09 あんた、逃げたんやな
「でもね、これの価値がわかるのはかな子さんだけだよ。この人の想いを受け止められるのも。何年……何十年もこの手紙はかな子さんを待ってたんだろうね」
待ってた、とかな子さんが呟いた。怪訝そうに。
「うん。きっとかな子さんが、許してくれるのを」
「そんな、許すだなんて、私が」
かな子さんにしてみたら予想外だったのか、驚愕を隠し切れずにいる。
山崎は手元の手紙を眺めながら、
「かな子さんが好きな人ってさ、身体が丈夫じゃないみたいだったって巧に聞いたんだけど」
「ああ、なんやひょろっとした感じやった。兵隊なろうて志願するタイプちゃうで。実際、身体丈夫ちゃうて心配されとったしな」
『そんなの、関係あるのですか?』
巧の内側で、かな子さんが疑っている。
「関係あるんちゃう? ああ、山崎、かな子さんが関係あんのかってさ」
「あるよね。かな子さん、『若様』って大事にされてたんじゃない? 丈夫じゃないっていうのはいつから? もしかして生まれつき? でも兵隊に志願するぐらいなら、そのころには治ってたのかな」
それは、とかな子さんが口ごもる。
「これは想像でしかないけど。『若様』が小さいころから身体が弱かったなら――重かったんじゃないかな」
「重い?」
「うん。後ろめたさや負い目……とか」
かな子さんは沈黙している。記憶を探っているのだろうか。思い出せるだろうか。
巧は想像するしかない。大事な家の跡継ぎだったなら、病を治療するために過剰な看護を受けてきたのではないか。ましてあのおっかない母親だ。何をするにしても干渉を受けたのではないか。外で遊ぶことから、付き合う友人、話し相手、学業、居場所……そして許婚、自分の将来。きっと、自分の意志を通せない。
「自分が何かする前に周囲が勝手に動いてくれることってさ、ある意味信頼がないってことと一緒なんだよね。何もできないんだから言う通りに動きなさい――ってレール敷かれてるのとさ。そういうのって息苦しいんだよ。自分を思ってくれてのことでも、お前は普通と違うんだってレッテル押し付けられてんだから」
同じことを山崎は想像していたようだ。重たいのは過剰な愛情。
それは、かな子さんが陥った不幸とは別の不幸だ。柔らかな棘に包まれた檻と同じ。ただ生かされているだけの苦痛だ。
「身体が丈夫じゃないってだけで人は距離を置くよね。遠慮って形だけど避けられることに変わりはない。『若様』にはさらに身分ってものもあったんだ。……それで誰かを好きになるって、すごく勇気がいったんじゃないかな」
身分違いの恋であり、想いを伝えることの意味がわからないはずはない。まず身内が反対する。『若様』はここまで育ててくれた負い目もある。かな子さんが苦しんだように、彼もまた苦しんでいたのではないか。
一番最初、かな子さんの過去に触れたとき出てきた男を、巧は思い返していた。彼はかな子さんが現れたことを心から喜んでいた。ホッと安堵していた気さえする。口調も丁寧で、何やら思いつめた雰囲気をしていた。もしかしたら、自分は否定されると予測していたのだろう。
それは、かな子さんの都合とは別の意味で。
「実感こもっとるやん」
「小さいころ喘息持ちだったからねぇ、覚えがあるわけ。いろいろと」
好き勝手推測している俺たちの話を聞いていたのだろう。かな子さんがそろりと動く。巧はすっと内側へ潜った。
「それで、陽ちゃんの言う、私に許して欲しいって言うのは……」
「推測だよ。俺たちが話してたこと、概ね当たってたって思っていいの」
どくん、と心臓がはねた。どくん、どくん、と主張する。かな子さんが緊張している。自分の持つ箱を見下ろして唇を噛み締めた。ややあって、
「確かに、あの方はお一人でいらっしゃることが、多かったです。奥の離れでひっそりと暮らしておいででしたから。私たちは近づかないよう命じられていました。お食事も、奥方様自らお運びになられてたほどです」
津路崎の屋敷の裏手は竹林がある。そこから山すそへと竹林は広がっていた。あの中のどこかに離れがあったのかもしれない。
「かな子さんはどうやって知り合ったの」
「洗濯物が……飛ばされて迷い込んでしまったのです。十の歳でした。そこにどなたがいらっしゃるかも知らずに」
ふと、イメージが浮かんだ。竹林の細い小道の先にひっそりと佇む小さな家屋と、低い垣根。色白で痩せぎすの少年が、洗濯物を拾ったところ。竹林の隙間に落ちてくる光。ありがとう、と話しかけたかな子さんと、戸惑いを隠せない少年。
ひと時を過ごした後、少年が誰なのかを知ったかな子さんは、もう行ってはいけないと警告を受ける。寂しそうな一人ぼっちの少年に、そのころから惹かれていたのかも――
ああ、かな子さんとの境界線がどんどん溶けていく。こんなイメージがすぐに浮かぶ事態は、おかしいのだ。鮮明なのに、細部が潰れていたイメージ。朧な背景と、少年の顔。彼女の記憶を覗いていたときと同じ感覚だ。懐かしさと愛しさと優しさの詰まった、大切な記憶。私の、宝物。
「好きになってごめんなさい。迷惑をかけて、ごめんなさい」
ハッとしてかな子さんは山崎を見た。
「誰かが自分を好きになるだなんて、思えなかったのかもしれないね……」
「そんな! 私たちは誰もが若様をお慕いしておりました。お優しい若様が、当主になられることを望んでおりました」
きつい奥方に仕切られた津路崎だが、若様が表へ出られるようになって雰囲気が和らいだ。あまり微笑まない若君は、物静かだが奥方と使用人の間を取り持ってくれる。控えめに、遠慮がちにそっと助け舟を出してくれる。無表情だが、優しい人だと誰もが知っていた。彼を嫌う者はいない。
彼の存在が津路崎の誇りだった。奥方様や滅多に戻らないお館様にとっても自慢だった。彼が風邪を引くと、屋敷中がひっくり返ったような騒ぎになったものだ。
だから山崎の考えはおかしい。なぜ若様がそんな風に思う必要がある。
「でもそれ伝わってたのかな」
ぎくりとした。いつだったか、あの方と二人きりになったことがあった。
あなたと何年か前に会っていないだろうか。手ぬぐいを飛ばしたと離れへ来たことが。そう話しかけられて、面を伏せながら「いいえ」と答えた記憶。そうだね、俺の記憶違いかもしれないね……。滅多に表情を変えない彼が、そのとき寂しそうに微笑んでいた。
「気安く近づけなかったなら、彼にとって『若様』と呼ばれることも苦痛だったんじゃないのかなぁ……」
そんな、とかな子さんが呟く。
「待てや、山崎。っつーことはかな子さんの気持ち、気づいとらんかった言うんか」
「だってかな子さん、拒絶してるんだよ」
「確かに人付き合い苦手そうなタイプやけど……。じゃあ兵役志願したんは」
「家から離れたかった。自分の意思を貫きたかった。時間を置きたかった。何より、情けない自分を何とかしたかったんじゃないのかな」
うな垂れたかな子さんの感情が、高ぶっていく。手がカタカタと震え、箱を落としてしまった。がしゃん、と音がする。山崎がすぐさま拾い上げ、先ほどの手紙を添えて差し出してくる。
しかし受け取れなかった。一歩一歩と後退する。宝物だ、と言った箱から遠ざかっていく。まるで、恐ろしいものでも見るように、じっと見つめながら。
巧は静かに瞼を下ろした。ああ、と呟いて。
「かな子さん。あんた、逃げたんやな」
どくん、と心臓がはねた。
『……がいます』
「『若様』に、津路崎、周囲の人……何より自分自身から」
『ちがいます』
巧、と山崎が怪訝そうになっている。だが、巧は止めなかった。繋がってしまったからだ。あの箱はかな子さんの宝物であり――開けてはならないパンドラの箱だったのだ。
どくん、どくん、どくん、と心臓が跳ね回る。いやな汗が再び吹き出てきた。それでも巧は唇を弧の形に描いた。
「認めとったら、どうなったかわかっとったんや。だから見てみぬ振りしたんや。自分自身も欺いて。でも『若様』は消えてもうたし、周囲にもバレとった。――憎んだ言うたな。自分を殺すことで復讐したて。……ちゃうやろ。かな子さんは見たなかったんや。戻ってきた若様がどんな顔すんのか。あんたは全部承知しとったから」
『ちがう!』
「そうやろ! だからごめんなさいて謝っとったんや。山崎、さっき言うたこともかな子さんは感付いとったんや。わかってて目ぇそらし続けた。
自殺して自分を通した? 嘘言うなや。あんたは全部投げただけやろが!」
『ちがう、ちがう、ちがう! 私は、逃げたんじゃない! だってどうしろって言うんですか。使用人の私が、あの方の思いを受け入れろと? 結ばれて良かったと? どうしようもなかったじゃないですか! 罰だと言うならもう受けたはずです。これ以上ない罰を!』
かな子さんの叫びが内側に強く響いた。嵐のように反響し、頭痛を呼び覚ます。くらりと視界が傾き、強い耳鳴りがした。関節が痛んで立っていられない。体調の悪化が戻ってきたのだ。
しかし、巧は歯を食いしばってそれに耐えた。今、これに屈してはいけない。
「なら……なんで成仏しとらんねん。なんで忘れとってん」
復讐や資格がないと言いつくろっていたかな子さんが、ぼろぼろと剥がれていく。残されたのは、怯えて小さくなったただの女の子だけだ。がたがたと縮こまって耳にふたをして。
「あんたは向き合いたいんや。だから、死んだら関係ない手紙を埋めたんや。いつかちゃんと、開けられるように」
ごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら、人目を忍んでそっと埋めた。目印まで付けた。もしかしたら、本当に死ぬつもりはなかったのかもしれない。『自殺をした』という事実が欲しかったのかもしれない。自分には仕方がなかった――そんな言訳を用意し、周囲へは「あの子はそこまで嫌がってたんだ」と理解してもらうために。
その目論見がかなったのか巧にはわからない。だが、逃げた自分を認められず何十年も苦しみ続けていたのは確かだ。かな子さんは山崎と会うまでずっと泣いていた。後悔し続けて傷ついていたのだ。
「笑い、ますか……、私を。馬鹿なやつだって」
「なんで笑うねん。あんたの誤算はなぁ、あんたの想いに男が気づいとらんかったことと、あんたが望んだ平穏は、あいつにとって牢獄やった言うことや。あんたらはもっと……」
もっと、話し合えていたら良かったのに。
もっと、心を通わせられていたら。
そう言葉にならなかった。かな子さんの核心をついてしまったとわかった。彼女はくず折れて、箱を抱き寄せた。封を開けることなく、大切に大切に想いを仕舞い込んだ。土の中に埋めて蓋をした。その箱を抱きしめて、声を上げて泣いた。
ああ、かな子さんは、ずっとこうしたかったんや。
感情を吐露してしまいたかった。抑圧されて生き続けてきた彼女の精一杯の反抗は、自分を殺すことだった。しかし、大きな声で言いたかったのだ。
好きだと。
相手を真っ直ぐ見て、あなたが好きだと。
それがかな子さんの後悔。未練。心残り――