寝言
「あーあ、死んじゃった」
妻の美代子が言う。
俊之は、手にしていた本を枕元の小机に置き、こちらに背を向けて横たわる美代子の顔を覗き込んだ。
すぅすぅと寝息を立て、美代子は眠っている。
──またか。
この所、美代子は寝言を言うようになった。
元々寝言を言わないでもないが、どれももにゃもにゃと聞き取れない言葉にもならないものを呟く程度だった。
しかし、今はわりとはっきりとした声で言うのだ。
内容も、最初は「何処?」だとか、「右」だとか意味の掴めないことだったのが、次第に「戻って」「追いつかれる」と切迫したものになった。
そして、一夜に──少なくとも俊之が寝入るまでに呟かれる寝言は、ある程度の繋がりを持つようになっていた。
「何処?」
「知らない」
「右」
「そこは駄目」
「戻って」
「追いつかれる」
「逃げて」
元々不穏ではあったが、今夜はついに「死んじゃった」。
それも何処か残念そうに、あーあという言葉も吐いて。
言葉の繋がりから考えてみれば、恐らくは夢の中で美代子は何処かに迷い込み、何者かに追われ、そして殺されてしまうのだろう。
そう考えた俊之は、首を傾げた。
『あーあ、死んじゃった』
という言葉は、自分が殺されたにしては軽すぎる。
勿論、他人が殺されるのを目撃した時にも、このような言葉は出ないだろう。
いや……。
映画の中の登場人物が殺されてしまった時、このような感想を持つ者もいるだろうか。
しかし、美代子はそうした描写が苦手で、ホラーやシリアスな展開のある映画は殆ど見ない。
そもそも「あーあ、死んじゃった」という声音は、美代子にしてはあまりに軽すぎる。
それに「逃げて」という言葉は、自分に対して発することはないだろう。
──だとしたら、美代子が口にするのはまた別の誰かの言葉か……?
そこまで考えた俊之は、思わず鼻で笑い、小机のランプを消した。
妻の寝言に意味を見出そうとするのは、馬鹿げている。
寝言は寝言、だ。
そう思い直し、俊之は目蓋を閉じた。
寝入る間際、妻が何かを言った気がした。
翌朝になって、改めて寝言について訊ねてみても、美代子は何も覚えていなかった。
当然だろう。
大抵の者は、寝言を意識していない。
録画や録音をしなければ、寝言を言っていることすら気が付かない。
「怖いこと言わないで」
美代子は怯えたように言った。
それ以来、俊之は寝言について訊くことを止めた。
そんな馬鹿げたことで妻を怯えさせる訳にはいかないからだ。
しかし、毎日毎日繰り返される寝言に、俊之は徐々に意識を引かれるようになっていた。
『あーあ、死んじゃった』
と軽く呟かれる声が、頭の何処かに張り付いている。
「最近……眠れてる? もしかして、私の寝言のせいで、眠れてないんじゃない?」
美代子が言った。
それに笑みを浮かべて答える。
「そんなことはないよ。確かに寝言は気になっているけど、それで眠れないということはない」
確かに、言った通りだった。
眠ることは出来ている。
ただ、寝言の件が俊之の精神にじわじわと侵食してきている感覚はあった。
しかし、それを言ってどうなるでもない。
俊之は、ただ毎夜呟かれる美代子の寝言を聞き続けた。
そんな生活を続けたある夜。
「来たね」
と美代子は言った。
その言葉に、顔を向ける。
──来たね?
初めて聞く寝言に、首を傾げる。
今夜はまだ美代子は一言も発していない。
第一声目に「来たね」。
待っていれば、二声目がある筈だ、と耳を澄ませた俊之の前で、美代子がゆっくりと体を起こした。
「……何処?」
開かれた瞳は、真っ白に濁っている。
ぼんやりと宙を見つめ、探るように首を左右に振る。
ハッと息を呑んだ俊之に気が付き、美代子はゆっくりと手を伸ばした。
「お、お前は……何だ? 誰だ⁉」
ぴたりと手を止めた美代子は、首を傾げ、口端をクッと上げる。
「知らない」
唇の隙間から覗く歯は、どれも歪に削れたり汚れたりしていて、口端から絡んだ涎がだらりと垂れる。
ヒッと悲鳴を上げた俊之は、ベッドから飛び降りた。
まるで獣のように首を捻る美代子は、すっと手を上げ言った。
「右」
その言葉を聞いた瞬間、俊之は寝室を飛び出した。
「そこは駄目」
という声が追いかけてくる。
異常だった。
あれは、美代子ではない。絶対に──!
階段を駆け下り、行き先を失った俊之は、居間と玄関を交互に見やり、戸惑いの中で玄関を選んだ。
革靴を履き、寝間着のままで外へ出る。
「戻って」
声が追いかけてくる。
ドチャドチャと人が立てないような音を立てながら、何かが追ってくる気配がある。
一体、何がどうなってしまったのか。
美代子は、何かに変じてしまった。
寝言を放置していたからか。
そんなことある筈がない。
それならば、一体何が。
あれは、美代子ではない!
ドチャドチャという音は、必死に駆ける俊之の後を追ってくる。
ドチャドチャドチャドチャドチャ……。
──何なんだ何なんだ何なんだあれはあれはあれは……⁉
「追いつかれる」
ふいに耳の中で声がした。
美代子の声だった。
此処の所、ずっと夜になると聞いていた声。
耳を掻きむしるようにしながら、頭を振り、俊之は身悶えた。
闇雲に住宅街を駆けていた俊之は、足を縺れさせながら、道を曲がると、息を潜めた。
ドチャドチャドチャドチャドチャドチャ……。
音が追いかけてくる。
息を止める。
「逃げて」
再び声が言う。
全身に緊張が駆け抜けた俊之は、しかしその体が動かないことに気が付いた。
見れば、背後のブロック塀から、名状しがたい何かが突き出し、俊之の体を挟みこんでいた。
痛みが走る。
「あーあ、死んじゃった」
声が、言った──。
息の塊を吸い込んだ俊之は、カッと目を見開いた。
全身がぐっしょりと汗で濡れ、不快感が襲い来る。
うぅ、と呻き起き上がると、そこは見慣れた寝室だった。
カーテン越しに、朝日が差し込んでいる。
ピピピピピピピピ!
目覚まし時計の音にビクリと体が震える。
すぐ側で小さな呻き声が聞こえ、美代子がゆっくりと寝返りを打った。
「……おはよう」
寝惚け眼で言う。
その顔を、俊之はじっと見つめていた。
瞳は白く濁ってなどいない。歯も削れていたりしない。汚らしく涎を垂らしてもいない。
いつも通りの、見慣れた美代子だった。
ほっと安堵の息を吐く。
「どうしたの?」
体を起こした美代子は、顔を曇らせる。
「あぁ……ちょっと厭な夢を見てさ。でも、大丈夫。汗を流してくるよ」
そう言って俊之は、ベッドを抜け出した。
何もかもがいつも通り。
平穏な日々の始まりだった。
しかし、仕事を終え帰宅した俊之は、静まり返った家の様子に言葉を失った。
いつもなら夕飯の香りがしてきている筈だ。
美代子は特に用事があるということは言っていなかった。
ドチャ──ドチャ──ドチャドチャ──。
その音だけが、家の中で聞こえている。
「み、美代子……」
その声に反応するように、一度音は収まり、次の瞬間に俊之のすぐ後ろから届いた。
ドチャ──。
「来たね」
ふっと、耳元で微かな風が吹いた。




