動乱群像録 29
安東は車から降りると玄関で立ち止まった。
「御前……」
「いや、いい。気にしないでくれ」
心配そうに言葉をかけてくる運転手の田中にそう言うと玄関を開いた。目の前に座っている安東の子供時代からこの家に仕えている飯田という名の下男が眠りから覚めて驚いた表情で安東を見上げた。
「これは!御前!」
「気にするな。たまたま暇ができたから帰ってきただけだ」
そう言うと安東は静かに腰を下ろして軍用のブーツを脱ぐために腰をかける。
「恭子様は今日は発作もなく……」
「分かってる。ちゃんと顔は出すさ」
妻の恭子の名前を出されて少し照れながらコートを飯田に差し出した。
恭子は病んでいた。医師は心労がたたっていると言うが、それだけが原因でないのは安東にも分かっていた。確かに彼女は兄の赤松忠満と夫との対立に心を痛めていたのは事実だが、それ以上に何かがあるのではと安東は医師を問い詰めて答えを引き出した。神経系が次第に衰弱して死に至る病気。医師は安東にそう打ち明けた。神経系に欠陥がなければサイボーグ化しての延命は可能だが、肝心の脊髄から小脳にかけての神経に問題があるとなれば話は別だった。
延命の道が無い。そのことは恭子には黙っているが、彼女もうすうす感づいているらしく最近は軍務で忙しい安東がたまに顔を出しても会おうとしない日が続いていた。
「それじゃあちょっと見てくるよ」
軍靴を脱ぎ終えた安東は飯田にそう優しく言い残して廊下を恭子が暮らしている別館へと進んだ。彼の領邦である羽州はアステロイドベルトでも大型の小惑星が多く存在していて資源に恵まれたところだった。父母に早く死なれて姉であり今は敵である赤松家に嫁いだ姉の貴子と二人で烏丸卿の後見で暮らしてもこの中堅貴族にしては大きな帝都屋敷を管理できる程度の収入はあった。
庭の大きな緑色の岩に目をやると、そこには恭子の姿があった。
「恭子!起きていて……」
安東が思わず素足で庭に下りたのを見て恭子は驚くような表情で手にしていたトンボ珠を振り回しながら別館の方へと消えていった。
そのまま駆け出した安東。だが閉め切られたふすまを見てその手は戸から離れていた。
「おかえりなさい……」
ようやく搾り出したと言うような恭子の声に静かに頷く安東。何も言えずにただ日暮れの庭にたたずむ。
「調子はどうなんだ?」
「悪くは無いです」
扉の裏に張り付いて開かないように踏ん張っている恭子のことを思うと安東は胸が締め付けられる気持ちになった。始めは二人はこうではなかったはずだ。安東はそう思い返してみる。
高等予科で将来の士官として過ごしていたとき。喧嘩ばかりの彼の日常に西園寺家の三男の西園寺新三郎、その学友として付いて回る赤松忠満、そしてなぜか馬が合って共にすごしていた濃州候の時期当主である斎藤一学。士族などの子弟の通う陸軍予科などの不良と悶着を起こして怒鳴られるのは赤松と安東。二人は自然とお互いの家に入り浸るようになった。そんな中で次第にお互いの姉と妹に引かれていったのは不思議なことだった。
「実はな……」
ようやく士官学校に進むという日、赤松家の洋風のリビングで寝転んで漫画を読んでいた安東に正座をしている赤松の姿を見つけてめんどくさそうに安東は起き上がった。
「恭子がな……貴様のことを好きなんやて」
赤松の言いにくそうな表情の後ろの扉にじっと張り付いている恭子。赤松の知らない話だったが当時すでに恭子と安東は付き合っていた。それを赤松が知らないと言うことに気づいて噴出しそうになるのを我慢して尋ねる。
「で?」
真剣な赤松の表情が面白くて安東は漫画を脇においてソファーの上から見下ろすように土下座する親友の姿を見下ろしていた。
「別に……そんな、特にお願いは無いんやけど」
「そうか、なら野暮なことは辞めとけ」
そう言いながら静かに扉の隙間から笑みを浮かべている恭子と笑っていた。
「いや、ワシも言わなアカンことがあってな」
「ほう、聞こうじゃねえか」
うつむいたままじっとしている赤松。その姿を余裕を持って見つめていた安東だが次の赤松の一言に思わずソファーから転げ落ちそうになった。
「ワシ、明日貴子さんと入籍すんねん」
突然の言葉に安東はソファーから滑り落ちた。貴子、それが自分の姉のことであることは間違いなかった。三人兄弟の末っ子で要領のいい赤松が色々家に来ては勝手口で姉と話しているのは見かけていたがそんな話は姉から聞いていなかった。
「なんだよそれ!俺達が馬鹿だったみたいじゃないか!」
「結果的にはそやな」
赤松の超然とした態度に呆然とさせられたその瞬間。だが今の安東の立場はそんなコメディーを思い出して微笑むくらいのことしかできない状況だった。赤松は国賊と恩人達が言う西園寺基義の右腕。そして自分は清原卿の決起に一枚噛んでこうして自宅に戻ってきたところだった。そしてその自宅には不治の病に心を蝕まれた妻。
「じゃあいい、そのまま聞いてくれ」
ふすまを閉ざす恭子にゆっくりと安東は話しかけた。
「現在、俺は烏丸公の一派として決起軍の一人となった……これも恩を返さなければならないからだ。烏丸公や清原さんには軍への復帰に関して大きな恩を買った俺だ。断ることなんてできない」
そこまで言ったところで恭子はふすまから手を離したようでカタリと言うふすまが動く音がした。ここで飛び込めば妻の心は傷つくとそのまま安東は言葉を続ける。
「つまり君の兄である忠満とは敵味方に分かれると言うことだ。あいつも今じゃあ第三艦隊の司令だ。その任務を放棄することも無いだろうし主君である西園寺公を裏切るような男じゃないことは君も知っているはずだ」
「だから……なんですか?」
冷たいかすれた声が安東の耳に届いた。
「兄が敵に回るのは分かっています。子供じゃないんですから。私だって烏丸公と西園寺公が対立していることやあなたが清原准将に恩があることは知っています」
声は震えていた。怒りか、悲しみか。安東はただ頭を垂れて恭子が落ち着くのを待つことにした。
「あなたはいいですよね。自分が信じているように動けばいいだけですから。たとえ烏丸公が負けても義に殉じたといえば済む話ですから。でも私は……」
言葉が途切れた。安東は何もいえなかった。暗い庭の静寂に耐えながら安東は静かに妻のいる部屋のふすまを見つめていた。
「すまない」
安東に口にできる言葉はその一言しかなかった。次第に暮れていく空に染められる白い襖。ただ安東は諦めたと言うように立ち上がり大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けることしかできなかった。