第92話 リンネ・アルベェリアの声
総大将ヴァイロ突如の裏切りから始まった裏切りの連鎖。エディウスが、約束は違えていないと蜘蛛之糸で拘束してからの仲間達へ投げつけられた絶望之淵。
術者以外に解けない筈の拘束の糸を解き、エディウスに捧ぐと言った傍から、その黒い炎の前に立ちはだかるという背信行為。
その絶望の炎に割り込むは、愛するリンネというこれまた絶望の連鎖。けれどその絶望之淵で歴史から消え去った筈の竜の娘の声が、分け隔てなくその場にいる者全てに届くという、これまた裏切りの結果だ。
リンネの身体そのものは露も残さずに消えたというのに、未だに皆の心を捉えて離さないあの底抜けに明るい声。
―り、リンネ………これは一体? 君は何をしたと言うのだ?
―へへっ、判らないのシアン? これは貴女に教わったから出来たんだよっ。
―なっ!?……………。
―私はね、最期の叫びに自分の全てを載せて念じたの。さっき音の波の時に判った。能力なんて扱う者の意志次第なんだって。
リンネとシアンの意識同士による会話。これはシアンの使う接触でもなければ、ニイナの風の精霊術による言の葉の力、その何れでもない。
理屈は判らないのだが、少なくとも死亡が確定している筈のリンネとこうして会話が成立している。
―…………っ?
―え、これだけ言ってもまだ判らないの? 音の波で既に術に掛かった人達を解放出来た。だから私は声の力を信じたの。皆ァァァァッ! 私の声を忘れんなよォォッ! ………ってね。
リンネにモノを教わるシアンの図式自体が珍しいのだが、それにしたってまるで要領を得ないシアンに、思わずリンネは声に笑いを混ぜて応えた。
要は賢士ルオラと修道騎士レイシャをエディウスの契約から解放した音の波と同様に、リンネは自らの最期の声に新たな可能性を信じ、そして実現したと言っているのだ。
「ば、馬鹿な………。そんなふざけた話が通じるものかっ!」
リンネのこの説明は、シアンのみならずこの場にいる全ての者へ通じていた。極度に狼狽えるエディウス………と、言うよりこの場合、エディウスに化けているマーダがこの結果を信じたくないのだ。
彼は自分だけで『扉』の力をこれまで引き出せなかった。扉の力とは、簡潔に言えば、本人が持つ意識と、他人との意識が通じ合った時に発生条件を満たす。
その割にはレアットのように気がつけば……という輩も存在するので他人の意識が介在出来ていないように思えるが、実は必ずこの図式が成立している。
加えて当人が欲しい! と心底願った瞬間、ごく稀に生まれるのだ。何でこのような現象が生じることになったのか?
大変申し訳ないが、この物語においてそれは語られない。
とにかくマーダは人より創られし存在であり、自力でこの力を得る資格を、少なくとも現時点では、有していないのだ。
マーダが「馬鹿な………」と言っている言葉の説明に、これでは少し足りないので補足しよう。
竜の音の使い手リンネ、先読みのアギド、大気を操るレアット、女神の力に目覚めたエターナ、そして暗黒神の魔法を構築し、自らの影の竜を生み出したヴァイロ。
この者等は皆、マーダに言わせれば不完全な『扉』使い。不完全な者が扱える扉の能力は一つしか選べない。
これまでマーダは、この様な者を見つけては身体毎、その能力を持ち去り自分のものにしてきたのだ。
何れこの世に出現すると言われる本物の『扉』使いに対抗するために………。
しかしこのリンネ・アルベェリアという女。確かに元を辿れば自らが発する声か音、それに準じた力を使っているのは確かだ。
だが……それにしたって汎用性が高過ぎる。これを一つの能力と認めたくない不満がマーダの中に生じているのだ。
―え、判らない? かの聡明なエディウス様が、まさか漢字すら読めないっ?
「な、何だとっ!」
マーダの中に飛び込んできたリンネの声は、明らかに自分を小馬鹿にした響きが感じられた。姿が見えなくともドヤられているのが判る。
―ディス・アビッソオ………。絶望の淵とは良く言ったものね、そう……私の立っている所は淵、絶望の底じゃァないのよッ!
言葉遊びとも屁理屈とも思えるリンネの力説。そう……自分は絶望の崖の縁際に立てたと彼女は言っているのだ。
何にせよ歴史から消える炎に自ら飛び込むという行為を、無謀だとは思わないリンネの強い意志の力。
これこそが、彼女にして「私の立っている所は淵……」の根拠なのだ。
「………い、いや、う、うんっ、間違っちゃいないな」
「アァッ!? 全然意味判んねッ!」
漢字の意味は勿論理解出来るので、半ば強引に自分を納得させている賢士レイジ。冷や汗を垂らしつつ幾度も頷く。
一方、本当に漢字の読み仮名から理解不能のレアットがキレた。
―あ、あとついでに言っておくと、ノヴァンはアギドから貰った絶望之淵で創った黒い鱗があるから、これは絶対に生き残るって確信があったっ!
この付け足しの説明は、中々に説得力が感じられた。何にせよ彼女の行動全てが途轍もない覚悟に溢れていた。
―り、リンネッ! お、俺は、俺はっ! 何て取り返しのつかないことを………。
―………全く、泣き虫な神様だねぇ……。信者が一人死んだ位で、泣いていたらあっという間に枯れ果てるよ。
自身の身体中を眺めながらヴァイロは、後悔の念に押し潰されつつ、大粒の涙を拭おうとせず流し続ける。
リンネは「信者が一人……」と言い捨てるが、そんな事で涙している訳がない。
ヴァイロは2年前、初めて彼女と交わり、さらに戦之女神を退けた後のこと。
此奴だけが唯一の女神だ、どんな代償を払おうとも守りたい。そう誓ったにも関わらず、結果的にその絶対神を、死に追いやったのが自分だということに、もう訳も判らずただ号泣している。
もういっそ自分の全身を引き裂いてしまいたい………。たとえリンネがそれを望まなくとも。
―………ヴァイ、もう自分を責めないで。暗黒神? いつまでもそんな人の言ったことに縛られないで………。
そんなヴァイロのことを声だけの存在なのに、その銀髪の頭を抱いてまるで母親のように優しく撫でる。
決して視覚では感知出来ないが、見えている、感じている。ヴァイロにはそう思えてならない。
―貴方は闇の中に道を切り開いてくれた……。
―ウッウッ………。し、しかしリンネッ!
―そんな覚悟がある貴方だからこそ、私だけじゃなく、ミリアも、アギドも、アズも………。死んでいった他の皆も貴方を心から愛したんだ。
相変わらず子供のように泣きじゃくるヴァイロを、それこそあやすように諭すリンネ。
―私は大丈夫。貴方から貰った輪廻という名前通りに………。嗚呼っ、そうか。ヤダな……。
―えっ?
―今頃判っちゃった。私の声と音の力が、色々と姿形を変えられたのは、そもそもこの名前のお陰なんだよ、きっと……。
自分は名前の通り、何度でも貴方の前に蘇るから大丈夫。リンネはそう言おうと矢先、自らの力の根本を勝手に理解し微笑んだ。
―さあ、笑ってお別れしようっ! そして私達の優しい暗黒神、最期の最後まで足掻いて見せろッ!
この声を最後にリンネの意識は遠のいていった。ただ見える筈のない顔が、明らかに大口を開けて笑っていた。