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「五鈴、話があるの」
「……うん」
五鈴が笑わなくなってから数日が過ぎた。
会話も少ない。眠る時も同じ寝床なのに互いに距離を置いている。湯浴みは別々にしている。
わたしは考えた。どうやったら五鈴の辛さを少しでも取り除けるのか。
五鈴の読んでいる書にはこれ以上触れられないのなら、せめてわたしが今五鈴と一緒にいて幸せだということをちゃんと伝えたかった。
それですべてが解決するとは思えない。
でも何もしないままでいることは望まない。
夕方になり、書を読み終えた五鈴を海辺へ連れ出す。
「……小夜、この腰掛けは」
「わたしが作ったの。きれいな景色だから、座って一緒に見れたらいいなって」
この数日間、どうすればよいか考えながら作っていた木の腰掛けは、海辺に流れ着いた木材を組み合わせて作ったものだ。五鈴と二人で座ろうと思って作ったその場所に並んで腰を下ろす。
「あのね、五鈴に聞いてほしいことがあるんだ。わたしのこと」
「小夜の、こと……?」
「うん、わたしがここに来る前のこと」
五鈴がはっとした表情をする。心当たりがあるのだろう。
わたしは以前、昔いた場所よりもここのほうがずっと良いと五鈴に伝えたことがある。
「うん……聞かせて」
五鈴が少し不安そうな瞳でわたしを捉える。
その顔を見るのが少しためらわれて、目の前に広がる大海原を見つめながら口を開く。
わたしの視線が向かうのは海の先― わたしを捨てたあの土地のこと。
わたしは不義の子だった。
両親と呼ぶこともためらわれるようなあの人たちは、いずれも既に家庭を持っていて、その上でわたしを産んだ。それを知ったのは年齢が十になる時のことだった。
当然望まれたものではなかったから、あの人たちはわたしの存在を放棄し、村の外れに建てた狭い小屋へ押し込めた。幼いうちは誰かが世話をしてくれていたが、それがあの人たちに仕事を押し付けられた村の百姓だったことは後で知った。
やがて一人で生活できる年齢になると、わたしは完全に孤立した。
小屋にやって来る者はない。辛うじて毎日の食事を投げ捨てるように放り込んでくる役回りの人間がいるだけだった。
誰に必要とされるでもなく、誰に助けられるでもなく、ただただ一人だった。
寝床だけが与えられた小屋の中で、わたしは何もしない。何もできない。
唯一人並みだったのは、ものを学ぶ機会が与えられたことだ。村の子供に文字の読み書きや社会のことを教えるような場所があって、そこには通うように言われていた。
なぜそれが許されていたのか当時はわからなかったが、今思えば読み書きが出来れば将来売り飛ばす時に高値が付くと考えたのだろう。
その場所に通ってくる他の子供からは無視され、陰口を叩かれる毎日。
ものを教えに来た大人も決して相手にしようとはしなかった。恐らく関わってはいけないと言いつけられていたのだろう。
わたしはただひたすらに孤独だった。
そこに件の大雨と大洪水がやってくる。そして都合が良いと言うように捨てられた。
そこまでを喋り終えて、わたしは大きく息をついた。
「これがわたしの生きてきたすべて。これ以上でもこれ以下でもないよ」
五鈴は何も言わない。ただわたしの言葉を聞いている。
海の向こうに夕日が沈んでいき、橙色に染まった空が少しずつ夜の色へと姿を変える。
少し冷たい空気が肌に染みるけれど構わず続ける。
「ここに流れ着いて戸惑った。心細いと思った。ずっと一人きりでいたのに」
知らない場所、助けが来ない場所。不安が募った。
でも、五鈴がいてくれた。
「だけど五鈴はやさしかった。わたしのことを心配してくれた。すごくうれしかった」
誰からも望まれなかったわたしに居場所をくれた。
誰かと一緒にいて楽しいと思えた。
「わたしね、五鈴と一緒に過ごせてすごく幸せだよ。本当のことを言うと― 帰りたくない。あんな場所にはもういたくない。五鈴のそばにいることが何よりも幸せだから」
伝えたかったことを全て言葉にできた。
勇気を出して五鈴と向き合う。その瞳はまだ曇ったままだった。
「小夜、ありがとう。私にはもったいないくらいの言葉だったよ。でも……私はそんなに優しくない」
五鈴の表情に力が入る。何かを決心したような、そんな様子。
わたしも耳を澄ませる。
「私の話も聞いてほしい。私の― 神さまのことを」
あのね、小夜。
私が毎日書を読んでいるのは趣味でもないし、ましてや娯楽でもない。
それが私の、神さまの役目だから。
この世には良い人と悪い人がいる。
道徳と規律を守って、悪行に手を染めずに一生を終える人もいれば、そうでない人もいる。
そうでない人には法に従って罰が与えられる。
だけど、悪行をしても罰せられない人がいる。
それが誰にも気付かれなかったのか、あるいは気付かれても自身の力でそれを揉み消せたのか。
そんな人たちをこの世界は許さない。
相応の罰を受けなかった人には、黄泉の国へ行く前に苦しみが与えられる。
…………小夜は察しが良いから、もう気付いてるかな。
黄泉の国へ行く前に苦しみを与えるか、それとも与えないか。
それを決めるのが私の役目。
命を終えた人達の生涯が、書の形になって私の元へ送られてくる。
どんな風に生まれ、どんな人生を送り、どんな風に息を引き取ったのか。
それを読んで最後に苦しみを与えるかどうかを判断する。
すごいでしょ、神さまって。そんなことが出来るんだよ。
小夜はこの前、商人の伝記を読んだよね。
……正確にはこの世界が作り出した人生の記録だけど。
小夜は良い人だと言った。私もそう思ったから、苦しみは与えなかった。
でもその人は子供の頃に盗みを犯していたよね。それも何回も繰り返して。
罰せられていない罪を抱えていたのに、私はそれを見逃した。
後の人生でその贖罪として余りある慈善行為をしていたと判断したから。
でも他の例だったらどうだろう。
人生で一度たりとも悪行に手を染めない人なんて、思っているよりも多くない。
私はその度に人々が犯した罪と向き合う。そしてそれに判断を下す。
私、こう見えて結構たくさんの人たちに苦痛を与えたんだよ。
法にも縛られない自分だけの判断で、思うがままに罰を下してきた。
そんな私が優しいわけがない。
こんな私を小夜が慕ってくれることが苦しい。
小夜が私に優しくしてくれる度に、本当にこれでいいのかと考えてしまう。
たくさんの人たちに苦しみを与えておきながら、自分はのうのうと幸せに暮らすのか。
小夜は……こんな神さまでも一緒にいたいって思う……?
そこまで言い終えた五鈴の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
真っ直ぐに五鈴を見つめる。伝えたいことはもう決まっていた。
「わたしは五鈴と一緒にいたい。それは変わらないよ」
五鈴が目を見開く。わたしの言葉から逃げるように、けれど縋るように。
「五鈴はやさしい。悪いことをした人たちに、罰を下した相手にそれでもなお心を向けている。やさしくない人は、他人のことなんて考えないから」
「悪行に報いがあるのは当然のこと。その人たちが苦しむのは五鈴のせいじゃない、自分自身のせい」
「それに、神さまが幸せになってはいけないなんて決まりはない。五鈴は与えられた役目に真剣に向き合っている。それは近くで見てきたわたしが知っている」
ひとつ言葉を発する度に、ひとつ伝える度に五鈴の顔が上を向いていく。
「わたしは、こんなに立派な神さまのそばにいられることが誇らしい。
もう一回言うね。五鈴はやさしい。わたしが知ってる誰よりもずっとやさしい」
五鈴の手を握る。
いつか湯の中でそうしたように、わたしの想いが伝わるように。
「小夜……」
五鈴の口が動く。
「……私、小夜の傍にいて、いいのかな」
その言葉が聞けて、わたしはうれしかった。
「うん、もちろん。わたしは五鈴と一緒がいい、五鈴じゃないといやだよ」
「小夜……ありがとう」
五鈴の手が、わたしの両手をぎゅっと握り返す。
さっきまで瞳から零れかけていた涙はもうなくなっていた。
その晩、わたしたちは一緒に寝床に入って、肩を寄せ合って眠った。
五鈴の右手とわたしの左手を繋いだまま。
 




