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手のひらが冷たい。
ひりひりと皮膚を刺すような痛みが沁み込んでくる。
それからややあって、わたしの手は雪の上に置かれていることに気がついた。
片方の頬にも同じ痛みを感じる。顔を横に向けている?
そうして視界に意識が及ぶと、白い景色の中に木のようなものが立っているのがわかった。
わたしは雪の上にうつぶせで身を横たえていた。
その冷たさに耐えかねて身体を起こそうとするけれど、手足はぴくりとも動かない。自分の身体が自分のものでないような感覚。それでいて密着する雪の冷気が全身の体力をどんどん奪っていき、意識も薄れていく。
凍死するというのはこんな感じなんだろうか―と思い、意識を手放す寸前。
わたしの手に触れたのは、温かい手のひらだった。
「……あっ、気がついた、かな」
次に目を覚まして、まず最初に見えたのは天井だった。
白一色の景色とは違う、木材の深い茶色。
そして、わたしの意識を呼び起こした声はすぐ近くから聞こえていた。
身体が動く。顔を横に向ける。
「大丈夫? ここは家の中だから安心していいよ」
「い、え……? わ、たし、どうして……」
徐々にはっきりとしてきた視界が捉えたのは、わたしを見つめる綺麗な女の子だった。
面長のすらっとした顔立ち、凛々しく美しい宝玉のような瞳、長い黒髪は背中まで流れている。身に着けている着物は鮮やかな色が何重にも重ねられていて、まるでお姫様のようだった。
少し幼さの残るその表情から、年の頃はわたしと同じくらいに見える。
そんな彼女の手が不意にわたしの手を握り込む。
「寒かったよね、でももう大丈夫だから。動けるようになるまで安静にしていて」
「えっと……はい……」
彼女の言う通り、まだ手足は思うように動いてくれなかった。
そんなわたしに彼女は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
体が冷えないように火を起こして部屋を暖め、常にわたしのそばに寄り添う。
寝床が快適であるように掃除もし、汚れた髪や身体も温かい湯で拭いてくれる。
やがて一日もしないうちに、わたしは起き上がれるようになった。
彼女は安堵した表情で立ち上がった私を見やり、焚火のすぐそばへ連れて行ってくれた。
着物の裾を気にかけながら座った彼女と向き合い、焚火のそばに腰を下ろす。
雪の中ですっかり濡れてしまった装束は乾かされ、身に着けても不快にならない。
「さて、せっかくだから話をしようか。私に聞きたいことはある?」
何から聞けばいいか、聞きたいことが多すぎて頭がぐるぐるする。
だけど、とりあえず初めに―
「あの……名前、とか……」
その問いになぜか小首をかしげる彼女。
ひとしきり悩む素振りを見せてから、わたしのほうへ向き直った。
「私、名前はないんだよね。それじゃあ……五鈴でいいよ。五鈴」
「五鈴……? わたしは……小夜。小夜って呼んで」
五鈴。名前がない? どういうことだろう。
そもそも、ここはどこなのか。
そんなわたしの戸惑いをよそに、彼女はわたしの手を握って引っ張ろうとする。
家の出口、扉のある方へ。
「外で話をしようか。きっと小夜も知りたいことがあるだろうし」
言われるがまま立ち上がって歩き出す。
そこで初めて彼女の背はわたしよりも少し高いことに気付く。
でも、わたしの右手を握った彼女の左手は小さくて、わたしと同じくらい。
不思議だ。出会って間もない、素性も知らない相手に安らぎを覚えてしまっている。彼女が呼んでくれたわたしの名前は、今まで出会った誰よりもすっと心に染み込んでくる。
家を出ると辺り一面は雪に覆われていて、背の高い松の木がたくさん生えていた。
木々の間を掻き分けるように歩いていくと、間もなく視界が開ける。
そこは、海だった。
群青の海原。灰色の雲の下で生き物のようにうねる波。ひとが恐れる世界。
わたしが今立つ場所から見えるのはたったそれだけ。
冷たい風が吹きさして、幻かと思ってしまいそうになるわたしの意識を現実へ引き戻す。
海岸線を目で追っていくとそう遠くない場所で途切れていて、この場所が小さな島であることが想像できた。
「小夜が知りたいことは大きく二つ。ここがどこなのか、私が何者なのか」
彼女の声が、わたしの心を見透かすように言葉を紡ぎ、その声が耳から入り込んでぞわっと背筋が震える。
隣に並び立つ彼女の瞳は、まっすぐに海の先を見つめていた。
「ここは見ての通り絶海の孤島。私たち以外に誰もいない、小さな島。」
「人、いないの……?」
「うん。私しか暮らしていないよ。不思議に思うだろうけど、本当だからそう言うしかない」
荒れた海に、星が見えそうもない曇天の空。
雪が降ったらこの島ごと隠れて見えなくなってしまいそうだ。
あまりにも現実離れした世界に恐怖が先立つ。
だからこそ知りたい。わたしを助けて、優しくしてくれる彼女が何者なのか。
彼女の澄んだ瞳がこちらを捉える。
「私は、神さまだよ」
「神さま……?」
その言葉にわたしの脳がぐらっと揺れる。
それに連鎖するように、思い出したくもなかったことが次々に脳裏に浮かんでは消えてゆく。
神さま。彼女がそうなのか。
それなら泣きたい、怒りたい、恨んでやりたい。
でもどうしてか、わたしには彼女へその感情を向けることができない。
さっきまでわたしの手を握っていた彼女の温かさに、どうしても逆らえなかった。
「次は小夜のことを教えて。どうしてここへ来たのか、私は知りたい」
わたしは生贄にされた。
どうしてそうなったのかを思い出すと、初めは突然降り出した大雨だった。
わたしの住んでいる地域は寒い気候なりに田畑を耕し、多くはないが米を作っていた。郡の役人に収める税は他にあるのだが、自分達の暮らしのために作っている大切なものだ。
その田が大雨でぜんぶだめになってしまった。
もうすぐ来る秋に収穫するはずだった米は使い物にならず、土地も酷く荒れてしまった。
それでもわたしの村では牧畜というもう一つの生業があった。
むしろこちらが柱で、育てた馬やその皮を税として役人に献上している。
だから馬たちが無事なのは幸いだった― はずだった。
大雨も途切れないままのある日、大きな洪水が村を襲った。
それは大切に育てた馬たちを流していってしまい、運良く残されたものもすっかり弱ってしまった。
村の人たちは海神からの神罰だと恐れた。
そして神さまの怒りを鎮めるために生贄を差し出そうと考えた。それがわたし。
そういうわけで、わたしは村で一番上等な装束を纏わされ、小さな木舟に乗せられた。
舟に漕ぎ手はない。たった一人だけを乗せた舟は荒れる大海原へ進み出し、そして― わたしは海へ放り出された。
「それから、気付いたら雪の中に倒れていて― あなたに助けられた」
「そうか。小夜は海へ落ちた後、偶然ここへ流れ着いたんだ」
「きっと、そう……」
投げ出された後のことは何も覚えていない。
「混乱しているところを申し訳ないんだけど、最初に誤解を解いておきたいんだ」
「誤解……?」
「残念かどうかは知らないけど私は海神じゃない。水や波を操るような力はないよ」
違うのか。彼女がわたしの村をひどい目に遭わせた神さまではないのか。
次々に流れ込んでくる情報に頭が追い付かない。でも、なぜか安堵する自分がいた。
「小夜の村のことは不幸だったと思う。でも私はそれに関与できないし、できたとしてもしたくない」
「そう、なんだ」
「人の不幸はあまり……好きではないから」
わたしは彼女のことを、信じたくなってしまっているのかもしれない。
あんなに優しく世話をしてくれて、親身になってくれた彼女。
その綺麗な顔が悲しげに曇っているところもまた、その想いに拍車を掛けた。
「私はずっとここで暮らしていてね。島の外のことを知らないし、ここを出る術もない」
命だけは救われた。でもここから村へ帰ることはできないようだった。
わたしはこれからどうすればいいのだろう。
不安と戸惑いで縋るように彼女に視線を送ると、困ったように少しだけ微笑み、それから海の方へ向き直った。
華奢な腕が持ち上がり、その手の指先が一点を指す。
「海の先、ほらあの辺り」
彼女が指差す方を見つめる。
目を凝らして必死に捉えようとすると、わずかに緑が見えた。
「あっ……!」
「あれはきっと陸地だと思う。そこから助けが来ることはないかな」
あるかもしれない。村に来る役人よりももっと偉い役人たちは、大きな舟を作らせていると聞いたことがある。
舟ができあがって、この島の近くを通りかかってくれたら。
「わたし、帰れるのかな」
「うん。きっと帰れるよ、だからこうしよう」
五鈴の両手がわたしの両手を静かに包み込む。
その瞳は凛々しく、そして優しくわたしを見つめている。
「助けが来る時まで、ここで一緒に暮らそう。小夜」
「……うん。よろしくね、五鈴」
冷たい空気と吹き付ける風の中で、五鈴の温かな手が心まで包んでくれるような気がする。こうしてわたしは五鈴と二人で暮らし始めた。