6話 邂逅
深い霧が立ち込める樹上。そこには、周囲の喧騒から切り離されたような、奇妙な静寂があった。
その男は、巨木の枝に背を預け、眼下の光景をただ眺めていた。
高度千メートルを超えるこの森の樹上最上部には、生物がほぼ存在しない。
生きることが困難な環境という訳ではない。
相当なリスクが伴うため、わざわざそこに巣を作ろうとはしないだけだ。
巨大な羽がバサッと動き、大鷲竜が太い幹に降り立った。
ある一定の高さを超えてしまった生物は、この竜の鱗を持った鷲に捕食される。
しかし賢いその魔物は、無造作に座る灰色の外套の男を襲うことはなかった。
彼の機嫌を損ねればどうなるかよく分かっているからだ。
身の程を弁えず男に近づいた一角狼の群れは、一瞬で全てが肉塊となった。
大鷲竜の欲が少しでも察知された瞬間、彼らの羽は落とされ、四肢が切り落とされ、バラバラになっているだろう。
「……ほう」
感情の起伏が削ぎ落とされたような声が、僅かに漏れる。
溶岩の熱を孕んだような黄金の瞳が、その「歪み」を捉えていた。
消えるはずだった少女の灯火を、絶望の淵にいた少年が繋ぎ止めた。
少年の感情にマナが呼応し、瀕死の少女を強引に、優しく、無傷の状態に変換した。
それは、何かが欠けることを許さないような、世界を調和していくような、神秘的なものだった。
「……面白い。まだ刈り取るには早すぎるな」
男は音もなく立ち上がる。
ビクンっ、と大鷲竜が震えて飛び立った。
それを見向きもせず、彼は散歩でもするかのように一歩踏み出し、樹上から落下した。
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《有人視点》
目の前にいる魔獣は、見た目こそ狼に近い。
でも僕にはそう見えない。
地球で近いものだと、狼でも象でもなく、恐竜の方が適切だろう。
捕食対象として、殺意を向けられることの恐ろしさを知った。
身体が硬直するような感覚。エイリーンはこんな中で戦っていたのだ。
彼女は僕を心配するような声を上げたが、体力の限界か、今はまた気を失うように眠っている。
ヤツは、エイリーンが死に至っていないことを怪訝そうにして、様子を伺っている。
それでも、勝利を疑う様子はない。
そりゃあ僕が相手だ。油断してもハンデにもならない。
手に持った枝を足で踏み折り、少しでも殺傷力を高める。
どうすれば当たるのか考えても仕方ないけど、多分僕相手に小細工はない。
真っ直ぐ突っ込んでこれば頑張って回避してカウンターを狙う。正直それぐらいしか思いつかない。
一応、体育でやるようなドッジボールは最後まで残っていた。
攻撃手段がなくてジリ貧で負ける所も、この状況と似ているのかもしれない。
「……うっ」
そんなことを考えていたら吐き気がしてきた。
ダメだ。一旦考えるのはなし。
勝つことを考えないと先はない。
「震えるな……動け、足、動け……」
地面が跳ね返してくる感触を確かめ、尖らせた枝の先を魔獣に向ける。
「……ガルル」
初めて僕の敵意を察知した魔獣が、殺意を増幅させる。
背中を冷たい感触が流れるが、今更気にはしない。
僕は一歩前に踏み出した。
「――ガァルァァ!!」
猪突猛進。
地面を抉るような音がして十メートル程の距離が一瞬で埋まる。
咄嗟に右に跳んでみる。
ギリギリ突き出された角は当たらず、力いっぱい踏ん張って両手で持った枝を突き出す。
「ぁぁぁぁっ!!」
当たる。
そう思った瞬間、振り回された頭に打ち上げられるように枝が舞った。
その衝撃で両手が天を仰ぐように上がり、勢いのまま後ろ向きに倒れる。
「――っ!?」
何が起きたか即座に理解することは、実戦経験どころか訓練経験もない僕にとって、雲を掴むより難しかった。
一瞬の視界が真っ白になるような感覚の後、僕の目に映ったのは『死』と等しいものだった。
振り上げられた爪が、樹木の放つ光を反射してキラリと光る。そこに少しこびり付いた赤黒い血が、何故かよく見えた。
思わず目を瞑った。
せめて、痛くありませんように。
せめて、僕で満足して、エイリーンがこれ以上傷つきませんように。
そう願いながら。
鋭すぎる爪は、弱い僕を易易と切り裂く。
その感覚が、いくら待っても来ない。
僕があまりにも弱すぎて、一瞬で召してしまったのだろうか。
「…………?」
恐る恐る目を開けると、まだ魔獣はいた。
しかし、動きが完全に止まっていた。
よく見ると振り上げられた右脚がない。
ひとつ瞬きをすると、音もなく頭がずり落ちた。
その事実に気づかないように一呼吸置いて、血がダラっと流れ出す。
「なん、で……?」
行動を指令する場所を失った狼は、力なく倒れる。
目の前にいた僕にとっての「死」の象徴が、一瞬で物言わぬ肉塊へと変わっていた。
何が起こった?
もしかして、エイリーンが?
エイリーンが倒れている場所を見る。
「……は?」
誰かが、エイリーンのそばにいた。
仰向けだったエイリーンを転がし、破れて白い肌の露出した背中を見ていた。
そこは、先程まで深い傷があった場所だ。
「……やはり、普通ではないな」
その誰かが立ち上がりながら呟く。
背の高い男だった。
透き通るようなアイリスのものと違い、灰がかったシルバーの長い髪を後ろで纏めている。
「貴様がやったのか」
品定めをするような黄金の瞳が僕に突き刺さる。
さっき魔獣から感じていたような殺意はなかった。
でも、動いてはいけないと思った。
何の経験もない僕の第六感が、警鐘を鳴らしていた。
「……自覚はない、か。……まあいい」
男は表情を変えることもなく、僕に背を向けた。
「――待って! ……あなたがこの魔獣を?」
なぜか声をかけた。
振り向いた彼に、僕はビクリと身体を震わせる。
表情はさっきと変わらない。が、睨まれているような気がした。
「……マナで活性化しているとはいえ、犬如きに苦戦する貴様らにこの『層』は早すぎる」
何を言われているか分からなかった。
意図がわからず呆けている間に、男の姿は遠くなり、森の中に消えていった。
直接的には答えられなかった。
しかし、これは彼がやったものだ。
僕たちが決死の思いで戦った相手を、いとも簡単に。
彼の灰色の外套には返り血すら付いていなかった。
そんな相手に声をかけてしまった事実に、改めて身震いする。
「……なにか、話してた?」
エイリーンが目を覚ました。
僕は「大丈夫?」と声をかけつつ、着ていたパーカーを脱いで彼女の背中に被せる。
「……気まぐれかもしれないけど、僕ら、助けられたみたいだ」
エイリーンの頭にはハテナが浮かんでいる。
無理もない。僕もさっきから分からないことの連続だ。
多分、僕がエイリーンを治した。
どうやったかも分からないし、もう一度と言われてもできる気はしない。
とにかく必死だった。
魔獣のことも、それを圧倒した黄金の眼の男のことも、結局よく分からずじまいだ。
でも、
「……エイリーン、もう動ける? 気になることがあるんだ」
あの男は、何かを知っているようだった。
この森のことも、僕のことも。
もしかすると、元に戻る方法も知っているかもしれない。
僕たちは、男の向かった道を辿ることにした。
男がどこを通ったのかを知るのは簡単だった。
一太刀で絶命したであろう狼の死骸が定期的に転がっていたからである。
それらを見ると、やはりあの個体は異質だった。
サイズだけでなく、全てが大きい。
なにかの影響を受けたような、そんな個体だった。
「……これは」
エイリーンが地面を指さした。
しばらく死骸が見えず、少し広い場所に出た時だった。
地面が抉れたそこには、うっすらと幾何学的な模様が刻まれていた。
「この魔力残滓は、スクロールを使ったのかしら…………でも、魔法陣が地面に刻まれるなんて」
エイリーンによると、スクロールは特殊な紙に魔法陣を描いて使用されるが、魔法現象以外に影響を及ぼすことはないらしい。
そもそも、魔強値が優れた人物か、複数名での制御が前提となっているため、人間が使うことは少ないようだ。
でも、あの男ならそれぐらいのものを使っていてもおかしくはない。
それで、この魔法陣で何をしたのだろうか。
「……知ってる。この魔力の流れ」
ポツリとエイリーンが呟いた。
「アルト」
エイリーンは僕の手を取り、魔法陣の中央へと引き込んだ。
好奇心が勝ったのか、何かに気付いたのか。
一歩、二歩。中央に足を踏み入れた瞬間――
視界が歪んだ。
全身が激しい浮遊感と圧迫感に襲われる。
重力が反転し、三半規管がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる感覚だ。
これは、僕も知っている。
そして、一瞬の静寂の後、世界は元の形を取り戻した。
冷たい風が頬を撫でる。
これまで感じていた湿った空気ではない。ひんやりと乾いた風だった。
「ここ……は?」
顔を上げると、そこは荒涼とした岩の台地だった。
見渡す限り、命を感じさせる緑はほとんどない。ただ、ひび割れた大地と剥き出しの岩肌が、西日に照らされて赤黒く染まっている。
「……見て、あそこ」
エイリーンが指さした先。
数キロは先だろうか。今いる場所は見下ろせば二三百メートルほどあるような台地だが、それの数十倍はありそうな山脈が連なっている。
その山脈が途切れる場所、そこには高い山々にも劣らない巨大な影が見えた。
見渡す限りの赤黒い世界を切り裂くように一本の白い線が走っている。
その線――城壁の中心には、この距離でも分かるほどの存在感を放つ黒い門がどっしりと構えていた。
「すごい……」
自然と人工物が交わるあまりのスケールに圧倒されていた、その時だった。
「アルト、何か来るわ!」
エイリーンの鋭い声。
見れば、砂塵を上げて台地を上り向かってくる集団がいた。
「……騎士団?」
夕日に反射する甲冑の光。馬の蹄が鳴らす重低音。
よく物語に登場する騎士団そのものだった。
物々しい雰囲気で、こちらに向かって来ている。
「でも、どうして……?」
逃げようにも、ここは遮るもののない高台だ。
みるみるうちに砂煙は近づき、僕たちの周囲を円を描くように包囲していく。
「動くなッ! 貴様ら、何者だ!」
先頭の騎士が、鋭い槍の先を僕たちに向けた。
羽織った外套が吹き抜ける風ではためき、数々の実戦を経てきたのであろう鎧が見える。
魔獣が放つ野蛮な殺意とは違う、統率された「意志」としての圧力が、僕たちの逃げ場を塞いでいた。




