それでも私は美しい
それでも私は美しい
元王妃エルセリア? まあ、そうね。今となっては称号もないので、そのように呼ばれるしかないのでしょう。
さて、お茶を? いらない。そう。それにしても奇特な記者ですこと。こんな世間から忘れられた老婆の話を聞きに来るだなんて。
どこからお話ししましょうか……。
生まれた家には鏡がなかったの。
たしかに公爵家ではあったけれども、数代前の王の愛妾が産んだ子から続いた家柄だったものだから。名ばかりの貧乏貴族だったのよ。
母は子爵家から嫁いできた人だったけれどそこも貧しかったし、父は酒場の椅子と寝台の区別もつかないような人だった。
そんな家に、鏡なんてものはなかった。最初からね。
ある日、水たまりを覗いたの。風の止んだ朝、雨上がりの石畳の水の窪みに、自分の顔を映した。鏡なんてものの存在も知らなかった。
「おまえの顔は気味が悪い」
と、兄に言われたことがあるの。
「人間じゃないみたいに、きれいすぎるから」
幼い私は、意味がわからなかった。
でも、その日から母は、私に頭巾をかぶせるようになった。
使用人の男たちの目が怖いから。メイドたちの噂話がうるさいから。
私は、顔を隠して生きるしかなかった。
私があまりに醜いので母はこうするのだと、ずっと信じていたの。
でもねえ、あるとき気づいたのだわ。ばかばかしいって。
どうして私だけが暑苦しい頭巾をかぶり、俯いて過ごさなければならなの、って。
ちょうど、同じ頃だったかしら。
壊れて放棄された厩に住み着いていた老婆、占いや腹痛の薬を売って日銭を稼いでいた者なのだけれど、彼女が私に囁いた。
「綺麗な子は不幸になる。でも、魔法を使えば運命はねじ曲げられるよ」
そう言って教えてくれたのが、“魅了”の呪文だったのよ。
「あんたさんにはその素質と才能があるよ」
と言ってね。
魔法を練り上げ、自分の影に重ね、声に忍ばせ、視線に絡める。
ただそれだけで、人は私を“好きになる”。
あとは早かったわ。
私は宮廷に上がり、立ち居振る舞いを完璧にした。媚びない毅然とした態度、清涼感のあるくどくない香、数か国語を話し、決してでしゃばらない。
魔法を使う相手は慎重に選んだわ。高位貴族たちは“魔返し”の秘宝を身に着けている場合があるから、ぜったいに失敗は許されなかった。もし魔法をかけようとしたことが知られたら、反逆罪か詐欺罪か、ともかくろくなことにならなかったでしょう。
ある夜会のときだった。私はとびきりのおめかしをして、そして王太子の視線を、一度だけ真っ直ぐに受けた。
それだけで、すべてが始まった。
王太子の婚姻相手には名門の姫君たちが候補に上がったわ。皆様私の付け焼き刃の教養では太刀打ちできない楚々とした方々だった。
けれど最終的に選ばれたのは、片田舎の出の、“不思議な美しさを持つ娘”――私だった。当然よね。私はそのときすでに王太子様の御心をガッチリ魅了していたんだもの。
結婚後は、国中が私を讃えたわ。
優雅、聡明、慈愛深く、何より美しい王妃――
誰もがそう思い込んでいた。思い込ませたの。ええ、その通りよ。記者を魅了し、私を称える記事を書かせたわ。それから王立劇団の役者たちを、演技指導の名の許各地の劇団に潜り込ませて、私をモデルにした劇を上映させたの。私に魅了され、心から心酔している彼らがつくるものは、多くの大衆をも魅了したわ。
私は国いちばんの女になった。美しさで王政に価値を添え、愛情深く夫を支える妻だった。
でも本当の私は、誰よりも冷たく、計算高く、そして飢えていた。
“本当に誰かに望まれること”に、ずっと飢えていたのよ。
誰もが私を讃え、敬い、ひれ伏す。美しさに、気品に、才気に。
そのどれもが本物だったわ。ええ、魔法がなかったとしても、私は人より美しかった。
でも……それだけじゃ足りなかったの。
義理の父が亡くなり夫は王になったわ。私は王妃よ。でも王は、私に微笑むたび、私ではないものを見ていた。――この女の美しさはいつまで武器として使えるか、という計算が、そこに潜んでいた。
そりゃあそうよね。王太子として教育を受けたのだもの。それを利用したのは私だもの。
魅了魔法……そうね。確かに使ったわ。ええ。王に。夫に。魔法をかけたわ。
重罪? 知っているわ。
ほんのわずか、香の中に忍ばせただけ。言葉に重ねて響かせただけ。
たったそれだけで、人は私を“理想”と錯覚した。王も、大臣も、民も。
では問うわ。
錯覚で動いたのは、彼らの弱さではなくて?
私はただ、彼らが見たいと願った“理想の王妃”になっただけ。
誰もそれを否定しなかったくせに。
でも、一人だけ……あの侍女だけが、私の影を見抜いた。
愚かだと思ったのよ、最初は。
平民出の侍女。あの女。風情が、私の仕組んだ偽装を見抜くなんて。夫の瞳の揺らぎに気づくなんて。
「王妃様の言葉は、上っ面です。心に届かないのです。音は届いても、思いがない」
そう言って、あの子は王に訴えた。
貧しい家に生まれながら、目を逸らさず、耳を澄ませていたのね。
忠誠ではなく、真実に従った……愚かで、気高い子。
あの子はあっという間に夫の心に入り込んだわ。
息子が生まれて、すぐのことだった。
怒る権利はなかったわ。私がしたのと似たようなことをやり返されただけだもの。
知性でも実家の権力でも教養でも学識でもない。涙を浮かべた瞳の美しさと、機を見る敏感さ。そうした才能が、私より優れていたのね。
「王様を操るのは、やめてくださいっ」
と、勇猛果敢にも私に食ってかかったこともあったわ。
私は笑った。
「まあ、いったいどうしたの? 体調でも悪いの?」
それであの子を下がらせた。
たぶんあのとき、激昂して衛兵に命じて斬り捨てさせればよかったのでしょうね。
でも私は“優しい王妃様”だもの、できなかった。
できなかったのよ。
隣にいた夫は、何も言わなかった。膝の上で赤ん坊の息子は、ただ私をじっと見つめていた。
私が一度も見せたことのない“素顔”を、やっと見ているような顔で。
。
数日後、王命により魔術師の調査が行われ、“痕跡”が検出された。
魔法を用いて王と王宮の要人に影響を与えたとされ、私は裁判にかけられることになった。ひどく一方的だった。
夫は私を庇わなかった。
退位。あらゆる名誉の剥奪。離宮に幽閉。
私は玉座を失ったのではない。私はあの子に負けたのよ。
最期の日、
「あたしっ、王妃様が心を入れ替えてくれるの待ってますからあ!」
とあの子は叫んだ。
夫の腕にしがみついて。
最後の夜、王は私に尋ねたわ。
「お前は……私の心を、操っていたのか?」
私は笑ったの。
「操られた心でも、あなたは私を王妃にした。つまり私こそ、あなたの“選択”よ」
それが夫婦として最後の会話だった。
息子は王太子になることなく、ある公爵家に預けられそこの息子として育つことになったと聞いたわ。新しくつけられた名前を私は知らない。顔も、もうすっかり成長しているからわからないでしょう。
私は負けたの。
美しいドレスも、香油も、群がる声も消えた。
でもね、ひとつだけ確信していることがあるの。この寂れた離宮の、曇った鏡でも、鏡は鏡。私の姿を映すわ。すっかりおばあちゃんになって縮んだ子の姿を見て、頷くの。
――それでも私は美しいのよ、って。
夫はあの侍女と再婚し、立派に国を導いているそうね。素晴らしいことだわ。お二人の道筋が幸せであることを願ってやみません。
美しさとは、ただ皮一枚の話ではないわ。誰かの望みに、恐れに、虚栄に、言葉なくひたむきに応える力。私は望まれたいと願い、望まれればその役割に全力で応えた。
今でも間違ったとは思っていない。
ええ、いいの。あなたたちには一生わからないわ。
私だけが知っていればいい。
私がどれほど深く、あの玉座に愛されたかを。
だから今、私は誰にも仕えず、自分のためだけに鏡を磨く。
王妃の冠はなくても、私は“美”そのもの。
いつかまた、誰かの欲望が私を呼ぶ日がくるでしょう。そのとき再び私はやってきます。この魔法が復活するとき、私の名もまた思い出される。
――愛されるって、こんなにも簡単なことなのだから。
***
――元王妃エルセリアの没後。
彼女を慕う民衆によって反乱が勃発した。それを率いるのは、亡きエルセリアの息子を名乗る堂々とした美貌の青年。胸に輝くのはとある公爵家の家紋。そして隣にはその公爵家に嫁いできた彼の妻、隣国の王女が付き従う。
公爵家の兵と、隣国の兵は渾然一体となってこの国に雪崩れ込んだ。その後ろから、決起した民衆が続く。手に手に鍬やら鎌やらを持ち、猛り狂って。
それはまさに“魅了”魔法がなぜ禁忌とされたかの生きた見本だった。
嘘か本当かなんてどうでもいい。
ただ人々は、愛したのだ。エルセリアを。彼女の示した美を。亡霊に殉じてもいいほどに。反逆罪と天秤にかけてもいいほどに。
国王は反乱軍との戦闘で落馬し、数多の馬蹄に踏みつけにされグシャグシャの肉塊になった。捕虜交換交渉が難航したため、戦場に張られた粗末なテントの中で三か月間悶え苦しみ、誰にも看取られずに悶絶死した。
平民出身の王妃は攻め入られた城の中でキャアキャア絶叫し、逃げようとしたが難なく捕らえられた。
エルセリアの息子の到着を待たず、兵士たちに輪姦され拷問され八つ裂きにされて、一週間嬲り者にされて死んだ。死体を見た公爵家の記録係は思わず、「……膣も肛門も、あんなに広がるものなのですねえ」と呟いたという。
新国王となったエルセリアの息子は、母の高名を思う存分利用した。呪文の使用者が死んでからも凄まじいまでの効果を発揮する、禁忌の“魅了”魔法の効果を、と言ってもいいのかもしれない。
彼にはもちろん名前があったが、人々は折に触れて彼のことをエルセリアの息子と呼んだ。
それは祝福。呪い。絶望にして希望。
彼は愛された。愛されたとも。
王位をとらせてやったのだから、妻を与えてやったのだから、と次々降ってくる隣国の無茶な要求に応え、兵を貸したときも。重税に次ぐ重税により、貧苦のあまり逃げ出す農民が後を絶たなくても。
自分たちがどれほどつらくても、人々は彼を愛した。彼の後ろにいるエルセリアを。
いつか魔法が解けるときが来ることを、彼はわかっていた。
夫婦仲はむつまじかったが、彼らは子供を作らなかった。それが何よりの証左だったのかもしれない。
やがて時は流れ、エルセリアの息子は円満に退位した。妻を連れて隣国に移り住んだあとのことは、誰も知らない。
エルセリアの夫の家系が王位を引き継いだとき、それは起こった。
あの美しかった王妃様が魔女だったことに、年老いた民衆は気づいた。
そして。
あとのことは、誰も知らない。
とある滅びた国と、その国を滅ぼした魔女がいたことが伝わるばかりである。