3
ふと目が覚めると、曇り空の隙間からわずかに漏れ出た光が窓越しに射し込む。
家に一つだけある窓は東向きで、朝日を取り込んでわたしたちを起こす役目を担っていた。
隣にある五鈴の気配を感じてわたしは静かに息をつく。
五鈴に寄り添って眠るようになったあの日から、眠りが深くなったように思える。
たぶんわたしは安心しているのだろう。
今までずっと一人で眠っていて、長い夜に言い得ぬ不安を覚えたこともある。
けれど今はすぐ近くにいるその人の存在がわたしの心を和ませる。
目を覚ます前の五鈴を見やる。規則正しい呼吸音と小さな寝息。
そういえばこうやって五鈴の寝顔を見るのは初めてかもしれない。
朝はたいていわたしより早く起きてしまうし、夜は暗いので顔があまり見えない。
あどけなさの残るその寝顔を眺めていると、不思議と五鈴を愛おしく思う気持ちが溢れてくる。
自分でもわからないほど長い年月を孤独に過ごしてきたという。
五鈴は一人でいるときも、わたしに見せたように笑っていたのだろうか。いや、そんなことはないと思う。
五鈴のことを何もかも知っているわけではないし、共に過ごした月日だって短い。
だけどあの笑顔はわたしがいたからこそ生まれたものだと強く思える。
だから、五鈴が笑ってくれるように、わたしでも力になれたらと考える。
そんなことを思いながら寝顔を見ているうちに、五鈴はゆっくりと目を開いた。
一呼吸おいてわたしの方を見やる。
「ん……小夜、もう起きてたの……」
「うん。おはよう、五鈴」
「おはよう……珍しいね、小夜が私より先に起きるなんて」
ふあぁ、と大きくあくびを一つ。
五鈴は神さまだけど、こうやって人間っぽいところを見るとなんだか微笑ましい。
無防備な姿を見せる五鈴が愛おしくなって、思わずわたしは手を伸ばす。
「んっ……小夜……?」
「よしよし、早起きできる五鈴はえらい」
毎晩髪を整える時みたいに手で触れて、頭を撫でてみる。
さらさらの髪がわたしの手の中で綺麗に流れていく。
「……私、神さまだよ。子供じゃないのに……」
「じゃあ可愛い神さまだね、よしよし」
頬をうっすらと染めてわたしから目をそらす五鈴。
「ううっ……私、もう起きる」
「あっ……」
そう言うとするりと寝床を抜け出してしまう。
もう少し撫でていたかったのにな、という気持ちを抑えてわたしも起き上がる。
その後は書物を読み始めるまでずっと、わずかに頬を膨らませたままだったことに五鈴は気づいていただろうか。
わたしが話しかけようとしてもぷいっとそっぽを向いてしまう。ぜんぶ照れ隠しだ。
だけど、書を読み始めると五鈴の様子は一変した。
それまでのいじらしい態度はどこかへ消えてしまって、普段と同じ真剣な面持ちで凛とした空気を身に纏う。
その瞳が文字を追うようにすらすらと流れていき、次から次へと新しい書を手に取っては読み続ける。その傍らには読み切ったであろう書の束がうず高く積まれていく。
人が変わってしまったかと思うようなその姿に、わたしは目を離せなかった。
長い時間五鈴を見つめ続けていたのだとわたしが気づいたのは、太陽が高く昇って真上まで到達した頃だった。
「……小夜、どうしたの? ずっとこちらを見ているけど……」
「えっ……あっ、いや、なんでもないよ。その……読み続けて疲れないのかな、って思ったりしてた、うん」
咄嗟に口から出まかせ。五鈴には無駄な心配を掛けさせたくなかった。
「うん、確かに疲れたりはする。とはいえ休む方法も眠ることしかないから」
「それはそうかもしれない……けど」
あまり気にしてもしょうがない、と言いたいようだった。
だけどその言葉を聞くと、わたしにも何か五鈴の疲れを癒すようなことができないかと考えたくなる。
五鈴のことを考え続けて少し頭がぼんやりしてしまったので、気分転換も兼ねて、何か出来ることがないかを探して家の外に出ることにした。
この島はわたしたちのいる家を中心にしていて、一周するにも五分程度で済んでしまうほど狭い。
松の木には常に雪が積もっていて、村では見たことのない風光明媚な光景に綺麗だなと素直に思う。
雪と共にあるこの島だが、外に出て寒すぎるということもない。
海辺で冷たい風を受けた時は流石に寒いと感じるが、逆にそれ以外であれば適温と言えないこともない。
そこまで考えたところで、今日は海辺へ出るのやめてみて、代わりに家の周りを見て回ることにした。そういえばここに来てからあまり詳しく見ていなかった部分だ。
初めての場所には初めての発見があるというもので、そうこうしていると小さな木小屋を見つける。
中を覗いてみれば、灯りもない暗くて狭い物置のような空間。
出来るだけ大きく扉を開けて外の光を取り込む。
背後から昼間の光が入ってくると、うっすらながら中の様子が見て取れるようになる。
雑多な木材や古びた家財道具の中に混じって、ひときわ目を引くものがあった。
(これ、なんだろう……)
それは大きな木桶だった。それも人が一人入れるくらいの大きさ。
はて、水汲みにでも使うのだろうか。
確かにこの島には湧き水がある。(それもまた不思議だと思う。)
とはいえこの大きさでは掬うのにも一苦労だろう。ではなんのため?
そこまで考えたところで、ふとその横に立てかけてある大きな鉄の板に気づいた。
大きな桶、鉄の板、湧き水。
わたしはここで思い至った。
すぐに踵を返して海辺に出ると流れ着いた流木がいくつも見受けられる。
(これなら五鈴に喜んでもらえる……!)
日が暮れるまではまだ時間がある。今からでもきっと間に合う。
わたしはいつになく奮い立ってそれの準備を始めた。
「小夜、おかえりなさい。外にいたの?」
「うん、ちょっとね」
夕日が海の向こうに沈みかける時間、五鈴の書を読む手が止まる頃にわたしは戻る。
家に入ると既に書を片付けた五鈴がこちらに向かって尋ねてきた。
何時間も読みふけっていたのだから疲れていないはずもなく、その顔には少しだけ陰りの色が見える。そんな五鈴に近寄って、立ち上がってと促すように両手を引く。
「さ、小夜? なに……?」
「ちょっと一緒に来てほしいんだ」
家の戸を開けてすぐ左。
それを視界に入れた瞬間、五鈴の瞳が大きく見開かれる。驚いている。
「これは……湯浴みのための……?」
「うん、そうだよ」
わたしが作ったのは簡易的な湯屋。
地面のくぼんだ部分に焚き木を置いて火をつけ、上に鉄の板をかぶせる。
その上には大きな木桶を載せて、湧き水で一杯にして温めれば完成だ。
湧き水を少しずつ運んでくるのは大変だったけど、五鈴のことを考えていたら苦にはならない。
水面から白い煙が立ち上っては消えていき、少し冷たい空気の中でその温かさを示している。
「私のために、用意してくれたの……?」
「うん」
五鈴がこちらを見る。
口をぽかんと開けて黙っていたかと思えば、その沈黙を見かねたわたしが手を伸ばそうとした瞬間―
「小夜!」
伸ばしかけた手をぎゅっと握り込まれる。包み込まれるように手のひらの温かさが伝わってくる。
「ありがとう、小夜。すごく嬉しい」
「どういたしまして」
「用意するの大変じゃなかった……? こんなにたくさんのお湯なんて」
「ううん、五鈴のことを考えてたらぜんぜん。
わたしは五鈴が喜んでくれるとうれしい。五鈴に喜んでもらうためなら何でもしようって思ったから」
五鈴の綺麗な瞳がわずかに潤んだように見えたのは気のせいだろうか。
だけど、そのことさえも吹き飛ばすような満面の笑みにわたしも胸が一杯になる。うれしい。
「五鈴、今日もたくさん書を読んで疲れてるよね。入っていいよ」
「ありがとう、そうさせてもらうね」
普段は落ち着き払っている五鈴だけど、今ばかりは心が弾んでいるのか小走りで家に戻っていく。
その後ろ姿を眺めているとわたしは幸せだ。
ところが五鈴が家の戸に手を掛けて数秒、何かを考え事をするようにその動きが止まる。
どうしたんだろう? なにか至らないことがあったのだろうか?とわたしも少し悩む。
けれど、ふとこちらに振り向いた五鈴の表情が視界に入ると、そうじゃないとわかる。
「…………そうだ。もうひとつお願いがあるんだけどいいかな」
「う、うん。なんでも言って」
五鈴が少し照れ臭そうにわたしを見つめる。
その頬は今までに見たことのないくらい赤く染まって、恋する乙女のようで―
「小夜、一緒に湯浴みしよう?」
肌が触れる。わたしと五鈴の太腿が重なる。
わたしたちは狭い木桶の中で一緒に湯に浸かっていた。
「い、五鈴……わたし、重くない?」
「重くないよ。小夜は軽いし、お湯の中だから重みもあまり感じない」
狭い空間なので二人で足を伸ばして浸かることもできず、やむなく五鈴が先に入って底面に座り、その膝の上にわたしが乗るような体勢になっていた。
二人で湯浴み。それだけでも胸が高鳴るというのに密着までするなんて。
湯に浸かれば緊張も解けるだろうと思っていたわたしの見立ては甘かったようだ。
「小夜、もしかして緊張してる?」
「う、うん……だってわたし、人と一緒に湯浴みするの初めてで……」
「私も初めてだよ? でも小夜が相手だから嬉しいし、なんだか落ち着くな」
一糸纏わぬ姿で触れ合っているというのに、五鈴は余裕そうだった。
わたしを誘ってきた時はあんなに頬を赤らめていたのに。
あれからわたしたちは部屋に戻って装束を脱ぎ、湯浴みの準備をした。
互いの下着姿は何度となく見ていたけれど、その先を初めて見たわたしはずっと胸の鼓動が抑えられないでいる。
そんなわたしを見かねたのか、それとも追い討ちを掛けようとしたのか、五鈴が不意にわたしを抱き寄せてきて―
「っ……!」
「小夜の身体、温かいね。安心する」
「い、五鈴……」
身体の前面が密着する。五鈴の鼓動をとくんとくんと感じる。
わたしの脈はこれ以上ないほど早くなっていく― と思っていたが、その予想は当たらなかった。
(あれ……これ、すごく落ち着く……)
ぎゅっと抱き寄せられて、その体温と柔らかな肌に包まれると、わたしの心は不思議なくらい穏やかになる。
寝床で五鈴と肩を寄せ合っている時の安らぎをより強く感じる。
五鈴がわたしに向ける信頼、友愛、優しさみたいな色々なものが肌を通じて伝わってくるような気がして。
わたしも五鈴の背中に腕を回して、ゆっくりと抱き寄せる。
「五鈴、しばらく……このままでいたい」
「私もだよ、小夜」
言葉は少ないけど、五鈴の気持ちは触れ合っているだけで伝わってくる。
わたしが五鈴に抱いている想いもちゃんと届いているのだと思う。
五鈴はずっとひとりだった。
わたしが想像するよりも長い間、この小さな島で孤独を甘んじて呑み込んできた。
神さまと名乗ってはいるけれど、たくさんの時間を共に過ごすうちに、中身はわたしと変わらない普通の子だとわかった。
きっと寂しかったのだと思う。
手を差し伸べてくれて、思いやる気持ちを人一倍持っていて、時に物事とも真剣に向き合える― こんなに素敵で優しい子が一人きりにされていいはずがない。
わたしはそんな五鈴が幸せになってほしいと思っている。
その気持ちは背中に回した腕から、心臓で響く鼓動の音から、触れ合った肌から、五鈴に伝わっているはず。
そんな今が愛おしくてたまらなくて、わたしは五鈴の手から離れまいとぎゅっと抱き着く。
それに呼応するようにわたしの背を抱く五鈴の腕にも力が籠る。
夕日が海の向こうに沈んでもなお、わたしたちはずっとそうしていた。