第8話 魔の眷属(4)
ルワンとラットリーの前に現れた怪物は、まるでコウモリを擬人化したかのような奇怪な姿をしていた。
「どこの手の者かしら?」
悪魔、あるいは吸血鬼をも連想させる、左右の腕の下に大きな翼を生やした妖しい灰色の魔人。花壇の上に舞い降りたプテロプスゼノクの姿を見ても臆することなく、ラットリーは怯えるルワンを守る体勢を取りながら鋭く問いかける。
「それはいずれ嫌でも知ることになるでしょう。その時まであなた方の命があれば、の話ですがね」
「命があれば……?」
殺意を明確に示す魔人の科白にルワンが戦慄する。その様子を横目で見たラットリーは、むしろこの状況を楽しむかのように口角を上げてにやりと笑った。
「逆に、今ここであなたの命が潰えるならわざわざ正体を教えてもらう必要もない、って考え方もできるわね」
「なるほど。もしそんなことが可能ならばそうかも知れませんが、どうでしょうね」
やや音程の高い紳士的な老人を思わせる声で話すプテロプスゼノクと挑発の言葉を交わし合いながら、ラットリーは素早く周囲を見回す。隠れている部下たちの気配に気づかれたのを悟ったプテロプスゼノクはケケケと不気味な笑い声を上げると彼らに合図を送った。
「出て来なさい。もはや遠慮は無用です」
プテロプスゼノクが片手をかざすと、藪の中から黒い法衣をまとった修業僧たち三人が飛び出してきて整列し、手にした薙刀をルワンとラットリーに向ける。意味が分からないと言いたげに、ラットリーは後ろに立つルワンを指し示しながら呆れた声で言った。
「何か勘違いでも? こちらにおられるのはルワン・パトムアクーン王子。そしてここは由緒あるトゥリエル教の僧院よ。国教の守護者でもあられる王家の御方のお命を、神聖な寺院の境内で狼藉を働いて奪おうなんて随分と冒涜的じゃないかしら」
「あなたは何も分かっていない……否、分からずにいた方が幸福というものでしょうか。――殺れ!」
プテロプスゼノクが下知すると、三人の僧兵たちは薙刀を振るって一斉に斬りかかる。チャザットの修業中とあって剣を腰から外してしまっていたルワンとラットリーだが、剣など不要とばかりにラットリーは余裕の笑みを浮かべ、その場から微動だにせず迫り来る敵たちを迎え撃った。
「たぁっ!」
「ぐわっ!」
先頭の僧兵が喉元を狙って突き出してきた薙刀を、ラットリーは鋭い上段蹴りで弾き飛ばす。間髪入れずに攻めかかってきた二人目の武器も下から蹴り上げて宙を舞わせ、更に突っ込んできた三人目の薙刀には強烈な踵落としを決めてその木製の柄を真っ二つに叩き折った。
「お……おのれ!」
「行くわよ!」
相手の得物を失わせたところで、すかさず繰り出される容赦のない反撃。ラットリーの長い脚を活かした鋭い蹴りの連打で、丸腰となった三人の僧兵たちはたちまち薙ぎ倒され地面にねじ伏せられることになった。
「凄いや。ラットリー……!」
後ろで見ていたルワンも思わず度肝を抜かれるほどの強さで、武装した三人の大男をあっさりと片づけてしまったラットリー。プテロプスゼノクは部下たちの不甲斐なさに苛立ったように奇声を上げると、彼らを厄介払いするように両腕の翼で羽ばたいて風を送る。
「ええい、早く消えなさい! この私が片をつけます」
「殿下。お下がりを。――変身!」
ルワンを更に後方へ下がらせたラットリーが拳を握り、凛とした声で呪文を唱える。すると不思議な現象が起こった。彼女の全身が燃え立つような眩いレモン色の光に包まれ、それが瞬時に収束して、彼女を眼前の敵と同種の異形の超戦士へと変貌させたのである。
「ほう……やはりあなたも」
「これが我がマノウォーン一族に受け継がれし力。この王国と王家をお守りするための聖なる魔力よ」
美しい黄色の大きな羽と、頭部から伸びた二本の触覚、そして黒を基調とした鋭くも優雅な昆虫型の仮面。蝶の力を宿した超戦士パピリオゼノクに変身したラットリーは背中に生えた羽を動かし、烈風を起こして砂塵を巻き上げた。
「聖なる……? これは笑止。無知蒙昧とは恐ろしいものです。呪われたゼノクの創世神話はトゥリエル教の秘儀ゆえ、この国の表の世界でただ安穏と生きているだけでは知ることはできないようですね」
誇らしげに宣したパピリオゼノクをそう言って嘲ったプテロプスゼノクは両手を広げ、殺気を向けて襲いかかる構えを見せる。
「だったら、この力についての秘儀とやらを教えていただきましょうか」
「余計なことです。間もなく死ぬのに、そのような知識はただ苦しみを増し加えるだけにしかなりませんからね」
説明を拒否したプテロプスゼノクは目にも止まらぬ速さで低空飛行し、パピリオゼノクに突撃した。パピリオゼノクは叩き込まれた相手の手刀を片腕で防御しながら押し返し、華麗な回し蹴りで迎え撃つ。
「ならば……これならどうですか?」
蹴られた勢いを利用して宙に舞い上がったプテロプスゼノクは右手を地上に向けてかざし、掌の上に灰色の巨大な光弾を作り出した。もし地上に着弾すれば、この僧院を傍にいるルワンもろとも爆砕してしまうほどの強力な攻撃魔法である。
「……仕方ないわね」
避ける訳には絶対に行かないし、相手もそれを分かっていて敢えてこの角度で撃とうとしている。小賢しいやり方に苛立ちを覚えつつ、パピリオゼノクは右手を空に向け、掌に魔力を集めて同じような黄色の光弾を生成した。
「消えて無くなりなさい!」
「ハァッ!!」
破壊力を帯びた二つの光の球が同時に発射されて空中で衝突し、大爆発を起こして砕け散る。ルワンを守ろうと素早く駆け寄ったパピリオゼノクは主君の上に覆い被さり、蝶のような大型の羽を楯にして爆風と降り注ぐ火の粉を防いだ。
「おケガはありませんか? 殿下」
「うん……でもあの怪人は?」
「残念ながら逃げられたようです。申し訳ございません」
爆炎が晴れた時には、プテロプスゼノクの姿はどこにもなかった。厄介な敵を取り逃がしてしまったと不覚を悔やみつつ、パピリオゼノクは全身を覆う美しい蝶の鎧を光の粒に変えて消滅させラットリーの姿に戻る。
「殿下! ラットリー殿! 大丈夫でござるか!?」
凄まじい爆発音を耳にした藤真が、麓の方から山道を駆け足で上ってくるのが見える。フッと同時に息をついて顔を見合わせた二人は、町での悪党退治から帰還した若きサムライを明るい笑顔で迎えたのであった。