聞こえた。
そして考えるよりも先に、唇から零れたのは塞き止めていた筈の助けを請う言葉の波だった。
まあさの声が近くなる。
強く、あの独特の声で、僕を呼んでくれるのが何故だかはっきりと感じられた。
目を覚ませば、そこは光溢れる世界だった。
そのあまりの眩しさに、僕は反射的に恐怖を覚えた。
あの柔らかかった光ではなく、総てを曝け出させる強烈な光に満たされた世界に自分がいることが信じられなかった。自ら進んであの丘に行き着いたわけではなかったけれど、そこへ行くことを強く願っていたのは事実だ。だからあの全てがあいまいな緩やかな世界を目にしたときは願いが叶ったのだと、今僕のいるこの世界から抜け出せたのだと狂喜した。そして望み通りに丘へ行き着く前の記憶を、僕は自身の手で殺して捨て去った。なのに。僕はまた、地獄よりも過酷なこの現実に身を晒さなければならないのだろうか。
目の前が真っ暗になった気がして顔を覆った。覆おうとした。けれど自由に動くのは管に繋がれた右手だけで、左手は重石が乗ったように動かなかった。少し、腕を浮かそうとしたのが悪かったのだろうか。左腕にのしかかっていた熱の塊がぴくりと動き、ついでのそりと上体を起こしたそれと、僕はまともに目を合わせてしまった。
途端、心臓が一度大きく脈打ったのがわかった。息が乱れ、目の前が歪む寸前、相手が目を見開いて驚きを表していたのを見届けた。
「み――」
「うあああああああああああああああああああ!!」
相手が何か言いかけたとき、堰を切ったように僕の喉からみっともない悲鳴が上がった。
大声で叫び、管に繋がれた腕や体を必死にずらして左手のそれから必死に離れようとする。けれど満足に動かない体は強く腕を引かれれば抵抗する術すら持たなかった。
あの丘の麓で感じた熱と同じだ。
それに気付いて、僕は再びがむしゃらに熱に抗った。
「まあさ!まあさどこ!助けてまあさ…っ!まあさ!!」
必死に暴れているのに、僕の手足は目の前の熱に簡単に絡め取られてしまう。それでも暴れ続けて、まあさに助けを求める。目の前の熱が何かを叫び返しているけれど、僕には聞こえない。この世界の何も、僕は二度と聞きたくなんてない。
「助けて!まあさ…っ、まあさ助けてっ!どこにいるのまあさ…っ」
一度零れた懇願はあとからあとから止めようもなく溢れてきて、自分のものとは思えない大きな声が、僕の中に外の音が入ってくるのを意図せず阻んでくれる。けれど小さく息をつめる音と、ついではぜたような乾いた音はどうしてか小さな衝撃を伴って克明に僕へと届いた。
「…ごめん」
予期せぬ衝撃に動きを止めた僕に、熱は小さくそう呟いて僕に回していた腕をほどいて、代わりに僕の片頬を包んだ。正面に据えられたその面立ちを、僕はよく知っているような気がする。けれどそんなはずはない。こちらのことは、丘へいく前に全て捨てたはずなのだから。見覚えがあっていいはずなんてないのだ。
「まあさ…。まあさどこ?まあ―」
「ごめん。痛かったんだよな…?もうあんなこと絶対にしないって約束するから」
痛い、なんて当たり前だ。まあさがいないのだから。あんなに近くにいて、僕に寄り添って懐いてくれて、なでてあげると嬉しそうに目を細めて喉を鳴らして。まあさは迷い猫だったから、もしかしてまたどこかへ迷い込んでしまったのかもしれない。どこか僕の知らない温かい場所で身を縮めて泣いているかも知れない…いや、僕の知らない場所で、僕に許してくれた全てを、僕じゃない誰かに与えているのかも知れない。
まあさの中から僕が消えてしまうかもしれない。それが、何より僕は痛い。
「――許してくれなんて言わないし、許してくれなくて構わない。憎んだっていいんだ。だから深夜」
まあさの中から僕が消えてしまう。また、僕は真朝から弾き出されてしまった。
「俺を見て。名前を呼んで、深夜…!」
僕は夜。どんなに頑張っても、強く強烈なまでの光を纏う朝とは相容れることはないのかもしれない。
僕が持てるのは、柔らかく弱々しい月の光だけ。
月が好きだった。けれど、月は所詮、僕にとっては手に入らない朝の代わりに過ぎなかった――。そのはず、だった。
真朝に拒絶され、あの時僕は耐え切れずに自分の中へと逃げ込んだ。
あの時は辿った逃げ道を、けれど今は近すぎて眩過ぎる熱に阻まれ、再び戻ることはできなかった。
(2008/3/12)