表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/89

動乱群像録 19

 安東は三味の音を聞きながら夜まだ早い料亭の庭を横目で見ながら廊下を歩いていた。こんな緊張した時期だというのに客は多い。だが安東はこれからの死を覚悟しているように遊びに夢中の士官達を責めるつもりは無かった。嵯峨達と飲んだ座敷は決まっている。足は案内の赤い振袖の少女に無意識についていった。

「こちらです」 

 少女はそう言うとふすまの開いたままの座敷の前に座った。いつものように少女に駄賃をやろうと勤務服のポケットに手を入れながら中を覗き込んだ安東の手が止まった。

「なんや……貞やんやないか」 

 驚いた表情の赤松忠満。海軍の制服に驚いて酒を少しばかりこぼした赤松の袖を懐から出した手ぬぐいで拭くのはかつて斎藤が愛した芸者トメ吉だった。

「トメさん。ええって……それより久しぶりやな……」 

 少女に駄賃をやってふすまを閉めさせて用意された膳の前に座る安東を驚いた様子で見つめている赤松。それを見ながら安東は一人三味線をいじっている嵯峨に目を向けた。

「そういうことだ……っとこれで良いんじゃないですかねトメさん」 

 昔と変わらず慣れた様子で三味線の音色を合わせる着流し姿の嵯峨。だがその隣にはここに来ることの無い客の膳がすえられていた。そしてその手前には予科時代の帽子を斜に被って身構えたような表情の斎藤一学の遺影が置かれていた。

「明子坊は元気ですか……」 

 安東は斎藤の落とし胤の少女の話題をその母トメ吉に尋ねた。

「ええ、先月は久しぶりに帰ってきてくれて……洋子さんとも仲良くしてくれているようで」 

 そう言うとすぐに安東の手にした杯にトメ吉は静かに酒を注いだ。

「新の字が珍しく差しで飲もうなんて言うからどんなことかと思えば……お互いそんな立場になったんだな」 

 赤松は静かに杯を干すとトメ吉にそれを差し出す。

「世の中変わるもんさ……まあ変わらないのはトメさんが相変わらず別嬪だってことくらいかな」 

「まあ、お上手なんだから!新さんは」 

 嵯峨がまだ西園寺家の部屋住みの時代の西園寺新三郎だった時代。ここはまさに安東達の城だった。学校を休んでこの部屋に居座って酒を飲み続ける。そしてたまにこの店にツケを残している会社の重役のところに制服のまま尋ねて勘定を済ませるような付き馬まがいのことも何度かやった。

「まったく変わるもんだな」 

 そう言って安東が杯を差し出すとトメ吉はそのころの一番の売れっ子だったときを思い出させる笑顔で酒を注いでくれる。

「そうだ!今日はこの大事な会に欠席している不埒者がいるからそいつの分はトメさんに飲んでもらいましょう」 

 嵯峨は思いついたように斎藤の膳の上から杯を取るとトメ吉に差し出す。

「いいんですか?私、飲んじゃいますよ?」 

 あのころには無かった妖艶な笑み。安東は流れた時間を思い返すように徳利をトメ吉に差し出した。

「おっと手が早いのう。貞坊は昔からこれじゃ。本当に隅に置けんわ……恭子はどないしとんねん」 

 ニヤリと笑う赤松の顔を見ると安東の表情は曇った。赤松の妹で今は安東の妻である恭子。その病状を思い出すとどう赤松に説明すれば良いのか悩んだ。

「すまんな。しばらく家には帰っていないんだ。ただ最近はふさぎこむこともあまり無くなって色々話をしてくれるな」 

「そうか……」 

 安東の言葉に安心したように頷くと赤松はゆっくりと肴の寄せ豆腐に箸を伸ばす。

「まあ忠さんはと言えば相変わらず尻に敷かれているみたいだけどな」 

「そないなことは……」 

「無いのか?」 

 ニヤニヤと笑う嵯峨に突っ込まれて一人うつむく赤松。そんなやり取りはそれぞれが現在の胡州を取り巻く政治状況を演出している人材であると言うことを忘れさせるほど和やかなものだった。トメ吉も安堵したように漆が赤く輝く酒器で安東の杯に酒を注ぐ。

 そんなトメ吉に笑顔を見せた後、すぐに安東の顔は真剣なものに変わった。

「それはそれとしてだ」

 安東は杯を膳に置いて静かに嵯峨を見つめる。

「俺達を会わせた。もしかして仲直りさせるとか言うつまらない話じゃないんだろうな」 

 低くこもった安東の声。嵯峨は杯をあおり静かに目を赤松に向ける。

「そないに単純な立場ちゃうこと位はわかっとるわなあ……あれか?最後の酒席を見たかったんか?」 

 赤松の問いにも答えることなく遠慮がちに一歩下がったトメ吉を一瞥した後、嵯峨は横に置かれた斎藤一学の遺影を手に取った。

「俺達……馬鹿をやっていた時代があって、あの戦争があって、それから色々あって今の立場だ。貞坊は今や陸軍じゃあ英雄だ。忠さんもどうして海軍や庶民には人気の人材。そして俺は遼州を率いる新星とか言われて持ち上げられてる」 

 そう言うと嵯峨はわずかに残っていた杯の酒を飲み干した。赤松も安東も黙ったまま着流し姿のこのような店には似つかわしくない風情の男をじっと見つめている。

「でも俺達のどこが変わったんだ?斎藤の奴の戦死。おれは遼南で遼北の機甲師団を前にして無様な大敗を喫する直前に聞いたんだが……泣いたよやっぱり。不死身の憲兵隊長とか『人斬り新三』とか呼ばれていきがってたけど結局は中身は何にも変わっちゃいないんだ」 

 嵯峨の言葉に安東は静かに頷いた。赤松も黙ったまま膳の上に視線を走らせている。

「お前さん達の喧嘩。最後まで看取るのが俺の仕事なのかもしれない……だから言わせてもらうよ。勝負は一撃で決めてくれ。長引けば長引くほど俺は遼州同盟を抑えるのが難しくなる。にらみを利かせても地球軍の介入を抑えるのも限界がある。俺からのお願いはそれだけだ」 

 そう言うと嵯峨は再び杯を手に取った。トメ吉はその空の杯に酒を注ぐ。沈黙が場を支配することになった。

 沈黙する中、三人はそれぞれに酒をすする。誰一人話しかけることを知らない。そんな男達に愛想を尽かしたようにトメ吉は三味線を爪弾く。その調べがむなしく響く中で時だけが静かに過ぎた。

「あいつがいたらどう言うだろうな……」 

 安東の言葉に視線は自然とトメ吉に向いた。彼女も困惑したように作り笑顔で答える。

「分かんねえよ!俺には!」 

 そう叫ぶと立ち上がってそのままふすまを開いて庭に飛び出した嵯峨。あっけに取られて見守っていた安東達だったが一人すっと立ち上がったトメ吉がそのまま廊下にまで出ると振り返った嵯峨の頬を平手で打った。

「甘えるんじゃないよ!男だろ?覚悟を決められないなら男を辞めちまいな!」 

 急激なトメ吉の変化に三人は呆然としていた。しかしその沈黙も安東の爆笑で途切れることになった。

「そりゃいいや!新三!テメエはよく女物の着物を着てタバコをくゆらしてただろ?あの時みたいにこの店で居残りを決め込んだらどうだ?皇帝なんてくだらねえ仕事なんて捨てちまってさ!」 

「そうやな。……ワシも付き合って海軍辞めたるわ。安東も付き合いで部屋で暇するのもええやろ。なあ?」 

 三人は笑い始めた。安東も嵯峨も赤松もそんなことができないのはわかっている。でもそれでも今はそんなことを空想して楽しむことくらいしかできない。恐らく止めることのできない対立の構図の中、安東と赤松の二人が生きて再会することが無いことも二人とも分かっていた。

「それじゃあ飲むぞ!トメ吉さん、他に空いてる娘はいないの?」 

「あら、年増のお酌は嫌でありんすか?」 

 昔のおちゃらけた人気芸者の姿がそこにあった。

 誰もが明日を忘れたい。その思いでこの店で酒をあおる。そんな退廃的な享楽におぼれるのも良いだろうと思いながら三人は酒をあおり続けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ