光 (シリアス/病院)
とある事故で視力を失った少年の苦悩。この作品はすべて想像で書いております。作品の都合上、実際とは異なることもあるかと思いますがご了承下さい。
「生きていないのと死んでるのとは全然違うものなんだよ」
クスクスと笑いながらその声は言った。
「息もしてないし動かない、でも確かに存在したって証があるのが死。動けるのに動かない、何もしないで誰の記憶にも残らない。ただ息をしてるだけの忘れられた存在になるのが生きていないってこと」
確かにその定義からすると今の俺は生きていないと言えるかもしれない。けれども俺は渾身の力でふざけるな、と怒鳴りつけたのだ。
半年前、俺はとある事故に遭って失明した。
それはとても大きな事故だったらしく、死者も多数出したという。その中で光を失ったとはいえ助かった俺は幸運といえるのだろう。
しかし俺にとっては死んだ方がマシだった。
俺を残して逝った両親は莫大な財産を持っており、その相続人ではあるがまだ未成年の俺の後見人という立場を巡って親戚中が醜い争いを始めた。父の生前からの顧問弁護士とやらが仲介に入って決められた顔も碌に知らないような新しいカゾクとやらは、俺を病院に縛り付けたまま、俺の財産とやらで好き勝手しているらしい。
けれどそんなことはどうでもよかった。重要なのは眼だ。
何故よりによって、耳でも喉でも脚でもなく眼なんだ。
事故後初めて意識を取り戻し、医師から聞かされた事実に俺は打ちひしがれた。この眼は、もう一生光を見ることはないのだと。角膜移植という手もあるにはあるが、ドナー待ちの患者が数多くいるためいつになるかもわからない、と。
それを聞いたとき、俺は喚いた。感謝されて然るべきであろう医師を罵倒した。声の限り叫び、やがて喉が熱を孕む頃には絶望をおぼえた。
涙は出なかった。もっと大事な別の何かが止めどもなく流れ出て行く気がした。
それからは全てに無関心で過ごした。
声を出すことも食事をとることもせず、ただ呆と時間が過ぎるのに任せた。
体の方はリハビリをすれば再び動くらしい。そんなものどうでもいいと思った。
これまで寝る以外の全ての時間を絵に注ぎ込んできた。いや、寝ている時でさえ創作意欲は衰えなかった。現実に見た光景、夢で見る完璧なまでに理想的な情景、それら全てが俺をカンバスに向かわせた。
幼い頃から数々の賞を総なめにし、俺の将来は約束されたも同然だった。周囲も俺も俺の行く末を輝かしいものと疑わなかった。なのに!
そんな思考の泥沼に陥ったとき、その声の主は訪れた。
「君が哀れな元神童?」
"元神童"
そうか、俺はもう、過去の者なのか。
その言葉に反発するほどの気力が俺にはなかった。俯いたまま何の反応も返されないことにじれたのか、声の主は更に言葉を紡いでは俺に向かって浴びせ始めた。
「世間てのは冷たいよね。あれだけもて囃してた対象が使えないとなるとすぐに次の獲物を探し出したよ。ああ、もう知っているのかな、眼は見えなくても聴力には問題ないんだものね」
そんなものは、知らない。知る必要もない。
そう、心の中では思っているのに、どこからか頭をもたげる何かがあった。
「その子もさぁ、可哀相だよね。君の代わりに担ぎ出されてあまつさえ子供の頃の君の再来だとか、それ以上の才能だとか言われてるんだよ?そんな風に言ったら、将来君みたくこうやって事故にでも遭えとかいわれてる気にならない?だいいち」
随分とねじくれた見解を聞きつつ、俺は別のことで頭がいっぱいになった。
俺の再来…再来だって?
冗談じゃない、俺は百年に一人居るか居ないかの逸材だといわれてきたんだ。その俺以上の才能だって!?
馬鹿を言うものじゃない、そんな事があってたまるものか!
ぐつぐつと煮えたぎる思考に、けれどその声はまるで魔法のように冷たい氷解を打ち込んだ。
「まだ未発達な子供を無理矢理一つの道に縛り付けて、それがどんな悲惨な末路を辿るのか考えてもいないんだよね」
「…どういう、意味だ」
思わず喉が震えた。久方ぶりに出した声は掠れて微かに震えていた。それは俺の内情をよく表していて、本当に頼りなく響く。
「だって今の君がそうでしょ」
嘲りと蔑みを多分に含んだ声。やっと反応を返されたことに満足した子供のような無邪気さは、無邪気ゆえに確実なダメージを容赦なく叩き込む。
「一つしか道が示されなかったからそれに必死でしがみつく。だから周囲もより追い詰める。本人たちは気付かないけどね。でもその唯一の道を取り上げられれば、もう他の道は見えなくなってしまってるんだよ。他のどんな可能性も価値がないと決め付けて、見ようとすらしないんだ」
バッカみたい。
隠しようもないほど侮蔑を滲ませた言葉。それはそのまま俺への侮蔑だった。
怒りに脈拍が速くなる。視力を失い、役立たずとなった筈の眼球の裏が酷く熱い。お前に、何がわかる。俺がどれだけこの道にかけてきたのか知らないくせに、お前なんかに意見される筋合いなんて塵ほどもない。
大声で罵倒してやりたかったが、それより早く再び紡がれた言葉に俺の言葉はかき消された。
「君を見てるとイライラするよ。折角リハビリすれば動かせる手足があるのに、そうしない。君はただ我儘を言ってるだけなんだってちゃんと気付いてるの?」
「なん…っ」
「大体さぁ」
自分の限界ぐらい、もう見えてたんだろ?
一拍おいて放たれた言葉に、一瞬にして凍りついた。
"ゲンカイ"
それは、最も拒絶していた言葉だった。
近年、俺はスランプに悩まされていた。
創作意欲自体が減退したのではない。いつも眼裏に浮かぶそれらは筆舌に尽くしがたいほど美しい情景で、俺は必死になって追うが、まるであざ笑うかのように掴む端から崩れ去っていった。どんなに追っても、記憶に残った微かな残影すら俺の手には戻らなかった。
それは現実の光景を追うときも同様で、以前は何も思わずに描けていたものさえ形にすることができなくなっていった。
俺は焦った。毎日毎日寝る時間すら惜しんでカンバスに向かった。けれど出来上がったものといえば、到底絵とは呼べない絵具の末路だけだった。
そんな俺を見かねて、気分転換にと両親に連れて行かれた出先であの事故に遭った。
広大な自然公園を歩いた後乗り込んだ大型の観光バスに、居眠り運転をしていた5tトラックが減速なしで突っ込んできたのだ。
二階の一番後ろの席にいた俺は、救出されたとき両親の腕にくるまれていたそうだ。その両親の顔は厚く包帯が巻かれていて、遂に出棺のときを迎えても見ることは叶わなかった。
何故俺がそんな不幸にばかり見舞われなければならないんだ。俺は神童で、絵を描くためだけに生まれてきて、周りの羨望を一身に浴びるべき人間なのに。
「君は恵まれているんだよ。それに気付いてないっていうのが君が最大級の馬鹿だって証明できるくらいにね」
俺の懊悩をよそに飄々とした口調が憎かった。役目を果たさずただそこにあるだけの眼で、声の主がいるであろう箇所を力の限り睨んだ。もし叶うのならこの先にいるであろう人物を焼き殺したいという思いを込めて、全身全霊で憎悪した。
けれども俺のそんな思いを一笑に付し、奴は笑い混じりにこう言ったのだ。
「反論なんて受け付けないよ。でもそうだな、君が自力で僕のところにたどり着けたなら聞いてあげないこともない。ささやかだけど、ご褒美もあげようか。けどどうせ無駄だろうね。このままだと生きてもいないうちに君は死んじゃうだろうから」
それから俺は猛然とリハビリを始めた。
急激に動くのはよくないと制止する医師の忠告にも耳を貸さずにひたすら脚に動くよう命じ続けた。
それでもすぐに上がってしまう息に辟易して、食事もたくさんとるよう心がけ体力を取り戻そうと励んだ。
何の前触れもなく、猛然とリハビリを始めた俺の姿は、これまでの俺の無気力さを知っている医師たちにはさぞや奇異に映っただろう。
けれど怒りに突き動かされる俺には他人の眼を気にする余裕はなかった。
今までずっと他人の眼や、与えられる評価に気をすり減らしていたんだ。過去の人物としてしか俺を認識しない他人の視線など、もはや気にする理由は見つからなかった。
こうして眼を見張る勢いで回復していく俺は、とうとう壁から離れても歩けるほどにまでなった。
無論、眼が見えないために何かにつかまって自分の歩いている位置を確かめながらの歩みとなったが、それを支えとして必要とはしなくなった。
そうしてやっとあの声の主を探そうと行動を開始する頃、ある転機が訪れた。
「君にね、是非自分の目をあげたいという子が現れてね。本来なら色々と制約があるところなんだが、本人たっての希望とのことで特例を認められたんだよ」
リハビリのおかげで手術にも耐えられるだけの体力もあり、早々に移植のための手術が行われた。
そしてめでたく退院の運びとなった日、俺は主治医にひとつの言伝を渡された。
西棟三階、1035号室にて待つ。
素っ気無くそれだけが書かれた紙切れ。けれどそこで誰が待っているのか俺にはわかった。
主治医の診察室を出て階段に向かう。
一段、二段と脚を上げ、足裏に硬いコンクリートの感触を確かめながらゆっくりと登っていく。
リハビリを始めた頃はこんな簡単な動作さえままならず、すぐに脚の感覚が追えなくなって転んでしまった。
その度に元来の負けず嫌いな気性が、あの声の主の言葉が再び立ち上がる原動力となって俺を支えた。
決して楽だったとはいえないリハビリを乗り越え、ようやく歩けるようになった俺は気付かされた。もう、何年もずっと忘れていた、自分自身の意思で何かをやりぬきたいという気持ち。
始めは好きで描いていた絵を褒められるのがただ嬉しかった。もっともっと褒められたい。自分を見てもらいたい。それがいつからか絵は他人に媚びるための道具でしかなくなった。
その道具なくして、自分の価値を見出せなくなっていった。そんな狭い世界に閉じこもった俺を駆り立てたのは彼だ。
もしかしてあの時彼は、このどうしようもないしがらみから俺を救おうとしてくれていたのだろうか…
引き戸になった扉を開け、午後の陽射しが照らす部屋へゆっくりと入る。三台並べられたベッドのうち、一番窓に近いものを目指す。
一歩二歩、三歩。そうして進むうちカーテンに仕切られていたベッドの住人が見えてくる。
そこには背もたれに寄りかかり、驚くほど華奢な少年が鎮座していた。
右目に包帯を巻きつけたその少年は微笑を浮かべて俺を迎えた。
「やあ。今の気分はどう?」
かつて聞いたことのある声。
前と変わらず、あけすけな態度と口調で話しかけてくる男にしては少し高い声。その声の主が今俺の目の前にいる。
下半身不随。あの事故で彼もまた彼にとって大切だろうものを失ったのだと主治医は語った。
彼には両親も彼を引き取る親戚もいない。まさに天涯孤独となったのだそうだ。
そんな俺の同類を、俺は怒って怒鳴るでも感謝するでもなく、不思議と落ち着いた心地で見下ろす。
「何?まだ何かふてくされてるの?」
しょうがないなあ、と笑い混じりに零す彼に、俺はいいやと短く返したあとにこう続けた。
「俺と、一緒に来ないか?」
柔らかな日差しが照らす中で、大きな眼を更に大きく丸める様をつぶさに見据える。
そして――
永い永い沈黙の末彼は一言、是、とだけ答えた。
(2006/5/16)