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小夜が湯にあたった。
一緒に湯浴みしていた私たちは、湯桶の中で長い時間抱き合っていた。
とても心地良くて幸せだったのだけれど―
「小夜、水は飲める?」
「う……うん」
気付いた時には既に小夜がぐったりとしていたので、急いで湯から上がり、ふらつく手足を支えて家の中へ戻った。大きな布を敷いて仮の寝床にして小夜を寝かせ、こうして水を飲ませている。
小夜と肌を重ねる心地良さに私も酔ってしまっていた、と反省はすれど起きたことは仕方ない。
頬は火照っていて、息も少し苦しそうだ。
少しでも早く回復するように手を尽くす。
「小夜、このままだと冷えてしまうから……身体拭くね」
「ん……おねがい……」
いくら屋内とはいえ身体が冷えてしまうと体調を崩しかねない。
柔らかい布を持ってきて、小夜の傍に座って―
(……小夜の身体、こんな近くで……)
雪のように白く艶やかな肌が私の目を奪う。
さっきまで湯の中でも見ていたはずの小夜の一糸纏わぬ姿に、制御できないほど鼓動が早くなっていく。
(……いけない、私何考えてるんだろう。早く拭かないと)
邪な気持ちを抱いてしまった自分をなんとか振り払い、急いで水滴を拭き取っていく。
それが済んだらもう一度水を飲ませ、そっと抱き上げて寝床まで運ぶ。
まだ息も荒く、苦しそうに呼吸をしている小夜。
私が近くにいたら気を遣わせてしまいそうで、安静に寝かせたら少し離れていようと思った。
けれど、小夜が私の手を弱弱しく掴んで―
「いすず……」
「小夜……?」
「そばに、いて……?」
小夜の瞳はうるうると潤んで、それが湯あたりのせいなのか、それとも一人になるのが寂しいのか、よくわからない。だけど小夜が望むのなら私はそうしたい。
「うん。だから安心して、小夜」
小夜はとても優しい子だ。
神さまを名乗る私を疑いもせず、傍にいて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
彼女の存在で私の生活は大きく変わった。
一人で過ごしていた頃のことをもう思い出せない。
そんな小夜が私を求めてくれている。それが嬉しい。
彼女は私が喜ぶと嬉しいと言ってくれるけど、私もまた同じだ。
「ん……」
「小夜」
私も寝床に入り、いつもしてくれているように小夜の頭を撫でる。
少しだけ表情が柔らかくなる。
小夜が静かに寝息を立て始めるまで、私はずっとそうしていた。
うっすらと窓から入ってきた光に目を覚ます。
まだ覚束ない意識をぼんやりと感じながら、わたしは天井を眺める。
(明るい……もう朝かあ……)
昨晩のことを咄嗟に思い出せない。どうやって寝床に入ったっけ。
動くのが億劫なので仰向けに寝転がったまま考える。
それから少しずつ思い出す。
五鈴と湯浴みしたこと。長い時間湯に浸かって、最後の方をあまり覚えていないこと。
そして、めまいがして息が苦しかったこと。
(そっか……わたし、湯にあたってしまったんだ……)
そこまではっきりしてようやく思い出す。
五鈴が水を飲ませてくれて、寝床までわたしを連れて行ってくれた。
―じゃあ、その五鈴は今どうしているの?
五鈴の姿を探そうと寝返りを打ってぐるりと横に転がる。
そこでわたしの手はなにか柔らかいものに触れた。
(ん……なんだろう……)
わたしが触れたのは、五鈴の肌だった。
わたしのすぐ隣で五鈴が眠っている。しかも衣服を一切身に着けていないまま―
(……っ!?)
そこで気付く。わたしも同じく一糸纏わぬ姿であることに。
つまり― 五鈴と裸で同衾していた、ということになる。
「い、五鈴……?」
「……ん……さよ?」
私の声で五鈴が目を覚ます。そして、その瞳がわたしを捉える。
「……あ、……ち、違うの、小夜っ! これは、そのっ……!」
五鈴が慌てふためいて目をまわしている。
「昨晩、湯にあたった小夜を寝かせて、傍で看病してたら私も寝てしまって、だからっ、その!」
五鈴は不安になっている。
わたしに嫌われてしまわないか、いやがられてしまわないか。
でもわたしはそんなことない。うれしい。
だから五鈴に身体を寄せてぎゅっと抱きしめる。
「えっ……小夜……?」
「五鈴、昨日はありがとう。看病してくれて、そばにいてくれてうれしかった。だからお礼」
「あっ……う、うんっ……こ、こちらこそ」
しばらく抱き合って、どちらからともなく離れて寝床を出る。服を着る。
それからわたしたちは静かに時間を過ごした。
うれしいけど照れ臭い。
見つめあったらそれだけで胸が高鳴ってしまうような気がして、なかなか目を合わせられない。
わたしと五鈴の間に甘い沈黙が流れる。
けれどその心地良さを断ち切ったのは、やはり五鈴の読む書物だった。
それを手に取った瞬間から、五鈴は近寄りがたいほど張り詰めた空気を纏う。
さっきまでわたしの腕の中でいじらしく身をよじっていた五鈴はどこかに消えてしまう。
その温度差に耐え切れなくなって、一度落ち着こうと海辺へ出る。
ここに流れ着いて助けられた日から五鈴はとてもやさしかった。
わたしを信頼してそばに置いてくれた。夜は一緒に眠ることが当たり前になった。
でも、あの書物のことだけは話してはくれない。
何が書かれているのかも、なぜ疲労を感じるほど毎日読み続けているのかも。
それを知らないまま五鈴のそばにいるのは、なんだか嫌だと思う。
五鈴が時折見せる寂しそうな表情も心に靄をかける。
言いたくても言えないことがあるような、何かを抱え込んでいるような。
五鈴に辛い思いをしてほしくない。
わたしは五鈴のおかげで幸せだと思えているのに。
このままではいけないと直感が告げている。
なんだか五鈴がこれ以上に辛くなってしまうような気がして。
だからわたしは五鈴に問うことにした。
家に戻り、ちょうど休んでいる五鈴のそばに寄る。
「ねえ五鈴、聞きたいことがあるんだけど」
「う、うん…………どうしたの小夜、こんなに近くで」
「五鈴が読んでる書のこと、知りたい」
五鈴がびくっと肩を跳ねさせる。顔が強張る。
「読んで、みる?」
あっさりと許可が下りる。拍子抜け。
「いいの? 大事なものなんだよね?」
「読み終わった後、返してくれれば」
普段よりも硬い口調で淡々と告げる。感情が読み取れない。
この行動が正解なのかわからないまま、目の前にあった書を手に取る。
決して薄くない書の束を順々にめくりながら読み進めていくと、それは伝記だった。
主人公は貧しい商人の家に生まれ、ひもじい思いをした子供時代を乗り越え、青年期には家業を継いだ。
やがて商売の才覚を現わして成長を遂げ、良い婚約者と巡り会い、穏やかな家庭を築く。
老いると子供に後を継がせ、自らは静かに老年期を過ごし、最後には多くの者に慕われ、看取られて生涯を終える。
そんな主人公の人生が様々な出来事と共に情感たっぷりに描かれている。
貧しさゆえ食べるものに困り、行商人の馬車から甘味を何度も盗んでしまった子供時代の罪。
その罪の意識から、貧困する民には親切に商売をするようにと己に課した行商の旅。
やがて自らの店を大きくしていく中で、北方からの特産をいち早く取り入れて成功したという逸話。
わたしは夢中になって読み進めていき、休憩していたはずの五鈴はとっくのとうに別の書を読み始めていた。
隣から読み終えた気配を感じ取った五鈴が顔を上げる。
ゆっくりと口を開く。
「小夜は、その主人公のこと、どう思った?」
「素敵な人だと思ったよ。たくさんの人に慕われるような商人だったんだね」
「うん、そうだね……そうだと思う」
何かを省みるように、噛みしめるようにそう呟く五鈴。
書の束を手渡しながら訊く。
「五鈴は、ずっとこういう伝記を読んでるの?」
「うん、そうだよ」
「でも、どうして……?」
毎日疲れるまで読む理由がわからなかった。
娯楽として読む分には楽しいけれど、ずっと読み続けていたら集中力も使う。
その言葉に五鈴はひきつった笑みを浮かべる。
それから逡巡するような表情に変わり、やがて目を伏せてわたしから視線を逸らす。
「ごめんなさい、それは……言えない」
五鈴は、とても悲しげな表情をしていた。
「言えないなら、それでいいよ。聞いてごめんなさい……それじゃあ、わたし湯浴みの準備するね」
「うん……ごめんなさい、小夜」
居辛くなって家の外へ出る。
現実から逃げるように湯浴みの準備をしながら、それでもわたしは五鈴のことを思い返す。
五鈴の辛さが少しでもなくなればいいと思ったけど、どうにも上手くいかなかった。
それどころかもっと五鈴を落ち込ませてしまった、と思う。
わたしはどうしたらいんだろう。
その晩、一緒に湯浴みした時も、寝床に入る前も五鈴が笑顔を見せることはなかった。
 




