36 セルビッツェ国立学院 1
「ウィステリア。今朝も早くから体を動かしていらしたのですって?」
「はい。習慣になっていますので」
「まさか、侯爵家の令嬢が体力作りをするとは思いもしなかったわ」
朝食の席でそう言って苦笑いをするのは、セルビッツェ国立学院に通う間お世話になっているファブリエンタ侯爵家のマリーヌ夫人である。
「まぁ。マリーヌ夫人。私の婚約者がどんな人物だかを知っていて、それはあんまりですわ」
片眉を上げて私を見る夫人に、「オホホッ」と笑顔で答える。
「だからといって、ウィステリアが同じようにする必要はないでしょう?」
「でも、結婚してから夫婦喧嘩が原因で、『この世とさよーなら』なんてことにならないように、今から体を鍛えているだけですわ」
マリーヌ夫人は私の言葉に驚きのあまり硬直し、口の前で手に持つフォークをカシャンと落とした。
……あらまぁ、珍しいこともあるのね。マリーヌ夫人がシルバーを落とすだなんて。
あれ? 夫人の顔色が悪くなってる? この様子だと、あぁ―――! もしかして夫人は、想像してしまった……いや、勝手に脳が働き、見てはいけない場面の映像が流れたって感じなのかも! 十分あり得ることだから、仕方がないけど……でも、半分冗談で言ったのに―――。
受け止めないで、ここは笑って返すべきでしょう? なのになのに……まずい。ひじょーにまずい! みるみる血の気が引いてんじゃん! ……夫人、マリーヌ夫人。お願いだから現実に戻ってきて!……これ以上この話を続けて心臓が止まったとかになったらどうしよう。……その前に、今息できてます?
「マリーヌ夫人。食事を続けましょう。時間がなくなってしまいますわ」
「ヒュッ、ハァ、ハァ……。え、えぇ……しょ、食事? そ、そうね冷めてしまうわね」
危なかったわぁー。やはり、呼吸ができていなかったようね。これからは、婚約者の話題を出すときは気をつけなきゃだわ。
顔面蒼白でぶつぶつと呟きながら食事を続ける夫人に申し訳なく思うと、私は慌てて食事を食べ始めた。
ファブリエンタ侯爵家も我が家と同様の数少ない中立派で、私が国立学院へ2年間通うことを知ると快く邸へ招き入れてくれた。本当は、国立学院へは寮から通うつもりだったけど――。
王立学院の寮であれば侍女を2人まで入室させられる広さがあるらしい。が、国立学院の寮は一部屋が小さく、侍女を連れて行くことが出来ない。
その為、近くに住まいを借りてルーチェにはそこから通ってもらおうと計画し、その事を母様に相談するとスンっと表情を変え私を半眼で見やった。
『バードゥイン公爵家に嫁入りする娘を、寮だからといって一人で生活させることなどできるわけがないでしょう』
まぁ、そう言われるのも当然か。なんて言ってもうちは侯爵家であり、公爵家に太鼓判を押して嫁に出したいわけだしね。
呆れて口を開くのもおっくうだと言わんばかりの母様に、不出来な娘で悪うございましたと、そう言葉にしたかったけど。それを告げてまた機嫌が悪くなれば説教が続く。
キジも鳴かずば撃たれまい……そう自身に言い聞かせ、ぐっと言葉を飲み込みんだ。
ファブリエンタ侯爵家には私と同い年の双子がいる。
子供の頃に、母様と古くからの友人であるマリーヌ夫人がお茶をする度に仲良く遊んだ双子である。幼馴染みのカトリーヌ様とエミリオ様だ。
二人はこの春、王立学院に入学した。その為、領地の邸から離れ王都にあるタウンハウスから通学している。
二人が邸から一気にいなくなると淋しくなるから、是非私を預かりたいとマリーヌ夫人が言ってくれたのだ。
「時間ですので、先に失礼します」
「あら、もう学院へ向かう時間なの?」
「はい。今日は友人のお手伝いをするので、少し早く行かなければならないのですわ」
正門をくぐり、幾つも並ぶ薔薇のアーチの下を馬車がゆっくり進むとロータリーを迂回してから停車する。
今朝は早く登校した為か、学院の昇降口には誰もいない。いつも賑やかな廊下はシーンと静まり返っている。
キョロキョロと、もう一度誰もいないことを確認すると、前世で好きだった"ラップ"の曲を口ずさみながら気分良く教室へ向かった。
セルビッツェ国立学院は、王族や貴族が通う王立学院と違って圧倒的に平民の学生が多い。
学院内で身分は関係ないのだが、貴族と平民のクラスは2学年になるまで別れている。といっても、専攻した授業を受ける際には一緒になるのだが。
社会的身分や生活の違いに慣れるまで、クラス自体は別なのだ。
商業、工業、農業、魔術などの授業を専攻出来るのが特徴で、更に希望で先の大学院へも通う事ができる。
ゆえに、15歳から入学できるセルビッツェ国立学院には、王立学院を卒業してから学びに通う上位貴族の次男や三男、下位貴族の令息たちも多く通っている。
その中で15歳から国立学院に入学した変わり者の貴族の令嬢は私ぐらいなのは言うまでもない。
入学式のときには、かなり驚いた。
……ここは男子校かと見紛うほどに、群を抜いて多いのは男性だ。この国で手に職といったら、女性は下働きから始まる職を選ぶのだろう。その為、家が商売をしているとか、そういった先へ嫁ぐ女性しか入学していなかったのだ。
私が専攻した授業は商業だったが、魔結石の知識は魔術の授業で学ぶことになる。
そのため、基礎知識を付ける為に魔術の単元授業もチョイスした。
私の此処でのモットーは、死を回避するために、だ。国立学院に通う2年間で、知らない事を学び、知人を増やさなきゃならない。
形は違えど、ルーフェルムと婚約したことで彼と婚姻するし、王立学院へも通わなくてはならない。
それに、ルーフェルムは小説通りに戦場へ行き戦地から無事に帰還すると王立学院へと入学した。
私自身は小説を辿らないように努力してはいるが、足掻いたところでルーフェルムは小説に沿った物語へと進んでいるような気がしてならない。
そうなれば、王立学院へ通い出した彼は、これから私への態度も変わってくるだろう。
小説のように会話もなきゃ睨まれる日々が訪れるかも知れない……そう思うと、なんだか寂しい気もする。
実際、今のルーフェルムは小説に書かれていたのと違い会話もするし、婚約者としての付き合い方も中々……まぁまぁそれなりに普通に近い位置なんだけど。
はー、これから『しょっぱい』対応をされるようになるのか……。せっかく、人間らしさを取り戻せるように飼い慣らしていこうと思っていたのになー。
仕方がないけど、彼は王立学院で成り上がり令嬢に出会うことで彼女に心を奪われる。これは、そうなるように作られた物語なのだ。
そう考えると、ルーフェルムのことは頭の中から切り離さないと……今の彼のことは嫌いじゃないのに? それよりも、自分の事を心配しなきゃでしょう……それは、そうなんだけど。愚図愚図考えるだなんて……私らしくないわ。
小説を辿るならば、ウィステリアが王立学院を卒業して半年後にルーフェルムと婚姻し、その2年後に死が待っている。
死を回避するためには……残り5年、それまでに完璧に備えなければならないし、生き残った後のことも考えていかなければならない。国立学院で2年間を終えた頃には、たぶん私の未来が少しだけ見えてくるはずだ。
ぐじぐじ悩んでもしょうがない。時間は限られているんだもん。だったら、やれるとこまでやるっきゃないわ。そうよ、私! 気合いを入れ直しなさいよ! 他の女のものになる男なんて、私の人生に必要ないんだから! 婚約者だろうが、未来の夫だろうが……そんなの関係なくない? 生き残って新大陸で登場人物以外の良い男を見つけるぞ!
……ん? 違う違う……なんか可怪しな方向に話が進んでる? まぁ、いいや。未来の為に、がんばるぞ!
そうして私は、今日からまた心を入れ替えて新たな生活を歩み始めて行こうと決心した。どう心を入れ替えたのかは自分でもよく分かっていないけど――。




