第84話
私が落ち着いた頃合いを見計らって、楓さんはあちこちのポケットを探ると何かを取り出す。
「小春、手を貸してくれ」
楓さんは未だしゃっくり挙げる私の左手を取ると、あの部屋に置いてきた指輪を薬指に嵌めてくれる。私が指輪に見入っていると、左手を掴んだまま、楓さんは立ち上がったのだった。
「帰るぞ」
私も頷いて立ち上がると、ビリビリに引き裂かれた離婚届が私達の膝の上から落ちて、椅子周辺の床の散らばっている事に気づく。そして周囲を見渡せば、離れたところから空港のグラウンドスタッフが怪訝そうな顔で私たちを見ていたのだった。
楓さんも気が付いたのか苦虫を嚙み潰したような顔をすると、片膝をついて紙屑となった離婚届を拾い始めたので、私も両膝をついて一緒に拾う事にしたのだった。
「初めての共同作業がゴミ拾いか……」
「でも私は嫌じゃないです」
「俺もだ」
気付かなかった振りをしてこの場を去ることもできただろうに、そうしなかったのが真面目な楓さんらしくて微笑ましい。
顔を見合わせて小さく笑い合っていると、下を向いた楓さんの胸ポケットから眼鏡が落ちて空港の白い床を滑る。私の爪先に当たって静止したので、そっと拾い上げたのだった。
「眼鏡、落としましたよ」
「胸ポケットだと下を向いた時に落ちるな……」
「顔を上げて下さい。私が掛けます」
両手で眼鏡を持って膝立ちになると、顔を上げた楓さんの顔に眼鏡を掛ける。
吸い寄せられた様にピッタリと嵌った眼鏡と、いつもの楓さんらしい生真面目な姿につい見惚れていると、楓さんは柔らかく口元を緩めたのだった。
「ありがとう、小春」
穏やかな表情を浮かべる楓さんを見ていると、胸の中がぽかぽかと温かくなった様な気がしてしまう。
「どういたしまして」
その笑顔に答えるように、私も屈託のない笑みを浮かべたのだった。
そして最後の紙屑を拾い終えて私が拾った分を受け取ると、楓さんは離婚届だった紙屑を握り潰して近くのゴミ箱に捨ててしまう。
私のスーツケースを持って先に歩き出したので、小走りで後を追いかけたのだった。
「あの……」
歩きながら話しかけると、楓さんは歩調を合わせながら目線を向けてくれる。
「……手、繋いでもいいですか?」
「……手と言わずとも、腕でもどこでも良いぞ」
繋ごうとして伸ばした手で、そのまま楓さんの腕を掴む。両手で掴むと顔を寄せたのだった。
楓さんの腕は大きくて温かくて、どこか安心感を与えてくれた。安堵からまた涙腺が緩みそうになっていると、楓さんの腕が動き、私の肩を抱き寄せて、軽く頭を叩いてくれた。
そのまま頭を撫でられている内に、だんだんと心地良くなってきたので楓さんの身体に頭を寄せる。
後ろからは日本行きの飛行機の案内をしていたが、幸せに満たされた私の耳にはほとんど入らなかった。
無言のまま、私達夫婦は空港を後にしたのだった。




