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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

賢いと自認する王太子が、聖女との結婚を間近に控えていた段階で、突然、婚約破棄を宣言。脱宗教を志し、成績優秀な女と婚約し直すと発表。ところが、その女の不正行為が発覚。結果、王太子は坂道を転げるように……

作者: 大濠泉

◆1


 ある晩秋の夜、ダジール神聖王国の王宮では、学園卒業祝いの舞踏会が開かれていた。


 その舞踏会も終わりに差し掛かった頃ーー。

 聖女マグダラ・グノーシスは、婚約者であった王太子から、皆の前で、突然、婚約破棄を宣言された。


 賢いと自認する王太子フーシェ・ダジールは壇上に昇ると、金髪を掻き分け、碧色の瞳を輝かせ、胸を張る。


「我がダジール神聖王国では、代々、王太子は、教会が選定した〈聖女〉と結婚することが習わしとなっている。

 だから、俺は聖女マグダラと十年以上も前から婚約していた。

 だが、俺は、カビの生えたような習慣に従わされるのは、お断りだ。

 そもそも、〈聖女〉なんて言ったって、普通の女と生物学的には何の変わりもない。

 そんな一般女性を王太子の俺が敬うなんて、おかしい。

 上の世代は、非科学的で迷信深すぎる。

 ハッキリと数字に表れる能力値で、人材を登用すべきだ。

 したがって、俺は因習の象徴たる聖女マグダラ・グノーシスとの婚約を破棄して、学園で聖女と同期で、最も成績優秀な首席卒業生たる彼女、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢と婚約し直そうと思う」


 王太子フーシェ・ダジールは、手を伸ばして、桃色ドレスをまとった、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢を壇上に引き揚げ、新たな婚約者として皆に紹介した。

 すでに、この婚約破棄と新婚約の発表がなされる準備がされていたのだろう。

 会場から、いっせいに拍手が湧き起こった。

 このとき、フーシェ王太子とラミー嬢の二人は、得意満面の笑みをこぼしていた。


 舞台会場の中央、二人が見下ろす先に、聖女マグダラ・グノーシスが立っていた。

 銀髪に青い瞳、白磁のような肌に白いドレスをまとい、白いヴェールをかぶっている。

 まさに「白の聖女」という異名に相応(ふさわ)しい姿だった。

 そんな彼女が、結婚まであと数ヶ月と思われていた婚約者から、突如として、婚約破棄を言い渡されたのだ。


 ざわざわーー。


 舞踏会場では、次第に喧騒が広がっていく。

 王太子の誘いに乗って、ラミー伯爵令嬢との新婚約を祝福した、同世代の貴族家の令息や令嬢も、美しい聖女マグダラが独り立つ姿を見ると、同情する心が湧き起こってきた。


 結婚間近の段階で、突然、婚約者から婚約破棄を宣告され、同時に新たな女性との婚約を発表されるーー女性として、これほどの(はずかし)めがあろうか。

 しかも、代々、ダジール神聖王国の王妃として迎え入れられてきた、テレンス大神教の教会で認定された〈聖女〉であるにも関わらず、聖女マグダラは、一方的に婚約を破棄されたのだ。


 けれども、聖女マグダラ・グノーシスは悠然とドレスの裾をたくし上げ、白いヴェールごと、頭を下げた。


「承知いたしました。

 仕方ありません。

 この国では〈婚姻の自由〉が認められているんですもの。

 王太子殿下だけが因習に縛られることもないでしょう。

 ただ私は、殿下の婚約者になってから十年以上が経過しております。

 ゆえに、婚約破棄となると、私に対しての婚約不履行と、もし、ラミー嬢との関係がすでにあるのなら不貞行為とがあったことになります。

 だとすれば、私は酷く心が傷つけられ、悲しい思いがいたします」


 壇上で、元婚約者であるフーシェ王太子は、ウンウンと(うなず)く。


「良かろう。

 慰謝料に相当するものとして、貴女の希望するものを残してやる。

 何なりと言うが良い」


 聖女マグダラ・グノーシスは、両手を合わせながら言った。


「でしたら、殿下との思い出が詰まった、あのアイリス領の山荘をいただけないかしら。

 山荘がある山の(ふもと)には大きな湖があって、その湖を眺めるのを、私はとても気に入っているのです」


 王太子フーシェ・ダジールは、金髪を掻き分けたのち、大きく胸を叩く。


「了解した。

 アイリスの山荘と、幾許かの慰謝料を貴女にくれてやろう。

 だから、聖女マグダラ・グノーシス。

 貴女との婚約は破棄されたことを認めてくれ。

 後腐れなく、な」


「はい。承知いたしました」


 聖女マグダラは青い瞳を伏せて、再度、お辞儀をする。

 だが、今度は、片足を一歩、後方に退きつつも、美しい相貌を上げて、彼女は、「賢い」王太子に向かって忠告を残した。


「私と殿下との間では、以上で関係解消となります。

 ですが、それ以外の関係はいまだ解消されておりませんから、殿下におかせられましては、ご注意をお願いします。

 婚約破棄を正式に行うとなると、私たちはすでに教会で婚約式を執り行っておりますので、神と会衆の前で、婚約の取り消しを、改めてなさなければなりません。

 それに教会と教皇庁で、婚約破棄の認可を出していただかないと。

 ダジール神聖王国に〈聖女〉が嫁いで(きさき)となるのは、二百年以上続いた伝統です。

 ですので、婚約関係を破棄するためには、手続きがとても多いでしょうし、国内を超えた範囲での周知が必要です。

 さもなければ、諸外国の様々な思惑が絡んで、この国に無用な混乱を招きかねません。

 まず、そういった懸念材料を、一つ一つクリアしていかなければ。

 私たちの婚約を破棄するということは、国家規模の問題になるはずですので、こうした同年代が集まった舞踏会の仲間内だけで、ただ宣言すれば良いというものでもないはずです。

 その辺りを、殿下も良くお考えください。

 では、ご機嫌よう。

 皆様、今まで、お付き合いいただき、ありがとうございました」


 そう言い残して、聖女マグダラは、銀髪をなびかせて(きびす)を返す。

 そして白いヴェールを深めにかぶって、舞踏会場から立ち去って行った。


 自分を誰よりも賢いと思っている王太子フーシェは、ラミー伯爵令嬢を片腕で抱きかかえたまま、


「ふん。〈聖女〉というのも、意外と、物分かりが良いではないか」


 と、うそぶく。

 その表情には、余裕の色が浮かんでいる。

 隣にいる女性からは、侮蔑の色を含んだ笑みがこぼれていた。



 だがしかし、これから先、「賢い」美貌の王太子が大変な苦境に陥るとは、この場にいる誰もが、まったく想像していなかったーー。


◆2


 賢いと自認する王太子フーシェ・ダジールが、王宮に帰還するやいなや、侍従らを相手に、言い触らした。


「俺は〈聖女〉との婚約を破棄したぞ。

 二百年以上続いた因習を、この俺が打破したのだ」と。


 碧色の瞳を輝かせ、得意げに胸を張りながら。

 すると、突然、王宮に(しわが)れ声が響き渡った。


「なんて、とんでもないことを!」と。


 声の主は、片眼鏡をかけ、手に杖を持つ、王宮付きの司教クレディ・モンマスだった。

 頭には赤い平帽子を乗せ、肩から黒い帯状の肩掛けを下げ、マントをはおっている。

 彼は、王宮に居着いた教会勢力そのもの、といった存在だった。


 鼻息荒い、若い王太子に対して、老聖職者クレディは詰め寄った。


「教会法に基づき、すでに神前において、婚約の儀を行ったのを、お忘れか!?

 王家のみならず、様々な高位貴族家、さらには教皇様や教会を巻き込んで儀式をしてしまった以上、ただ若者だけの寄り合いで婚約破棄を宣言するだけでは済みませぬぞ!」


 さすがにフーシェ王太子は鼻白む。

 応接間のソファに身を沈めながら、言い返す。


「要は、俺の親である国王陛下と、聖女の親から、関係解消の了承を得れば良いのであろう?」


 クレディ司教は、長い顎髭を撫で付けながら、苦言を呈する。


「〈聖女〉は教会に捧げられた御子であり、親代わりは教皇様が担っております。

『聖女の親』の了承を得るということは、とりもなおさず、教皇様から了承を取り付ける、ということを意味します。

 果たして、それが可能かどうか。

 特に、殿下の婚約者であった聖女マグダラは、教皇ラ・グノーシス三世から、殊の外、可愛がられておりましたからな。

 それに、彼女は十二人の枢機卿によって開かれた会議で、特別に『聖霊に満たされた聖女』との認定を受けた、近年稀に見る能力者です。

 そもそも、殿下は、我がテレンス大神教の教会が世界各国に支部を持っているのを知らないのですか!?

 ダジール神聖王国が〈聖女〉を妃に迎えないとなると、確実に国際問題に発展しますぞ!」


 クレディ司教は、教皇庁の公式文書を作成・管理する尚書院あがりの聖職者だ。

 それゆえに、手続きにうるさいのだ。

 しかも、神聖王国の国王ですら、彼の立場には手出しできない。

 司教は聖王国内の聖職者を統括する立場にあり、彼の任免権を持つのは教皇ただひとり。

 しかも、彼、クレディ・モンマス司教は、ダジール神聖王国の巡察官や裁判官の選任、信徒の破門をすら行うことができた。

 そのため、実質的には、大貴族に匹敵する権力を持っていたのである。


「賢い」王太子フーシェは、老司教の剣幕に少々、恐れをなした。

 が、もはや婚約破棄を宣言したからには、後には退けない。

 内心の動揺を悟られぬよう、わざと大きな声で命令する。


「とにかく、どうすれば聖女との婚約を正式に破棄できるのか。

 貴方は、それだけを教えてくだされば良い」


 老司教のクレディは、大きく息を吸い込むと、一気呵成(いっきかせい)に吐き出した。


「教皇様や教皇庁への報告は私が行うとして、殿下が行うべきは、まずは国王陛下をはじめとした、殿下のご家族の了承を取り付けることですな。

 それから、聖女様との婚約の儀に参加した全貴族の家に、その婚約を取り消すことを伝えてから、もう一回、神前での縁組を白紙に戻すと言う〈秘蹟解消〉の儀式をする必要があります。

 さらに、婚約破棄をするにあたって、正当な理由が見当たらないと教皇庁が判断した場合は、聖女様に対しての慰謝料、そして教会に対する損害賠償が発生しましょう」


 自分を誰よりも賢いと思っている王太子は、唇を(ゆが)めた。

「結局は、金の話かよ!?」と吐き捨てたい気持ちになったのだ。

 ソファの上で、ふんぞり返る。


「すでに聖女マグダラには、慰謝料代わりとして、アイリスの山荘を与えている」


 アイリス領は王都にごく近い、馬車で半日の距離にある、山と湖に挟まれた王族の直轄領だ。

 だが、「アイリスの山荘」という場合は、王家が所有する、青い三角屋根を戴いた、木造二階建ての小さな山荘を意味する。

 新婚夫婦が泊まるには、ちょうど良い規模の建物だ。

 とはいえ、高位貴族に対する契約不履行の慰謝料として相応(ふさわ)しいほどの価値があるとはいえない。

 ちなみに、〈聖女〉は、神聖王国においては、名誉侯爵の爵位が認められた身分だ。

 アイリスの山荘ひとつでは、聖女マグダラに対する「慰謝料」としては、ずいぶん粗末なものといえる。


 だから、クレディ司教は思わず、


「そんな粗末なもので……?」


 と口にしてしまった。

 それを聞き(とが)めたフーシェ王太子は、カッと顔を赤くする。

 ケチだと思われたのが、心外だったのだ。


「聖女本人が望んだのだから、良いではないか!

 で、教会への損害賠償とやらは、いかほどになるのか?」


 老司教は白い顎髭を撫で付ける。


「前例がないゆえ、正確なところはわかりかねますが、おそらく三億タラントほどでしょう」


 額を聞いて、フーシェ王太子はビックリした。

 目を丸くする王太子には目もくれず、クレディ司教は話を進める。


「教皇庁の会計院に出頭して賠償額を言いなりに支払い、次いで、公文書を管理する尚書院に出向いて、書類手続きをしないと。

 そうだ。

 殿下のお相手からも、賠償金代わりとして、教会への献金が必要でしょうな。

 およそ一億タラントほど」


 フーシェ王太子は、再度、驚いた。

 この事実を伝えたら、確実に、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢が、亜麻色の髪を振り乱して、ヒステリーを起こすだろうと思われた。

 ラミー嬢は結構、気性が激しいのだ。


 でも、頑張ろう、と王太子フーシェ・ダジールは意を決した。


 とはいえ、大勢の貴族相手に頭を下げたり、教会関係者に莫大な慰謝料を支払わなければならないことがわかり、気後れしてきた。

 顎に手を当てて考える。


(婚約破棄を宣言するのを、早まったか。

 既成事実を作れば、どうとでもなる、と思っていたが……)


 すでにラミー嬢とは、婚前交渉すら行っていた。

 これは伏せておかねばなるまいと、「賢い」王太子は思った。



 そこへ、侍女を伴って、妹王女アンナ・ダジールが入室して来た。

 アンナ女王は、赤いドレスの裾をチョンと持ち上げ、黄金色の頭を下げる。


「お兄様。あの方の我儘(ワガママ)を、なんとかしてくださいませんか?」


「あの方」とは、亜麻色の髪が美しいラミー・マームズベリー伯爵令嬢のこと。

 妹のアンナ女王には、「聖女との婚約破棄」を事前に伝えてあって、新たな婚約のための披露宴準備を執り仕切らせていた。

 ところが、お相手のラミー伯爵令嬢が、「披露宴の規模が小さい」と怒り、準備が一向に進まなくなった、という。


 フーシェ王太子は首を(かし)げる。


「婚約できるんだったら、披露宴の大小なんか関係ないじゃないか」


 アンナは頬を膨らませた。


「ドレスだったり宝石だったり、希望のものが買えないのが気に入らないそうなの。

『もっと豪華絢爛に(もよお)されるべきよ!』と言って聞かない」


 妹王女アンナ・ダジールは、碧色の瞳を伏せながら嘆く。


「あんな(ヒト)、お義姉様とお呼びしたくはありません。

 王妃様(おかあさま)も呆れておいでですよ。

『披露宴? 何のために? それに、この粗暴な娘は誰なのですか?』と。

 まだ王妃様(おかあさま)に、婚約し直した、と伝えていないのですか、王太子殿下(おにいさま)!?」


 フーシェ王太子は、眉間に皺を寄せる。

 ラミー・マームズベリー伯爵令嬢が、同性から嫌われていることは、良く知っていた。

 でも、「どうせ女性特有のやっかみだろう」とたかを(くく)っていた。

 だが、フランソワ王妃殿下(おかあさま)までが眉を(ひそ)められるとなると問題だ。


 その一方で、意のままにならないとなると、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢が、褐色の瞳を怒らせながら、ダンダン! と地団駄を踏むさまが想像される。


 王太子フーシェ・ダジールは、口をへの字にして、腕を組む。


(ラミー嬢は、なんかこう、仕草が馬鹿っぽい。

 ほんとうに成績優秀な、首席卒業生なのか?)


 貴族社会は作法にうるさい。

 無作法に振る舞うことが評価を下げる大きな要因となる。

 貴族家の令嬢となると、なおのこと。

 なのに、ラミー伯爵令嬢は、明け透けに感情を吐露し過ぎる。

 粗忽者(そこつもの)としての(そし)りは(まぬが)れない。



 王太子の疑念を裏付ける事態が判明したのは、その日の午後になってからであった。


 王宮に一人の学園卒業生が、フーシェ王太子との面会にやって来た。

 ジェフリーという黒髪、黒目の男で、地味な灰色の服を着ていた。


「君、姓は?」


 と、フーシェ王太子が問うと、ジェフリーは、


「ございません」


 と答えて、頭を横に振る。


「ということは、平民か?」


 吐き捨てるような口調になった王太子の様子を見て、侍女が慌てた。


「すいません。

 ご学友かと思い、つい。

 即刻、追払います」


 王太子は右手を挙げて、侍女の行動を制する。


「いや、良い。

 王宮にまで出向いてきたのには、理由があろう。

 用件は?」


 ジェフリーは黒い頭を下げてから、決死の形相で顔を上げて訴えた。


「僕は、殿下が新たに婚約なさったラミー・マームズベリー伯爵令嬢と、懇意にしておりました。

 そこで、僕自身の苦境を察していただくためにも、ラミー嬢が行った不正行為について、ご忠告に上がりました」


「ほう。不正行為だと?」


 賢いと自認する金髪王太子は、嫌な予感がした。

 だが、ジェフリーという平民男は、フーシェ王太子の微妙な表情の変化を読み取ることなく、大声で告発した。


「ラミー伯爵令嬢が在学中、すべての試験において、僕、ジェフリーと答案をすり替えていたのです」と。


 思わず、「賢い」王太子は、席を立つ。


「なんだと!?

 ということは、首席は君だったというのか?」


 黒髪黒目の男は、大きく(うなず)いた。


 ジェフリーという平民卒業生が言うにはーー。


 彼女、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢の試験答案は、全部、ジェフリーが書いたものらしい。

 強引に彼女の隣の席に指定されて、教師もそれを通した。

 おかげで、回収する際、答案用紙を密かに交換できた、と。


「どうして、そのようなことを……」


 椅子に座り直した「賢い」王太子は、(さげす)むような目をして問いかける。

 これに、平民ジェフリーも、うつむき加減に(こた)えた。


「恥ずかしながら、我が家は貧しく、ラミー嬢のお父上ミラン・マームズベリー伯爵からかなりの額の借金をしているうえに、マームズベリー伯爵家の援助なくして、僕は学園に入ることも通うこともできませんでした。

 それゆえ、ラミーお嬢様の要求を断れませんでした。

 お父上のミラン・マームズベリー伯爵にも言われたんです。

『娘を首席にできたら、おまえの授業料を全額我が家が負担するうえに、良い就職口も世話してやる』と」


「貴様、恥を知らんのか!」


 と叫びたいのを、フーシェ王太子は、グッと堪えた。

 そして、大物ぶって、自身の手を組んで、苦笑いを浮かべる。

 

「さすがは平民というところか。

 ジェフリーとやら。

 貴様の事情は、理解した。

 が、それならば、なぜ俺に告発を?」


 ジェフリーは両拳を握り締めた。


「ラミー嬢の答案がすべて僕の答案ということにされた結果、どの機関からも、

『あまりに成績が悪いから、どの職も紹介できない』

 と言われたのです。

 ミラン・マームズベリー伯爵も、自分の娘が首席卒業にできただけで満足したようで、私との約束をすっかり忘れているようでした。

 これでは、僕は納得できません。

 ラミー嬢の試験答案は、本来ならすべて僕のもの。

 僕こそが、ほんとうの学園首席卒業生なんだ。

 それなのに、ラミー嬢の成績が酷いからって、僕の将来が奪われたのです!」


「だったら、それはマームズベリー伯爵家に文句を言うべきであろう。

 王宮に足を向けた理由は?」


 王太子が怪訝(けげん)そうに言うと、間髪入れずにジェフリーが答えた。


「殿下が、ラミー嬢と婚約なされたと聞いたからです。

 許婚者として、ラミー嬢の代わりに責任を取ってもらおう、と。

 ラミー嬢が王妃様におなりになった後で、〈答案すり替え〉が露見するよりは、婚約段階の今、対処なさるべきかと愚考いたしましたので」


「賢い」王太子は、頬を引き()らせた。


「貴様、平民の分際で、王太子である俺を脅すのか!?」


「いえ、誓って、そのようなことは!」


 慌てて両手を振るジェフリーを見据えて、フーシェ王太子は物騒な考えを抱いた。


(コイツーー手っ取り早く、『口封じ』してやるか?

 いや、待て。

 まだ、何か裏があるかもしれん……)


「平民なんか、殺せばお終いだ」という危険な思考をいったんやめて、フーシェ王太子は椅子から身を乗り出した。


「貴様、誰の勧めで王宮に来た?」


 ジェフリーが答えにくそうにしているので、王太子は、自慢の美貌を侍女の方に向ける。

 王宮付きの侍女は、窺うような目付きで(こた)える。


「このジェフリーなる平民男は、聖女マグダラ・グノーシス様の紹介状を(たずさ)えておりました」


「なんだと!?

 ジェフリー、貴様、アレと知り合いだったのか?」


 ジェフリーは冷や汗を額に浮かべつつ、うわずった声をあげた。


「はい。図書館で、頻繁に聖女様と顔を合わせておりました。

 机を並べて勉強する機会もございまして、懇意にさせていただいたのです。

 ですから、僕の就職がままならない状況になったと知って、恥ずかしながら、彼女が引き篭もった山荘を訪問いたしまして、僕の置かれた現状をすっかり話しました。

 すると、聖女様は仰せになったのです。

『ラミー嬢についての醜聞なら、殿下のお耳に入れておくべきですよ。

 殿下が彼女の夫となるのですから』と」


 平民男からの話を聞いて、フーシェ王太子は歯噛みする。


(うぬう。

 自分がフラれた意趣返しというヤツか!?

 でも、俺は屈しないぞ!)


 王太子フーシェ・ダジールは立ち上がって、金髪を掻き上げた。


「マームズベリー伯爵家の父娘(おやこ)を、俺の許に呼び寄せよ!

 今、すぐだ!」


 高位貴族家は皆、王都の貴族街に居を構えている。

 三時間後には、王宮の応接間に、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢と、その父ミラン・マームズベリー伯爵が馳せ参じて、頭を垂れていた。


 王太子は椅子の上で脚を組み替えつつ、顎を突き立てた。


「そこにおるジェフリーなる平民から告発された。

 貴様らがジェフリーの答案を盗んだ、と」


 その瞬間、ジェフリーの顔に向けてハイヒールがぶつけられた。

 ラミー・マームズベリー伯爵令嬢が立ち上がり、亜麻色の髪を振り乱す。


「酷い! なんで白状しちゃうわけ!? 馬鹿じゃないの!」


(馬鹿はどっちだよ?)


 王太子は顔に手を当てて、ゲンナリした。

 それでは、答案のすり替えをした、と自白したも、同然ではないか。

 そんなことにも気づかぬほどの愚か者とは。


 父のミラン・マームズベリー伯爵が、チョビ髭を撫で付けながら答える。


「盗んだなどと、滅相もございません、殿下。

 交換したまででして」


 フーシェ王太子は、不愉快げに吐き捨てた。


「学園での試験答案だぞ。

 明白な不正行為ではないか!」


 いくら王太子が相手であっても、子供の年齢の者に恫喝されたところで、意に介さないーーミラン・マームズベリー伯爵は、そういう太々(ふてぶて)しい性格をしていた。


「これは異なことを。

 その昔、先代のバーモンド子爵が学園時代、落第寸前のところを、従者が代わりに答案を書き、無事、学園卒業を果たしたことは、従者の忠義譚として有名でございましょう」


 賢いと自認する王太子は、苛立ちの声をあげた。


「それは、時効ともいえる晩年に、従者が亡くなった折の弔辞として子爵が涙ながらに語ったゆえ、美談となったのだ。

 不正は不正であろう。

 問題は、このジェフリーの答案によって、ラミー嬢が首席卒業となってしまったことだ。

 首席卒業の栄誉を汚したこととなる」


 ミラン伯爵は、パチン! と膝を一打ちした。


「おお、なるほど。

 たしか、殿下こそが、二年前の首席卒業生でございましたな。

 だとしたら、お怒りはごもっともでございましょう。

 ですが、殿下が不正行為によって首席となったとは、誰も思いますまい。

 ラミーの事情はラミーの事情。

 同じ首席卒業と思わなければ良いのです。

 それに、この交換取引は、ジェフリーめを不当に(おとし)めてはおりません。

 平民のジェフリーがいくら成績優秀でも、貴族が通う学園において、首席になれることはございません。

 高位貴族の令息、令嬢に、首席を譲る決まりです。

 でしたら、あらかじめ、我が娘に譲っても問題ないでしょう?」


 流暢に言い訳を並べ立てる父親に、援護するつもりで、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢が口を挟む。

 だがしかし、この彼女のセリフが、自分たちを奈落の底へと叩き落とすきっかけとなった。


「そうよ、そうよ。

 どうせ、殿下だって、従者か誰かに答案を書いて貰ってるんでしょ!?」


 娘の無思慮な発言を耳にして、父は青褪めた。


「ば、馬鹿者、そのような口をーー」


 ミラン伯爵は、一気に血の気が退く思いだった。

 案の定、フーシェ王太子は激発した。


「おのれ!

 このような女を、我が妻ーー将来の王妃とするわけにはいかぬわ。

 この愚かな父娘を即刻、監獄へぶち込め!」


 ラミー嬢は、王太子がいきなり怒ったのを見て、驚いた。

 いつも冷然とした態度で見下してはいるが、怒ることができない性格なのだと、王太子のことを勘違いしていたのだ。


「え? ちょっと、マジ? マジなの!? ねえ!?」


「お慈悲を。お慈悲をーー!」


 驚き、騒ぐマームズベリー伯爵家の父娘(おやこ)を、王宮の衛兵たちが応接間の外へと追い立てる。


 そうした伯爵父娘(おやこ)の醜態を目にして、ジェフリーはホッと胸を撫で下ろす。

 自分の告発が実ったのだ、と安堵したのだ。

 ところが、残念なことに、その様子が、王太子の(かん)(さわ)った。

 賢いと自認する王太子は、碧色の瞳でジェフリーを睨み付ける。

 そして、(かたわ)らに衛兵隊長を呼びつけて、言い放った。


「仮にも、皆の前で、俺自身が、『婚約し直す』と宣言した令嬢だ。

 ラミー・マームズベリー伯爵令嬢を、重く罰するわけにはいくまい。

 修道院送りにでもしておけ。

 罪状は『不義密通』にでもしておけば良い。

 相手は、この平民のジェフリーだ」


 王太子から指さされて、ジェフリーは、黒い瞳を大きく見開く。


「そ、そんな!?」


 驚く平民の顔を見下ろし、「賢い」王太子は意地悪く笑った。


「神聖王国の王太子が、婚約者として選んだ女が、

『じつは答案すり替えで、成績を偽っていた』

 と知られれば、俺が能力を見る目が節穴ということになってしまう。

 その点、欲情による『不義密通』ならば能力に関係ない、倫理的な問題だからな。

 その当事者同士ーーラミー嬢とジェフリーの責任ということになる」


 王太子の椅子から、距離を保って立っていたジェフリーは、前へと歩を進めた。


「ま、待ってください! 僕はどうなるのです?

 貴族の、しかも王太子殿下のお相手ーー王妃殿下候補と通じたとなれば……」


 王太子は顎をしゃくりながら笑う。


「当然、死刑だな。

 残念だよ。

 せっかく能力があったのに、カンニングに協力するなんて」


「酷い。僕には断れなかった事情がーー」


「そんなこと、知るか」


 ジェフリーは膝を着いて、土下座した。


「殿下、どうか、その処分はおやめください。

 僕だけじゃなく、両親や妹までに類が及びます。

 こうして、答案を交換するという不正行為を告白したんです。

 ご慈悲を……」


「真の首席卒業生」が、必死になって、何度も額を床に叩きつけて懇願する。

 ところが、「賢い」金髪の王太子は、脚を組んだまま、冷酷に言い放った。


「ふん。平民に生まれ落ちた不幸を嘆くが良い」


 絶望的な言葉を耳にして、ジェフリーは気絶してしまった。

 フーシェ王太子は、白眼を剥いて昏倒する平民に対して、


「コイツも収監しておけ。

 当然、平民用の牢獄にな」


 と口にし、その命令に衛兵たちは従った。


(ラミー伯爵令嬢の件は、これで良し、と。

 問題は、誰を新たな婚約者とするか、だな……)


 賢いと自認する王太子は、目を瞑り、椅子の上で思案した。


 これで、婚約者がいなくなってしまった。

 急いで別の婚約者を見繕う必要があった。


 フーシェ王太子は、執事を傍らに呼び寄せて、問いかける。


「ラミー嬢と同期の女性で、ほんとうに成績優秀だったのは、誰だったのだ?」


 王太子にとって、ラミー嬢の代わりを見つけるのは簡単だ。

 彼女は「不義密通」で婚約者に不適格になったことにして、真の成績優秀者を、新たに婚約者に据えれば良い。

「成績優秀な彼女」と、「婚約し直そうと思う」と、皆の前で宣言したのだから、矛盾はない。


 執事は、学園から王宮に報告が上がっている成績表を閲覧しながら(つぶや)いた。


「ラミー嬢が不正で脱落したとあらば、女性の第一位は平民、第二位は子爵令嬢、第三位は男爵令嬢ーー皆、推し並べて身分が低いですな。

 とても王妃候補にはできかねます……」


 王太子は、ドン! と肘掛けを叩く。


「王妃になるのに不足ない、高位貴族の令嬢では、誰がトップなんだ!?」


 激発する王太子に対して、執事は言いにくそうに小声で答えた。


「名誉侯爵令嬢であらせられる、聖女マグダラ・グノーシス様です……」


「なんだと!?」


「しかも、聖女マグダラ様は、

『第三火曜日の聖日は、働いてはいけない』

 という聖職者規約によって、一科目、国語の試験を受けておりません。

 それでも五位を取得しております。

 もし全科目試験を受けておられたら、男性を含めても、ダントツのトップでした」


 フーシェ王太子は金髪をクシャクシャにして、頭を抱えた。


「仕方あるまい。

 賠償金のこともある。

 彼女ーー聖女マグダラと婚約をし直すことも視野に入れよう。

 でも、出来れば、テレンス大神教という宗教団体の(くびき)から、王権を自立させたい。

 とりあえず、マグダラとは婚約破棄をした、という事実を陛下にお伝えしよう。

 それからのことは、また考えれば良いだろう」


 賢いと自認する王太子は、いまだ自分が取り返しのつかないことをしでかした事実に気付いていなかった。


◆3


「なぜ勝手に、聖女との婚約を破棄したのだ!?

 この大馬鹿者めが!」


 ダジール神聖王国の国王アルナウト・テラ・ダジール陛下は、怒りに全身を震わせた。

 王宮の謁見の間で、片膝立ちになった息子のフーシェ王太子から、聖女マグダラ・グノーシスとの婚約を破棄した、と事後報告の形で、聞かされたからだ。


 卒業舞踏会で宣言されたということは、もう大勢の貴族家に知れ渡っており、今頃、噂で持ちきりとなっていることだろう。

 アルナウト国王は、王冠を外して、白髪頭を掻きむしる。


「余は、テレンス大神教の教皇ラ・グノーシス三世から、昔から何度も念押しされていたのだ。

『〈白い聖女〉こと、聖女マグダラを、よろしく頼む。

 儂が幼少の頃から手塩にかけて育てた孤児での。

 わがテレンス教の誇りとなる聖女だ』と。

 それなのに勝手なマネを……」


 予想以上に狼狽(ろうばい)する父王の反応に、少々驚きながらも、フーシェ王太子は居直るように言い返した。


「しかし父王陛下。

 我が王国もテレンス大神教の権威を借りず、独力で国を成り立たしめる時機に来ているのではありませんか?」


 アルナウト国王は、息子の整った顔を正面に見据えて、吐き捨てる。


「どういう時機だというのだ?

 我が国は『神聖』王国なのだ。

 建国以来、テレンス大神教の後ろ盾あってこそ、独立が保てていた。

 テレンス大神教は我が国のみならず、世界数十ヵ国で信奉されている宗教で、我が神聖王国の民のじつに九割以上が信徒なんだぞ。

 聖俗の分かちが保てているのに、なぜ教会に対して対抗心を持ったのか」


「裁判官の任命権ぐらい、王権が握っても……」


「そういった細かい権限はどうでも良い。

 問題は、其方が王太子の身でありながら、(きさき)を聖女出身者にしない、と宣言したことだ」


 フーシェ王太子は、子供らしく頬を膨らます。


「俺の妻に誰がなるのかという問題が、どうでも良いはずがないでしょう!?

 ちなみに、マグダラは孤児だったというではないですか。

 平民以下ですよ」


「なんということ!

 貴方の振る舞いの根底に、そういう侮蔑心があったのですね!?」


 と嘆きの声をあげたのは、王妃フランソワ・ダジールだ。

 紫色のドレスをまとう彼女も、元聖女だ。

 当然とも言えるその事実を、王太子は失念していたのだ。


 元聖女である王妃は、滔々と述べ始めた。


「聖女の能力は生まれ持った素質と、長い修練の果てに獲得されるもの。

 それこそ、世界中から教会へ集められた少女の中から、ほんの一握りの少女しか得られない称号なのです。

 だからこそ、聖女を妃に迎える〈神聖王国〉は、世界中で二十四カ国もあるのです。

 それとも、私が何か、母として相応(ふさわ)しくない振る舞いでも?

 貴方の母親である私も、かつては聖女だったのですよ」


 母が睨みつけてくるのを初めて目にして、王太子は動揺する。


「いえ。でも、母上はもともと、ベタルカ皇国の皇女殿下だったではありませんか。

 なのに、同じ聖女とはいえ、俺は素性の知れない孤児あがりの女を妃に迎えるのは……」


 母親の王妃は、はぁ、と大きく嘆息した。


「聖女に、前歴や身分は関係ありません。

 むしろ、孤児上がりなのに聖女の称号を得るにまで至った事実に、私は驚きを禁じませんでした。

 事実、貴方は感じたことがないのですか?

 彼女の全身に降り注ぐ聖霊の豊かな加護の力をーー」


「聖霊? そんなもの、私は感じたことはございません」


 居直った感のあるフーシェ王太子に対し、国王アルナウト・テラ・ダジール陛下が、ここで口を挟んだ。


「其方は余に似たのだ。

 余も、聖霊の力や、大神様の祝福を感じたことはない。

 だが、多くの者が感じるというからには、

『そういうものも、あるやも』

 と思っておけば、良いではないか。

 其方の母親の妃も、妹の王女も、そういったものに敏感なのだから」


 王太子は、美しい相貌に似合わず、下品な仕草で鼻を鳴らした。


「ふん。

 女という生き物は、そういった目に見えないものを、無闇にありがたがるってことは知っていますよ。

 でも、それだけです。

 そんなものがあるなら、どうしてこの世から(いくさ)や争いがなくならないのです?

 貧困や犯罪が、後を絶たないのはなぜですか?」


 フランソワ王妃が毅然とした態度で断言した。


「人が愚かで、欲が深いからです。

 貴方は病気になる人がいるからといって、食物に栄養がないと思うのですか。

 空気があるのに、目に見えないからと言って、存在しないというのですか」


 フランソワ王妃と一緒に、その傍らに座る妹のアンナ王女までが、憐れむような視線を向けてくる。

 フーシェ王太子は対抗するかのように、胸を反り返した。


「母上。俺はそういった、ありがたいお話には、興味がないのです。

 単純に、少しでも王権がテレンス大神教から離れて力を持てたら、と」


 アルナウト国王は、ダン! と強く肘掛けを打った。


「浅慮に過ぎる!

 其方が聖女に婚約破棄を言い渡したことによって、我がダジール神聖王国が、テレンス大神教と隔意があるとみなされよう」


「その通りですぞ、陛下!」


 ここで、王宮付き司教クレディ・モンマスが、片眼鏡を光らせて登場する。

 大きな瘤の付いた杖を掲げながら、老司教は断言した。


「聖女マグダラ・グノーシスは、我が神聖王国においては名誉侯爵の位にあり、テレンス大神教では、教皇の名を直々に姓に戴いた聖女でもあります。

 彼女は教皇庁の枢機卿会議において、全会一致で認められた聖女。

 テレンス大神教に関わる者、ほとんどすべての者が、聖女様が言われもなく婚約を破棄された事実に、ダジール王家に対して憤慨しております。

 特に、王太子である貴方に、腹を立てているのです。

 聖女マグダラ様を拒否したからには、貴方を次期国王にするわけにはいかない!

 いずれ教皇様から、フーシェ王太子殿下に対して、破門が言い渡されるでありましょう」


「そ、そんな!」


 フーシェ王太子は、自分が国王になる未来図を当然のように思っていた。

 なので、思わぬ形で、その生まれながらの既得権を失いそうになっていることに、ようやく気がついたのだ。


 神聖王国のダジール王権の権威自体が、教会によって支えられていたのだ。

 それを痛感したのである。


 王太子は両膝を突き、クレディ・モンマス大司教に訴えた。


「り、了解いたしました。

 聖女様との婚約破棄は、一時の気の迷いでした。

 現に、新たな婚約者としたラミー伯爵令嬢は、俺を騙した罪で父親のミラン・マームズベリー伯爵ともども、収監しております。

 聖女マグダラと再び婚約を結ぶ条件は整っております」


 司教クレディ・モンマスは顎髭を撫で付けながら、歯噛みする。


「なんとも身勝手な。

 聖女様は貴方が慰謝料として寄越した山荘に引き篭もっておられる。

 今現在も、神聖王国から浄化の力が失われていくのが、私には手に取るようにわかる」


(くそ! またも非科学的な言いがかりを……)


 フーシェ王太子は歯軋りする。

 そして、大声をあげた。


「要は、アレと寄りを戻せば良いのだろう?」


「賢い」王太子はそう言い捨てて、身を(ひるがえ)し、謁見の間から退出して行った。

 残された国王夫妻と妹、そして老司教は互いに目を合わせながら、唖然としたままであった。


◇◇◇


 老司教クレディ・モンマスから、


「聖女マグダラ様を拒否したからには、貴方を次期国王にするわけにはいかない!」


 と断言された翌日、早朝ーー。


 金髪の王太子フーシェ・ダジールは白馬に(またが)り、聖女マグダラを迎えに行くことに決した。

 子飼いの従者を十人ほど伴って、アイリス領の山荘へと向かったのだ。

 王位継承権を確固たるものにするには、聖女マグダラを迎えに行くしかなかった。


 アイリス領は王都から半日の距離である。

 昼過ぎには、山荘の間近、湖畔地域にまで到着した。

 周りを見回して、フーシェ王太子は首を(かし)げる。


「相変わらず美しい湖だが……緑が豊かすぎないか?」


 湖畔から山荘へと続く道が、さながら花の博覧会となっていた。

 春夏秋冬、それぞれの季節にしか咲かない、色とりどりの花が満開になっていた。

 良く見れば、その花の周りには蜜蜂が飛び交い、なんだか良く見えない、白いフワフワした球体も見受けられる。

 季節は秋から冬に差し掛かる頃で、王都では吐く息が白くなるほど寒さが増していたのに、この山荘付近では、ポカポカと暖かく、まるで春の陽気だった。

 かなり異様な世界になっていた。


 十名以上いた従者たちは、ビビり始めた。


「冬と夏の花が並んで咲き誇ってるなんて……」


「おかしいですよ、これ。

 何処か別の世界に迷い込んだんじゃ……」


 花に詳しい女性の従者たちは、真っ先に、涙ながらに逃げ出した。

 他の男どもは、異様さは感じられても、花の種類に興味がなかったゆえに逃げ出すほどの恐怖を感じるに至らず、そのまま山荘へと向かう。

 女性従者は、聖女マグダラを連れ出すことに成功した暁に、彼女の着替えを手伝わせるために連れてきただけなので、彼女たちがいなくなっても王太子は痛痒にも感じなかった。


「大袈裟な。

 単なる天候異常だろ」


〈聖女様〉に逢いに行くと考えて、皆、身構え過ぎるのだ、と王太子は思った。

 フーシェ王太子は、聖女マグダラと十年以上、付き合ってきた。

 婚約者として、お茶をともにしたり、散歩したり、一緒に勉強したり。

 穏やかな雰囲気に包まれるのが、彼女と逢った際の特徴だった。

 だが、若いフーシェは、もっと刺激が欲しい。

 もっと、活動的なことがしたい。

 十五歳の成人を迎えて以降、何度か狩猟に誘ったが、聖女マグダラは頑として同行してくれなかった。

 それ以来、ほぼ五年間、あまり出逢うことがなくなった。

 学園でも二学年も違ったから、顔を合わせる機会に乏しいままに終わったのだ。

 そして、この度の婚約破棄宣言だ。


(もっと頻繁に逢っていれば、情も湧いて、こんなことにはならなかったかもな……)


 王太子がそんなことを思っているうちに、小川にかかった短い石橋を渡って、目的の山荘に辿り着いた。

 青い三角屋根を戴いた、木造二階建ての小さな建物だ。


 王太子は下馬して、木製の門を勝手に開け、ズンズンと歩を進める。

 元々は王族の憩いの場だったから、昔から知っている我が家のようなものだ。


 我々がやって来ることを察知していたのか、玄関の前で、聖女マグダラ・グノーシスが立っていた。

 そして、深々と頭を下げる。

 実際に会ったら、彼女の様子は、いつも通りだった。

 銀髪に青い瞳。

 そして、白磁のような肌に、白いドレスをまとっている。


(ほら、見ろ。

 そのままエスコートしてやる!)


 王太子は聖女の前で、片膝立ちになる。

 そして、聖女の手の甲に、手袋越しにキスをした。


「お迎えに上がりました」


 王太子は美貌を活かして、綺麗な笑顔を見せる。

 ところが、聖女マグダラはソッポを向く。

 手を差し出すのもやめて、振る舞いによって、同行するのを断ったのだ。


 初めて釣れない反応をされて、王太子は焦った。


「お怒りを鎮めてください。

 寄りを戻そう、マグダラ」


 フーシェ王太子は立ち上がって、聖女の手を握る。

 が、聖女は、その手を振り払い、キッパリと言った。


「都合良く、ラミー嬢に婚約者を乗り換えたことを、まるでなかったことかのように振る舞うのは、許せません。

 もし殿下が、どうしても私と付き合いたいと言うのなら、婚約破棄したことを改めて皆様に向けて発表して、私に慰謝料を支払って、それから改めて婚約し直してください。

 貴族の方々や教会関係者の皆様にも、すべて事情をお話しください。

『俺は、試験答案をすり替えるような女性に婚約者を乗り換えたものの、王位が欲しくて、マグダラと婚約し直そうと思う』と」


「そんな……聖女である貴女に、恥をかかせたくない」


 憐れむような瞳で言い返す王太子に、聖女は深い溜息をつく。


「また、そのような言い方を。

 恥を掻きたくないのは、殿下の方でございましょう?

 おおかた王位を継げなくなると、誰かから脅されたのかしら。

 みっともなく態度を豹変させて。

 ほんと、その程度の覚悟もなく、婚約破棄だなんて、軽々しく口にして。

 殿下にはどうやら、国王の重責は担えそうもありませんね」


 聖女マグダラの瞳が、青から金色に変わった。


「う……」


 王太子が再度、聖女の手を取ろうとしたら、ビリッと静電気が走る。

 ビックリして、手を離した。

 身を退(しりぞ)かせたあとは、聖女に威圧されて、近づくことができない。

 自慢の筋肉までが(しぼ)んでいくように感じられた。


(な、なんだ、これは!?

 気持ち悪い……。

 こんな非科学的な現象ーー俺は認めないぞ!)


 フーシェ王太子はマントを(ひるがえ)し、玄関先から飛び出して行く。

 そして、門の外で待機していた侍従の集団と合流するやいなや、命令した。


「焼き払え!

 山荘ごと焼き払うのだ」


 いきなりの焼き討ち命令に、従者たちは目を見開き、困惑する。


「それでは、聖女様が……」


 戸惑うばかりで、動こうとしない従者たちに腹を立て、王太子は白馬に(またが)りながら、怒号を張り上げた。


「どうせ、聖女のヤツは、白いドレスを着込んだままだ。

 火がついて黒く焦げ出したら、慌てて逃げ惑って来るさ。

 その逃げて来るところを、捕らえれば良い」


 主人の命令に(そむ)くことはできない。

 仕方なく、従者たちは互いに目を合わせ、(うなず)き合う。

 いつも狩猟に同行する従者たちだ。

 戦争体験者が多く、傭兵上がりの者すらいた。

 だから、用意が良く、突然の焼き討ち命令にすら、応じることができた。

 まずは、松明用の油を、布に染み込ませる。

 それから、その布を巻いた矢を、山荘に向けて放った。

 火矢を射ち込んだのである。


 ガツ、ガツと音を立てて、矢が刺さっていく。

 ところが、鏃が山荘の建物に届いていない。

 どうやら空中で止まっているかのようだった。

 ちっとも山荘が燃えないのだ。

 木造なのに。

 苛立って、今度は斧で板張りを叩き割ろうと試みる。

 が、出来ない。

 見えない、薄い膜に取り囲まれたようで、刃が山荘の建材まで届かない。


「秘蹟だ!」


「聖女様の秘蹟だ!」


 従者たちが口々に叫んでは、逃げ去って行く。

 フーシェ王太子は馬上から叱咤した。


「馬鹿者! 今さら、何処へ行こうというのだ。

 待て! 王太子である俺を置いて逃げるなど、許されるとーー」


 そこまで怒鳴った、その刹那ーー。

 フーシェ王太子の頭に、ボッと小さな青い炎が点滅する。

 かと思うと、瞬時に、ボウっと音を立てて燃え広がり、自慢の金髪が黒く焦げていった。


「な、なんだ!?」


 王太子は驚いて、両手で頭を掻きむしる。

 だが、火を掴むことはできない。

 余計に青い炎が、身体の方々へと移っていく。

 赤い軍服調の衣装にも、青い炎がまとわり付いた。


 白馬が前脚を高く掲げて(いなな)いた。


「うわっ!」


 フーシェ王太子は白馬から振り落とされてしまった。

 その拍子に、腰を強く打った。


(うう……)


 青い炎が身体中にまとわりついて、熱くて、苦しい。

 フーシェは急いで服を脱ぎ始める。

 だが、青い炎は王太子の身体を、満遍なく包んだままであった。

 青い炎は魔法の火と評され、赤い炎よりも熱いと言われている。

 それなのに、まったくフーシェには熱く感じられない。

 おかげで肌が焼け爛れ、美しい顔までが焼け爛れて、顎や頬の骨、頭蓋骨が露出するまでになっても、彼自身は平気だった。

 見ている従者の方が動揺して、王太子を腕力で強引に石橋の所まで引きずると、そのまま小川に叩き落とした。


 バシャン!


 盛大に水飛沫があがり、ようやく青い炎は消え去った。

 ところが、フーシェ王太子は、焼け爛れた容姿のままだ。

 肌が焼け爛れ、頬骨や頭蓋骨が露出していた。


「ひいっ!」


「化け物!」


 従者たちが揃って馬を駆って、森から出て行った。

 なので、取り残されたフーシェ王太子は、独りでトボトボと歩いて王都まで逃げ去るしかなかった。


◆4


 フーシェ王太子は、懐に忍ばせていた金貨を何枚か置いて、農村で繋がれていた農耕馬を勝手に拝借して、半日かけて、ようやく王都に戻ることができた。


 すでに星々が空に(またた)く、夜遅い時刻になっていた。

 フーシェ王太子は顔や胸を中心に、酷い大火傷を負っている。

 ところが、彼自身は痛みを感じていなかった。

 王宮に辿り着いた途端、侍女たちに悲鳴をあげられ、ようやく自分の異変に気が付いた。

 姿見の鏡で見て、悟った。

 自分が、半分骸骨のような、半裸の化け物ーー伝説に聞く〈ゾンビ〉とか〈アンデッド〉のごとくになっていることを。


 慌てて王宮お抱えの医師を呼びつけ、治療をさせる。

 だが、容姿はともかく、痛みもなく、至って健康であると判明し、医師立ちも当惑するしかない。


 フーシェの姿を垣間見た者は、誰もが思った。

「聖女様の怒りを買い、呪いをかけられたのだ」と。


 王太子に先んじて逃げ帰って来た従者たちが、すでに次々と証言していた。


「嫌がる聖女様に追い(すが)ったものの、王太子殿下は振り払われました」


「聖女様が山荘にお篭りになると、殿下は憤慨して、今度は火矢を放たせ、火付けや破壊行動を命じたのです」


「すると、王太子殿下の身体を青い炎が包み込んで、聖なる火に焼かれました」


「それもそのはず。

 王太子殿下の振る舞いは、あたかも聖女様を迫害する異教徒のごとくでありました」


 彼らの証言は、噂となって、(またた)く間に王宮の隅々、そして王都の街中にまで伝播していった。


「聖女様に向かって、なんということを!

 婚約し直すのではなかったのか!?

 そもそも、今まで、聖女マグダラとどのように付き合ってきたのだ?」


 国王アルナウト・テラ・ダジール陛下は、白髪を震わせて激怒した。

 王妃フランソワ・ダジールは涙が溢れた目を、扇子で覆い隠す。

 自慢の息子であった王太子の、変わり果てた姿を見て、悟ったのだ。

「聖女の呪いを受けたのだ」と。

 自身が教会で学んだ伝説と、ピッタリ当て嵌まる現象であった。


 ところが、フーシェ王太子は、不思議なほど活力に満ち溢れていた。

 グルグル巻きの包帯を自ら取り、両手を広げて抗弁する。


「従者どもが言うような超常現象など、ありませんでした。

 俺の身体に青い炎がまとわり付いたのは事実ですが、その場に聖女はいなかった。

 山荘に引っ込んでいたんです。

 つまり、今回の事件は、従者どもが聖女の伝説に勝手に恐れをなして、山荘を焼き損なったーーそれだけだのこと。

 ゆえに、俺の命令に従わなかった従者どもを処刑すべきです!」


 だが、そう主張する王太子の姿を見れば、まるで説得力がなかった。

 金髪は半分になり、焼け爛れた顔の半分は骸骨まで露呈し、両腕や胸の筋肉もゴッソリと削ぎ落とされ、肋骨さえ見えるありさまだ。

 身体中が、赤く焼け爛れた姿なのである。

 それなのに、どうやら痛みを感じていないのが、かえって恐ろしい。


 国王アルナウトは、涙で目を(うる)ませながら、宣言した。


「もはや聖女マグダラとの婚姻は不可能だと認めよう。

 其方は、その姿を国民に(さら)せると思うのか。

 我がダジール王家そのものが呪いを受けたようだ」


 王妃フランソワは扇子を閉じると、元聖女として、息子の非を弾劾した。


「貴方が勝手に聖女マグダラとの婚約を破棄し、ラミー嬢なる女に乗り換えたのは、調べがついています。

 しかも、自分が見る目がなかったのを隠すために、試験答案をすり替えて不当に首席となったラミー嬢の不正行為を隠蔽するために、伯爵父娘ともども、答案を書いた、本当の首席成績者の男子生徒も一緒にして、監獄送りにしましたね。

『不義密通』という罪状まで(こしら)えて。

 恥を知りなさい。

 男子生徒の親から王宮に向けて、告発文も届いているのですよ」


「そんな平民の戯言(ざれごと)、無視すれば……」


 骸骨顔で嘲笑(あざわら)うさまが、不気味さを何倍にも増していた。

 王妃フランソワは扇子を落とし、両手で顔を覆い、泣き始める。


 司教は杖で顔を隠し、アルナウト国王は肘掛けを、ドン! と強く叩いた。


「フーシェ!

 其方は我がダジール王家の権威を、地に堕とそうとするのか!

 やむをえぬ。其方を廃嫡とする!」


 骸骨男が身を乗り出す。


「そんな!

 息子は僕だけなのに!?

 誰を代わりに王太子にするというのです?

 従兄弟のウイリアムですか?

 でも、アレは、成績劣等でーー」


 王弟の子で、フーシェよりも三歳年長のウイリアム・ダジールという小太りの青年がいた。今まで、王位継承権第二位と目されていた人物だ。

 ところが、アルナウト王が念頭に置き始めていた次期国王は違った。

 父として、国王として、正面から、骸骨男に成り果てた息子を見据えて叱責する。


「従兄弟のウイリアムではない。

 アンナ王女がいるではないか。

 アンナは其方の妹だが、信仰深くて教会からの評判も良い。

 其方が聖女マグダラとの婚約を破棄したので、『聖女様を妃に迎える』という我がダジール王家の伝統が途切れた。

 その結果、聖女を迎えないのならば、逆に女性が国王となる絶好の機会となろう」


「そんな……」


「とにかく、廃嫡となった其方が、王家の今後の心配をする必要はない。

 早々に立ち去れ!」


 衛兵が飛び出して、骸骨男を床に叩き伏せた。

 そのまま後ろ手に縛って、謁見の間より外へと連れ出して行ったのであった。


◇◇◇


 結局、フーシェ王太子は幽閉の身となった。

 とはいえ、内務卿のシビル公爵をはじめとした、


「フーシェ元王太子こそ、次期国王に相応(ふさわ)しい」


 と推す勢力もあり、監獄塔からの釈放を勝ち取り、一ヶ月も経ずして、外へと出ることに成功した。


 ところが、フーシェは依然として王家から勘当され、新たにテレンス大神教会から破門された身である。

 王宮には入れず、シビル公爵邸での居候(いそうろう)となった。


 そして、活動の自由を得たフーシェ元王太子が、真っ先に行ったことが、聖女様へのストーカー行為であった。


 今日も朝早くから、フーシェ元王太子は白馬に乗ってアイリス領の山荘に出向いては、玄関前で(ひざまず)き、


「許してくれ、聖女マグダラよ。

 君が許してくれたら、元に戻れるんだ!」


 と叫び続けた。


 聖女マグダラは窓辺からフーシェの様子を眺めては、ウンザリして、溜息をつく。


(今さら元の(サヤ)に収まることはないのに……。

 どうして、それがわからないのかしら?

 一度、私との婚約を破棄した事実がある限り、教会や教皇庁からの支持を取り付けられないでしょうし、何よりこの神聖王国の九割上を占める大神教の信徒から忌避されるに決まってる。

 だから、たとえ私がかつての非礼を許したからといって、貴方が王太子に返り咲くことはないし、私との結婚は不可能だというのに。

 自分と配偶者に成績優秀さを求めて、本人としては客観的な能力でもって権威を示そうとしたのだろうけど、肝心の人を見る目や、広く人々の心を察する能力に致命的に欠けていたのでは、誰からも支持を得られないでしょう。

 今現在、貴方を庇護する内務卿ですら、現国王陛下に圧力をかけて、自分の派閥への配慮を引き出そうとしているだけで、やがては、貴方も捨てられるはず。

 それなのに、『まずは聖女様との和解を』などという口車に乗って。

 貴方の現在の振る舞いが、王太子として相応(ふさわ)しいものかどうか、少しでも考えたらわかるでしょうに。

 口先だけで謝って、許してもらって、元に戻りますーーなんてことを夢見てる?

 小さな子供でもないのに、どうしてあんな馬鹿なことばかりしているのかしら……)


 フーシェ元王太子は、骸骨のようになった醜い姿で、両手と額を地面に押しつけ、土下座までしている。


(もう、嫌だ。

 山荘の静謐な空気に乱れが生じている……)


 聖女マグダラ・グノーシスは、白磁のような腕を伸ばして鈴を鳴らす。

 侍女を呼び、申し付けた。


「最近雇った執事に言って、あのうるさい、哀れな男を追い払ってください。

 森の静けさが失われるし、第一、みっともないわ」


 侍女は、


「はい。かしこまりました」


 と言って、そのまま退室して、そのことを執事に告げに行った。


 かくして、黒髪で黒い瞳をした執事が、フーシェ元王太子の目の前に登場した。

 灰色の、短い袖付きの修道服を身にまとっている。

 執事というよりは修道士のような格好をしていた。

 それも聖女様の執事とすれば合点が行く。


「お、おまえは!?」


 フーシェ元王太子は、思わず声をあげた。

 かつて彼が、監獄送りにした平民男ジェフリーだったのだ。


 ジェフリーは、土下座する元王太子の骸骨顔を、冷然と見下ろした。


「随分と、そのお心に相応(ふさわ)しい相貌になりましたね、殿下。

 僕が聖女様の執事をしていることが、そんなに不思議ですか?

 以前にも言いましたが、僕と聖女様とはもともと同級生でしてね。

 何度も会話を交わし、共に勉強をしてきた仲でした。

 僕が、ラミー嬢の不正行為を殿下に告白したのも、聖女マグダラ様の勧めによるものです。

 それなのに僕は収監され、危うく処刑される寸前にまでなった。

 そのことを聖女様はお嘆きになり、助命していただいたばかりか、このように身柄を引き取って、執事に抜擢してくださった。

 かといって、いつまでもこの境遇に甘んじるわけにはまいりません。

 たしかに、弱い立場であったとはいえ、僕はラミー嬢の不正行為に加担した罪がありますから、これからも王宮勤めは叶わないだろうし、聖女様にいつまでもお仕えするわけにもいかない。

 だから来年にでも、修道院で修行と観想の生活を送ろうと思っています」


 フーシェ元王太子は、骸骨面を上げ、顎の骨を動かしてヘラヘラ笑った。


「だったら、良かったではないか。

 いつまでも俺を恨まず、聖女様に取り次いでくれ。な!?」


 ジェフリーは、顔をカッと赤くした。


「ざけんな!

 なんにも関係ない親が、妹がーー俺の家族までが、いったんとはいえ収監されたんだぞ!

 近所ではもう、俺たち一家は犯罪者扱いだ。

 引っ越すしかなくなった。

 すべて、殿下が我儘で短慮、そして粗暴だったせいだ!」


 ジェフリーは、元王太子の背中を思いっきり踏んづける。


「ぎゃっ!?」


 土下座の姿勢から、フーシェは、身体ごと地面に叩きつけられた。

 まるで大型の獣を狩った猟師が、獣の遺体を踏みつけにして勝利を誇示するように、ジェフリーはフーシェの背中に足をかける。


 ジェフリーは元王太子の顔に、ペッ! と唾を吐きかけて言った。


「廃嫡となり、王族から除籍された不幸を呪うが良い。

 もう二度と来るんじゃないぞ!」


 ジェフリーは足を外すと、(きびす)を返して、山荘へと姿を消した。


 元王太子は上半身を起こして、呆然と立ち尽くしていた。

 さすがに、これ以上、土下座したところで、聖女様は会ってすらくれないことを悟った。

 フーシェ元王太子は野良犬のように、トボトボと立ち去るしかなかった。


◇◇◇


 聖女マグダラ・グノーシスは、これから先、しばらくは山荘から出るつもりはなかった。

 なぜなら、彼女は山荘にこもって、毎日、神様に祈りを捧げつつ、湖を見ながら絵を描いているからだ。

 彼女にとっては、山荘での隠遁生活は、じつに快適な生活だった。


 湖が日々、その表情を変えるように、人の心も変わるのだ、ということが、自然を通して、よくわかる。

 今の彼女は、人間のそんな心の、絶えず変化しているありようを理解し、いかなる事態であろうとも、起こったことをすべて見詰める修行をしているのだった。



 一年が経過し、聖王国では、結局、妹のアンナ・ダジール王女殿下が王位継承権第一位となり、王太子として擁立された。


 その立太子の儀式を行った際、事件が勃発した。

 貴族崩れのならず者たちと共に、元王太子フーシェが儀式会場に乱入したのだ。

 が、多勢に無勢。

 衛兵と近衛騎士団によって、フーシェは捕らえられてしまった。

 この頃になると、内務卿シビル公爵も、元王太子という骸骨男の面倒を見ることを放棄していた。

 その結果、フーシェは監獄塔に収監されることになり、このまま死ぬまで幽閉されるだろうと噂された。


 かつては美貌を謳われたフーシェは、今では見る影もなく落ちぶれた、骸骨の化け物と化していた。

 彼は涙を流しながら、


「本当なら、俺が王になっていたんだ!

 なんで、こんなことに!」


 と嘆き悲しむ。

 だが、独房ゆえ、彼の恨み言を聞く人は、誰もいなかった。


 一方、ラミー・マームズベリー伯爵令嬢は、想定された刑期の三倍も長い、十二年の刑期を終えて、父親ミラン・マームズベリー伯爵と共に釈放された。

 刑期が引き延ばされた理由は、表向きの罪状にはされていないが、聖女マグダラ様の幸せな結婚を破綻させたことに対する、ダジール神聖王国民の怒りがあったという。

 しかも、彼ら父娘が出獄したときには、マームズベリー伯爵家は父の弟、叔父のテレム・マームズベリーのものになっていた。

 さらに、ジェフリーやその家族の告発から始まって、主に金貸しにまつわる、ミランとラミー父娘によってなされた数多くの不祥事が発覚した。

 その結果、貴族として相応(ふさわ)しくない、と王家から判断され、ミラン伯爵は爵位返上を余儀なくされ、平民へと身分堕ちとなったのだ。

 父親ミランは酒浸りとなって、三年も経ずに亡くなったが、娘のラミーは今では娼館で高級娼婦をつとめているという。


(了)

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馬鹿が馬鹿に相応しい報いを受けてスッキリした
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