♯1 開幕
薄暗い路地裏、煌々と輝く刃物。
少年は追われていた。
ただひたすら捕まえられないように、必死に足を動かした。
ジョキン。
腱か肉か、確かに肉を切り断つ、鈍く酷く気色の悪い音が闇夜に貫く。
ビルの間から少年の慟哭が響き渡る。
しかし、繁華街に喧騒に声は掻き消され、誰にも届かない。
少年はついに地に伏した。ただの日常の1ページを過ごしていただけなのに。…………噂だと思ってたのに……。
理不尽は唐突にやってくる。
ひたひた、ゆっくりと、しかし着実に少年の下へ向かっている。
少年は、自分を追いかけていた存在を今の今まで、あまりの恐怖で直視出来ていなかった。
『い、嫌だぁ!!!来ないでよぉ!!』
迫りくる存在に対する恐怖で少年は顔を手で覆い隠す。
足音が止まった。
暫くの間、辺りは不自然な程に静まりかえった。
動悸が酷い。心臓の音が鳴り止まない。
ドクンドクンドクンドクン………
やがて自身の心音も聞こえなくなっていく……。
不思議とリラックスした心情となった少年は、自身の顔を覆っていた手を下ろした。
その時だった。自身の掌に異変が起こっていることに気づいたのは。
大量のシラミの付いた髪の毛が掌いっぱいに付着していた。
『おっ、おっえぇええええ゛っ』
突然の汚物を目の当たりにし、身体が拒否反応を示した。
自分の吐瀉物と大量も毛が混ざりあった汚物が地面に溜まりを作っていく。
その汚物溜まりをみて、また嘔吐反応が出る。
………刹那
"迫りくる存在"は少年の後頭部を鷲掴みにして、汚物溜まりへと顔面を叩きつける。
少年の視界は血と汚物塗れになり、ほぼ見えているものは朧気であった。
『ぃ嫌だぁ゛、死にたくないよぉお゛』
命乞いをする少年の首を無慈悲にも締め上げ、自身の顔へと近づける。
汚れ、淀んだ視界の縁から、悍しい形相の女が覗き込んできたのだ。
爛れた皮膚に、耳まで裂けたであろう口元の傷痕。
眼球は異様に大きな黒目に充血しきった白目から、まつ毛が貫通して生えてきており、その為か瞼はクリップらしきもので皮膚に留められ、目玉が常にひん剥いている状態であった。
女は少年の顔面を異様に近づけ、ついには、2人の眼球と眼球が接触する程に密着させていた。
ぬちゅ。ぐちゅちゅ。
自身の眼球と少年の眼球を執拗にねぶり合わせ続け終いには、少年の眼球をすり潰した。
少年が人生最期にみた光景は、赤黒く蠢く、視界いっぱいに広がる眼球の虹彩だった。
「美しい。美しいもの。美しいものは直ぐに腐る。美しいものは直ぐに腐るだから私が美しくなる。」
ぶつぶつと妄言を呟きながら少年の亡骸を袋に詰めると、女は路地裏の闇へと消えていった……。
「おい、何ボケーっとしてんだ。はよ飯食わんかい!………聞いてんのか?!」
「…………ぅん。……聞いてる聞いてる……。ぐぅ…。」
英樹の家の朝は、父親の説教から始まる。
「聞いとらんだろ!…ヒデ!起きろ!」
「……んわーってるって!」
呂律が回らない口で適当に相槌を打つ。
英樹は眠い目を擦りながら、出された朝食を無理やり口に運びつつ、おもむろにニュースを眺めた。
………男児が行方不明、……””横須賀穂高くん11歳””………今月7人目。同一人物の犯行の可能性が高い………。
「最近物騒ねぇ………ヒデちゃんも晩御飯までには帰ってくるのよ〜。」
英樹の母、恵が頬杖をつきながら、ニュースを観て、英樹に話しかける。
「ったく、もうガキじゃねぇんだからさぁ………ん?母ちゃん、この子って………。」
「…… あらっ。これは大変だわ。」
ニュースで誘拐されたと報道されていた少年は、母、恵の友人の息子だったのだ。
英樹自身も何度か会ったこともあり、遊んであげたこともある。言わば他人ではない間柄であった。
「心配ねぇ………、ってヒデちゃん。あなた学校の時間じゃないの??」
「やっべぇ!、もががふぁがっ!、じゃふぁいってきふぁす!」
残っていた朝食を口いっぱいに放り込み、駆け足で家を出ていった。
「………恵、穂高くんの親御さんからは何か連絡とか来てたのか?」
英樹の父、悟が納豆をかき混ぜながら、神妙な面持ちで恵に聞く。
「それが………全く、というか、昨日から一切連絡が取れないのよ………何があったのかしら……。」
「…………関わらぬが吉、かもな。もぐもぐ」
程よくかき混ぜた納豆と白米を食べながら、少し俯いた。
「……出来る事は、祈ることくらいかしら………はぁ心配。……… あとあなた、ご飯食べる時はいちいち言葉でもぐもぐ言わなくていいのよ。というか止めなさい。」
「…… うむ。……もg
「止めなさい。」
悟の背中は哀愁が漂っていた。
しかしここから一日は長いぞ!頑張れ大黒柱!
_____同日昼頃、関内高等学校
「英樹ぃ、今日は遅刻してたじゃねぇか!なんかあったのか??」
「いや、なんでもねぇよ。寝ぼけてたらいつの間にか、って感じだな。」
「ん?、なんか、.......どうした?元気ねぇな。」
英樹は賢治の鋭い観察眼に呆気に取られる。朝のニュースのことで頭でいっぱいになっていた英樹は、行方不明の少年、穂高くんのことが気になってしょうがなく、朝の授業から、昼食の時間まで心ここにあらず、といった状態だった。
「なんか今日は拓哉も零もいねぇんだ。男同士サシで、悩み事でも何でもぶちまけろよ!」
「………お前って奴は今最高にイケメンだぜBRO!」
「とはいってもよ!まず俺の話、聞いてくれるか!?」
「この流れだったら俺が先じゃねぇのかよ!!??」
「まぁ聞いてくれって、気になるだろこの前の”踏切の話”。」
そうここには今俺と賢治の2人しかいないが、拓哉と零、合わせて4人。
この4人でつい最近、奇妙な出来事に遭遇した。
都市伝説として知られていた、ターボババアとの邂逅、さらには、あるはずのないダムそして踏切。
そこから感じた、この世のものとは一風変わった雰囲気。
《何もかもが異質な空間》
開かずの踏切を賢治が乗り越えたことがトリガーなのか、もしくは、ターボババアが蹴り壊したという祠がトリガーなのかは分からない。
踏切が開いた。
その瞬間を俺と零は見ていたんだ。
開いた瞬間に体全体を通り抜けた、どす黒い、負の流れ。悍ましいものが解き放たれてしまったのだと、実感するには容易い感触であった。
そのあとは、特に何もなく帰路へとついた。本当になにもなく。
そこからは、今日の今日まで、平凡に過ごしてきていた。
で、朝のニュースで一気に引き戻された感覚に陥った。
あの踏切の前に立たされているようだった。
「.........い、おい、聞いてんのか?!!」
「...っあ、すまん!踏切の話だっけか?.....!」
「ほんと今日大丈夫か、お前?」
賢治はおもむろに、自身の顎を摩りながら語りだす。
「気を取り直して、と………まじで、聞いて驚くなよ。実は........」
どうやら賢治はターボババアの一件があった後、どうしても踏切とダムのことが気になって、一人で”その場所”へ赴いたらしい。
しかし、賢治は踏切とダムの存在を再確認するには至らなかったらしいのだ。
道は間違えていないとのこと。
「なんだよそれ、まるで俺らの行った場所がなかったとでもいうのかよ。」
「まぁそーゆう反応にはなるわな。でもな、よく思い出してみろよ。そもそも昔っからあの場所には”踏切もダムもなかっただろ”?、あの日だけだよ、不自然なはずなのに、”自然だと認識してたのは”。もともとその場所にあったかのように認識していたのはよ。」
「言われてみれば、.....そうだな、......あの日以降だよ。当たり前に”あの場所に踏切とダムがあるって”認識したのは。..........なんか怖いな......頭の中が弄られているみてぇで。」
「で、だよ。あの日以降に再熱した都市伝説の情報を、私賢治!仕入れちゃいました!!」
「...........ほぅ?」
「その名も、口裂け女伝説です!」
「あの、ガキに自分の容姿の良し悪しを聞いてどっち答えても殺されるっていう、すげー理不尽な不審者の事だろ?」
「お前結構辛辣だな。」
「って、ちょっと待てよ。」
「ん?どうしたんだ?」
少年を狙う都市伝説、.........踏切が開いたあの日から出没した可能性大........、うちの地元で起きてる連続誘拐事件........。
点と点が結びついた瞬間だった。
「..............おい、その噂ガチかもしれねぇ。」
「反論されると思って裏取ってきたのに、なんか調子狂うな。」
「いや、それもいちよう聞かせてくれよ。」
賢治が取っていた裏、つまりこの口裂け女の都市伝説が存在するという証拠として、連日報道されている連続誘拐事件について喋りだした。
ここまでは英樹も知っていたことだったために、「おいおい賢治さんよ、そのくらいの情報ワシでも掴んじゃってますから」と横やりを入れたくなったが、その後の賢治の発言が、英樹の顔から余裕を消すことになる。
「それでよ、昨日の夜、見ちゃったわけよ!赤黒いシミでびちゃびちゃになった袋を担いだ女をよ!
で、こっからは笑い抜きなんだけどよ........多分俺顔見られたわ。」
「.........はぁ??」
「ただの変な奴に見られたからって俺はビビるような性格じゃねぇのは英樹も知ってんだろ?でも違うんだよ、俺の予想なんだけど、あの袋の中に入ってたのってさ.......」
「.........みなまで言うなよ.....わかってる………、あとさ、俺が相談したかったのはさ......」
英樹は朝のニュースの件と、昨日誘拐された少年が顔見知りであることを賢治に告げた。
賢治の目撃情報が正しいのであれば、、、これはあくまでも予想の段階にはなるのだが、袋の中に入っていたのは、.........穂高くんである可能性が高いだろう。
「おい、まじかよそれ..........なんか悪いな、それで悩んでたのか....。」
「それよりだよ、..........賢治お前顔見られてんだろ!?、お前こそ今一番やばいんじゃないのかよ!?」
「................え?」
2人はいつも通り別館の人気のない階段の踊り場で会話していた。
周りには人っ子一人おらず、2人の会話以外の音は全く聞こえないような状況だ。
踊り場の窓から、太陽の光が指し、逆光を受けた英樹の影が階段に広がる。
それ影の異変に気付いたのは、並んで隣に座っていた賢治だった。
異様に英樹の影が大きい。
いや違う、影が、広がっていっているのだ。
やがて踊り場は薄暗く、ほぼ暗闇に包まれた。
これには流石の鈍いと言われる英樹も異変を感じ取る。
二人は、とっさに窓を確認した。
窓は真っ黒い”何か”で覆われ、太陽の光が遮られていた。
その黒い”何か”の正体はすぐに判明した。
目を凝らして見てみると、白い粒々が点在していることに賢治は気づいた。
「.........あれ、シラミか?」
「あ?シラミって髪洗ってないときに付くやつだろ....?は?髪の毛.......?」
ひた、ひた。
2人が状況を読み込めていない中、足音がかすかに聞こえだす。
賢治と英樹がいる場所は1階と2階を結ぶ階段の踊り場であり、そこからは1階の廊下と下駄箱がみえる。
その右側の廊下から、微かな光にあてられ、影が伸びてきた。
片手に大きな刃物を持ち、もう片手に袋を引きづっているようだった。
「………賢治ぃ、お前ちゃんとつけられてみたいだな....。」
「まじかっ……、と、取り敢えずあの女に遭遇しないように、こっそり逃げよう………」
賢治は隣にいる英樹のほうを向いて話しかけた。
「..........賢治、それ俺じゃねぇぞ。」