二人っきりの秘密
雪の日の事件よりも少し前のこと…。
「だから違うでしょ。スペースキーを押しながらスペルを打つのよ。そうしないと文字が変換されないし、入力もできないんだから」
広瀬はパソコンの前で厳しい口調で指示を出している。対する花咲はまだおぼつかない手つきでキーボードに触れていた。高校に入学するまで花咲はパソコンを触ったことがなかった。スマホは持っていたが、自宅にはパソコンがなく、寮の部屋に設置されたAI学校専用のパソコンが彼女にとっての初めてのPCデビューだった。
「分かってますよ。すぐに気づくことなんだから、そんなに言わなくても大丈夫です」
「本当にのんびり屋さんなんだから・・・。社会に出たときにそんな調子で通用するかしらね?」
「私は広瀬さんみたいにストイックな性格じゃないんです。自分のペースで出来れば、それでいいと思ってますから」
花咲は一瞬手を止めると、頬をぷくっと膨らませた。少しムッとした様子で口を開く。
「勝手にして頂戴。テスト勉強もマイペースでこなして、間に合えばいいけどね」
「ほら、そうやってすぐに怒るから。だから男子からも敬遠されちゃうんだよ?」
茶化すような口調で返す花咲に、広瀬はくすっと笑みを浮かべた。そして、両手を軽く上げるジェスチャーをしながらさらりと答える。
「男子の目なんて気にしないわ。私はあなたに好意を持ってもらえればそれだけで満足よ」
その一言に花咲は一瞬動きを止めたが、特に答えを返すことなくパソコンに向き直った。
「…いつも勉強教えてくれてありがとうね。パソコンの使い方も広瀬さんに教わると心強いし、本当に助かってるんだよ」
キーボードを打ちながら話す花咲の横顔。広瀬はその表情をじっと見つめていた。二人きりの静かな部屋で、広瀬の視線は自然と花咲に吸い寄せられる。普段は棘で守られているかのような彼女の心も、この瞬間ばかりはふにゃりと溶けるようだった。そして、今日の花咲はいつも以上に可愛らしく見える。
キーボードを打つ音が部屋に響く中、広瀬はふと花咲の肩にそっと手を置いた。そして、マシュマロのように柔らかな頬にそっと音を立ててキスをした。
「ち、ちょっと広瀬さん?」
花咲が頬を赤らめながら驚いた声をあげる。
「言ったでしょ?私はあなたに好意を持ってもらえるだけで満足だって」
広瀬は微笑みを浮かべながら、まるで何事もなかったかのように軽やかに答える。
「…ありがとう。でも、こういうことをするのは違うと思うの」
「そう、分かったわ。もうしない。だから、早くテストの予習を終わらせましょう」
広瀬はさらりと応じると、余裕たっぷりの笑みを浮かべて椅子に座り直した。
AI学校での生活は花咲にとって驚きの連続だった。日々起こる出来事はどれも予測のつかないもので、この夜の出来事もその一つだったに違いない。それでも二人は再びパソコンの画面とノートに向き直り、静かに勉強を続けた。この日もまた、夜が更けるまで花咲の部屋で二人きりの勉強会は続いていく。




