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第6話

「そういえば、また貴女のお名前を伺っていませんでした。名前を伺ってもいいですか?」

小春(こはる)……。日向(ひなた)小春です……」

「日向小春さん……素敵な名前ですね」


 嗚咽を漏らしながら答えると、若佐先生は優しい眼差しで見つめてくる。落ち着いたので周りを見ると、今更ながら私は若佐先生の膝の上に座っていた事に気づいたのだった。


「す、すみません。若佐先生の上に乗っていた事に気づかなくて……」


 慌てて退けようとするが、若佐先生に「小春さん」と呼び止められたのだった。


「失礼ですが、結婚はされていますか? 恋人は……」

「していません。恋人もいません」


 これまで仕事の事もあって、とても恋愛をする気にはなれなかった。学生時代は勉強とアルバイトばかりの毎日で、恋愛には縁がなかった。

 どうしてこんな事を聞くのだろうと私は首を傾げる。若佐先生は落ちそうになっていた眼鏡を直すと、私の頬を流れる涙を拭ってくれる。男性らしい、大きくて、温かい手だった。


「話したい事があります。でもその前に、中に入りませんか。また身体が冷えてしまったでしょう」


 若佐先生に連れられてホテルの中に入ると、先程まで居た若佐先生の部屋に戻る。

 部屋に入るまで、若佐先生はずっと私の手を握ったままだった。また危ない真似をしないようにという事だろうか。手を繋いだ若佐先生の横顔からは、何も読み取れなかった。


 部屋に入ると、さっきと同じ様にベッドに座るように促される。さっきとの唯一の違いは、若佐先生が書き物机の椅子ではなく、私の隣に座った事だろうか。

 若佐先生はベッドに座るなり、すぐに口を開いたのだった。


「貴女は費用が無いから裁判をしないと言いました。けれども、今の貴女を一人の弁護士として、一人の男として、放っておく事は出来ない。なので、私が無償で裁判を引き受けます」

「無償で……ですか? でも、結構な金額が掛かるんじゃ……」


 不安顔になった私を安心させるかのように、若佐先生は小さく微笑んだ。


「その代わり、貴女にお願いがあります」

「な。何でしょうか……。私に出来る事でしょうか……」

「ええ。貴女に出来る事です」


 まさか、費用を払えないなら、身体を売れとでもいうのだろうか、それとも犯罪に巻き込まれるのか。そう考えた途端、急に身体が冷えた気がした。ずっと外にいて、寒風に晒されていたというのもあるが、それだけではないだろう。

 何を言われるのか、固唾を呑んで身構えていると、若佐先生はそっと口を開いたのだった。


「小春さん、私と結婚して下さい」

「け、結婚!?」


 私は素っ頓狂な声を上げるが、若佐先生は真面目な顔で頷く。


「契約結婚、と言えばいいでしょうか。一時的で構いません。私と結婚して下さい」

「契約……結婚……」

「勿論、私と夫婦でいる間は、貴女に何も不自由はさせません。手も出しません」

「で、でも、私達は今さっき知り合ったばかりですし、一時的なら私じゃなくても……いえ、私じゃない方が……」


 言いかけた私の言葉を遮るように、若佐先生は人差し指を伸ばすと、そっと私の口元に近づける。


「ここで死ぬくらいなら、貴女の命を私に下さい。私が貴女の命を有益に使います」

「有益に……」

「人間は誰しもが人生に一度くらい、誰かの役に立ちたいと考えるそうです。貴女もここで最期を迎えるくらいなら、その前に一度だけでも、誰かの役に立って死にたいとは思いませんか?」


 若佐先生の言葉に私はあっと目を見開く。

 どのみち、ここで死ぬくらいなら、若佐先生と結婚してからでもいいのではないか。

 一時的な結婚でいいという事は、きっと若佐先生にも何か事情があるのだろう。結婚しなければならない何かが。

 それなら、人生の最後くらい、誰かの役に立ってから死んでも遅くはないだろう。


「こんな私でも……何の取り柄のない私でも、役に立てますか……?」

「ええ。私が側についています。命を預けてくれた貴女を蔑ろにはしません。必ず、貴女を役立ててみせます」


 若佐先生の力強い言葉が胸に響く。少し考えた後に、私は頷いたのだった。


「私で良ければ……役立てて下さい」

「ありがとうございます。小春さん」


 若佐先生は安心した様に笑うと、「身体が冷えました」と言って飲み物を用意しに立ち上がったが、部屋の呼び鈴が鳴った事でドアに向かう。

「夫婦……」

 その背中を見つめながら、私は熱に浮かされた様にぼうっと呟く。

 この日、交際0日にして、私は若佐先生と夫婦になる事を決めたのだった。



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