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五鈴の暮らしはとても質素だった。
夜が明けて辺りが明るくなってきた頃に目覚める。
食事は摂らない。神さまだからものを食べる必要がないらしい。
昼間はずっと書物を読んでいて、家の一角には大量の書が溢れ返っている。
その山のように積み重なったものたちをひたすら読んでいる。
何が書いてあるのか気になってはいるけど、読み込んでいる五鈴の様子が真剣なのでおいそれと声を掛けられないままだ。
時々外に出て海辺まで歩いていく。
そうして遠くを見つめながらぼんやりと過ごす。
日が暮れる頃には書物を読むのをやめ、焚火にあたって静かに過ごす。
やがて小さくあくびをするようになり、火を消すと寝床に入って眠る。
毎日この暮らしを続けていて退屈ではないのかと尋ねてみれば、
「それ以外にすることがないからね」と何気ない風に返してくる。
わたしはといえば、そんな五鈴の様子を眺めながら家の中で静かに過ごしているだけだ。
海の中を漂流してきたせいなのか、まだ身体が重くて疲労が抜けきっていないように思えた。
焚火にあたりながら寝てしまったりするし、夜は五鈴より早く寝て遅く起きる。
そうやって過ごして十日ほどが経った気がする。
「ねえ、五鈴。気になることがあるんだけど聞いていいかな」
「うん、いいよ」
書物を読む手を止めて休憩していた五鈴に話しかけると、二つ返事で返してくれる。
山積みの書物に目を通している時の硬い表情が柔らかくほぐれていく様子に安心する。
「わたし、ここに来てから全然お腹が空かなくて……あと、月の障りも来ないんだけど」
「ああ、それなら心配しないで。上手く説明できないけど、私の近くにいる影響みたいなものだよ」
五鈴は神さまだから食事が要らないし、体調に関することも心配がないらしい。
わたしも同じようになっているのだろうか。不思議だけど、それくらいしか説明がつかない。
本当に不思議なことだらけだ。
こうして人里離れた海の真ん中で暮らしていることもそうだけど、自分がその生活にすんなりと慣れていることも。
「小夜は、退屈じゃない? 書物以外何もないところだから」
「ううん。そんなことない、村にいる時よりずっといいよ」
わたしの返事に少しだけ間を置いて、それからゆっくりと笑みをこぼす。
こうして笑った顔を見ると、わたしとそう違わない普通の女の子に見えてきて、とても神さまとは思えなかった。
「五鈴はどれくらいここに住んでいるの」
「そうだね……もう覚えていない。何年か、何十年か、自分でもわからない」
「……辛くはないの? ずっと一人でいて」
そう言うなり五鈴は目を細めて、わずかに憂いを湛えた笑みと共に口を開く。
「一人でいることには慣れているから。それに…………いや、なんでもないよ。それより」
何か言い掛けようとした口を噤み、気を取り直すようにわたしへ笑顔を向ける。
その先が気になりはしたけれど、それを尋ねる勇気はなかった。
「今は小夜がいてくれるから、楽しいよ。こうして他愛もない話ができる」
「……実はわたしも。こうやって五鈴と一緒に暮らせて、嬉しいなって思う自分がいる」
生贄として海に投げ出され、帰り道を失った身なのに。
わたしは今の暮らしを楽しいとすら思っている。
「ほんとう? 私に気を遣って嘘を言ってたりしない?」
「嘘じゃないよ、本当」
それは本当だ。どうしてそう思うのか、心当たりはあるけどまだ口にはしない。
だってこんなに嬉しそうに笑顔を見せてくれる五鈴がいるのだから。
「嬉しい。小夜、これからはもっと小夜と話がしたい」
「うん。わたしも五鈴の話が聞きたいし、わたしのことも五鈴に知ってほしい」
それからわたしたちは会話をすることが増えた。
わたしの体調も徐々に良くなっていって、過剰に眠り過ぎることもなくなったし、起きている間に意識が遠のくことも減った。
朝起きてまだ間もない五鈴と静かに言葉を交わす。
昼間は書を読む手が止まった時にお互いのことを尋ね合う。時には海辺に出たりもする。
夜は寝床に入る前に焚火を囲みながら今日のことを話す。
五鈴の言う通り何もないところだから、喋ることはそんなに多くないはずだった。
だけど、五鈴といると今までになかったくらい言葉の発想が広がっていって、どれだけ語っても語り尽きることはない。
例えば夜。しんしんと雪が降る様を眺めながら、二人で向き合っていると五鈴が口を開く。
「小夜、その装束似合うね。すごく綺麗」
「そうかな……? わたし、自分の容姿ってよくわからなくて……」
自分の姿形なんて気にしたことがない。
川の近くを通った時に水面に映る自分を見たことはあるけれど。
「小夜はすごく綺麗だよ。こんなに優美で柔らかそうで、可愛らしい子は他にいない。神さまの私が言うんだから間違いないよ」
「い、五鈴っ……こんな時だけ神さまのことを持ち出すなんて、ずるい」
「顔を赤くしている小夜も可愛いよ、私好みだ」
「っ……!」
からかわれた。五鈴はずるい。でも嬉しい。
そう言われると、これからも綺麗だと言ってもらえるようにしていたいと思う。
そう考え出すと、次は今身に着けている衣服のことも気になってくる。
村を出る時に着けていた装束をそのまま使っているが、似合うかどうかなんて考えたこともなかった。
白の小袖と緋色の袴。重くて動きづらいのは確かなのだけど、五鈴が褒めてくれるならそれもいいかと思えてくる。
「私、聞いたことがあるよ。神さまにお仕えする人の衣装って色々あるんだけど、その中の一つだったと思う」
わたしの生きてきた狭い世界では無かったけれど、大きな町に行くと神さまを祀っている場所があって、そこで仕えている人がいるらしい。
それにしても、神さまにお仕えする、ということは―
「それじゃあわたしは― 五鈴にお仕えしようかな」
「……!」
お仕えするって、具体的にはどんなことをするんだろう。
特に思いつかないのだけど、今のわたしが寝る前の五鈴にできそうなことと言えば―
「五鈴、髪触るね」
「えっ……う、うん……」
「わっ、五鈴の髪、さらさらで綺麗」
髪を整えることぐらいだろうか。
五鈴の長い髪は背中に掛かるくらいまで伸びていて、一人では手入れをするのも大変だろう。
髪の間に指を通すとするすると流れていき、触っているわたしも心地良いくらいだ。
「さ、小夜……そのっ、褒めてくれて、ありがとう……」
こちらに振り向いた五鈴の頬は赤く染まっていて、綺麗な瞳が上目遣いでわたしを見つめてくる。
その姿に胸が高鳴る。
わたしの短い人生で初めて、誰かとの関わりで心の奥が熱くなってくる感触を覚えた。
こんなに可愛い神さまだったら、ずっとお仕えしてもいいかもしれない。
そんなことを考えて、強く脈打つ胸の鼓動を感じながら五鈴の髪を撫で続ける。
それから二人してあくびをする頃になって、わたしたちは寝床に入る。
当然ながら寝床は元々五鈴が一人で使っていたけれど、二人で寝ても余裕があるくらい広かったので、わたしも一緒に使っていた。
わたしが先に入って、その後に五鈴が続く。
二人並んでも腕を思いきり伸ばすくらいでないと五鈴には触れられないくらいの距離。
寝返りを打っても五鈴に迷惑を掛けなくても済みそうなのはありがたいのだが、今晩はなんだか普段と違う気分だった。
五鈴の近くで眠りたい。
わたしはもぞもぞと身体を動かし、仰向けで眠ろうとしている五鈴に近寄る。
「……小夜?」
「あのね、今日は五鈴の近くで寝たいんだ。いいかな」
「えっと、うん。私は構わないよ」
五鈴と肩が触れる距離で眠る姿勢になる。顔だけ五鈴の方を向いてみる。
そうするとすぐ隣にいる五鈴の存在が五感で感じられた。
暗闇の中でもうっすらと見える綺麗な横顔、肩がそっと触れ合う感触。
ほんのりと漂ってくる五鈴の優しい匂いと静かな呼吸音がわたしの心を穏やかにする。
味覚を感じるものはないけれど― 五鈴と同じ空気を吸っていると思うとなんだか嬉しい。
やがて寝入る前の私の視線に気が付いたのか、少しだけこちらを見た五鈴が口を開く。
「小夜、おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい、五鈴」
こんなに幸せな気持ちで眠りにつくなんていつぶりだろう。
五鈴と肩を寄せ合って、わたしはまもなく眠りの世界へ誘われた。