06 引きずられんな
「いってぇな! 何だよ、いきなり」
パンを落としかけた山崎が、背中を押さえて巧を睨む。巧は取り合わず、とっとと自転車にまたがった。
「行くで山崎、学校や。何で忘れてたんやろ。最初に俺、かな子さんに聞いたやん、なんで学校おるんかって」
ええぇ、と山崎がうんざりしたようすで言った。まだパン食ってない。まだ座っていたい。夜の学校行きたくない。そんな主張がミックスしたうんざり、だ。
「学校なんて、かな子さんは何十年もいたじゃん。今更何があったか調べたって意味なくねぇ?」
「じゃあなんでかな子さんは、女子トイレにこだわったんや。なんで――そうや、なんで、『時間がない』なんて言うたん」
「はぁ? 学校が壊されるからに決まってるだろ。女子トイレなくなっちゃうじゃん」
「だからお前、トイレとかな子さん無関係やってええ加減気づき」
巧は盛大にため息をあふれさせた。
肝試し以外に夜の学校ってどうなん……。
締め切った裏門の外から校舎を見上げて、巧はうなった。昼間はあんなにも人が多くて光がいっぱいにあふれているくせに、どうしてこんなにゾッとするのだろう。窓と窓は陰になれば真っ黒でなにも映さない。薄茶の校舎は、しみの部分をいっそう際立たせて少年二人を威嚇した。
暗がりの中で、街頭の明かりが白々と彼らを浮かび上がらせる。
夜の幽霊屋敷の次は、夜の学校。ホラーツアー状態だ。しかも今度は玄関口で回れ右なんてしない。忍び込まねばならない。
「うは、不気味~」
そんな能天気な声を発しているのは山崎だ。巧は音を立てて裏門をよじ登った。おっかなびっくりしつつ、闇色に染まる校内を先頭を切って走った。
こんなことする予定、違うかったのに。
なんて後悔も何度目か。いつの間にか、かな子さんを他人事だと片付けられなくなっていた。
あんな過去を見せられたら放っとけへんやろ。そう胸中で繰り返しながら、彼女に肩入れしている事実を苦く思う。自分を脅した幽霊なのに。
「学校壊されると、何で困るんやっちゅう話の続きやけど。校舎自体になんかあるて思わんねんな。だってかな子さん、ここの生徒ちゃうやろ?」
もしかしたら、かな子さんは校舎が建てられる以前から、ここに縛られていたのかもしれないのだから。
「かな子さん、着物姿だもんねぇ」
巧が驚いて山崎を振り返る。
「お前、かな子さん、見えとるんか!」
「はぁ? 最初に言ったろ。今頃ー?」
山崎の呆れた眼差しが突き刺さる。だって俺は見えへんのや、と巧がぶつくさ呟くと、「ああ、そっか」と奴は納得した。にやりとして「知りたい? 知りたい?」と意地の悪い質問をしてくる。別に! と返す巧へ、にやにやと笑うのだ。
「またまたぁ、我慢しなくっていいのにぃ。かな子さんはね、小さくて可愛い感じの人だよ。大人しそうで」
巧はかな子さんの過去を知ることはできるが、彼女自身の顔を見たことがない。当然だ。自分の姿を知るには鏡等がなければならない。声や、視界から判別できる格好ならわかるが……。
「夏物かな、一重の着物を着てるんだ。茶系の地味な着物。腰にエプロンしてんの。地味な着物だったけど、フリルついたエプロンが可愛かった。かな子さんって髪長いんだ。背中辺りまである真っ黒な髪で、普段はまとめてる。真っ直ぐなんだよ」
そこまで話して、山崎は不意に口を噤んだ。追ってくる気配が消えて巧が振り返ると、山崎は顔を伏せていた。前髪で表情が読み取れない。
「あのさ……巧が言うような怪我はしてなかったんだよ。殴られたあざもなかった。だから俺は……、何も訊かずに、能天気にいられたんだ」
そうか、と巧が呟いた。
かな子さん自身が長い時間のなかで忘れていたのだ。山崎が感づけないのも仕方ない。巧自身、過去を知った現在であっても信じられずにいる。
二人がやってきたのは旧校舎の裏手である。木々のざわめきに恐怖しないよう、巧は己を叱咤した。ここは昼間来たばかりだ。何を恐れる必要がある。
「巧ぃ、何やってんだよ、こっちじゃないのか」
女子トイレの戸を開こうとしていた山崎が、怪訝そうにしている。巧は眉根を寄せながら、じっと校舎裏を凝視していたのだ。
「夕方ここ出るとき、妙にこの辺り気になったんや。あん時はあんま気にせんかったけど……ここ振り返ったんは、かな子さんちゃうかったんかなーって」
「雨止んでよかったなーって外見てたんじゃなかったんだ?」
「否定せぇへん。でもやっぱ気になるわ、ここ」
ざわりざわりと湿気を帯びた風に梢は揺れた。水の流れる音が聞こえる。胸騒ぎがした。ここに何かがあると告げている。だが、何がある。ここでどうすればいい。
旧校舎の裏は、街灯の明かりも届かない。暗がりばかりが漂っている。
だが校舎にライトをつけると、遠目でも一発で侵入がバレてしまう。見つけて下さいと言わんばかりだ。しかし月明かり、星明りで何かを探索するには無理がある。巧が騒ぎになるのを覚悟したときだ。
パッと細い光が視界の片隅で瞬いた。ペンライトだ。おおお、と目を丸くすると、山崎が「露店で買った」と歯を見せた。
光を調節すると木々に光のスポットが出現した。こういう細かなところに気がつくのが、山崎だ。
「でも、俺らだけじゃここで何を探すのかわかんねぇよ。まだかな子さん、出てこれねぇの」
「さっきが凶悪過ぎたからなぁ……」
先ほどのアレは、かな子さんが忘れたかった過去に違いない。
数度巧が呼びかけても無反応だった。声が届いている確信はあったので、かな子さん、と根気良く呼びかける。
「かな子さん、津路崎からはもう離れた。学校戻ってきたんや。ほら、あそこがずっとかな子さんのおった女子トイレ。なぁ、あんたが来たかった本当の場所は、ここちゃうんか。かな子さん、なぁ、返事してくれへん? 俺らここで何したらええんや。わからへんねんって」
どうだ、と山崎が目で問いかけてくる。巧が軽く頭を左右に振りかけたときだ。巧ちゃん、と小さな応えがあった。
『巧ちゃん、もういいです。もう、そんなことしなくてもいい……です』
暗い声だった。元気いっぱいでにこにこ笑う、ハイテンションなあの声ではない。覇気のない低いそれは、覗いた過去で見た通りの、傷ついた者の声だった。
かな子さん? と呟いた巧のようすから不安を嗅ぎ取ったのだろう。山崎が怪訝そうにした。
おい、今度はどうしたんだよ、と言う山崎を視野に入れながら、巧はかな子さんの声に耳をすませた。
『いろいろと、思い出せました。巧ちゃんたちが私を連れ出してくれたから……』
虚ろに巧の内側を叩くかな子さんの存在が、酷く弱々しい。その軽さに巧は歯を食いしばる。こんなにこの人は、小さかっただろうか。これほど脆かっただろうか。
そしてかな子さんは吐き出した。
重たい言葉を。
『巧ちゃん……。私は……自殺したんです。ここで』
木の幹に巧が拳をぶつけた。それだけでは気がおさまらず、さらに殴りつけ、蹴りつけた。木がみしみしと悲鳴を上げる。深く根を広げた木は、折れることなく暴挙を受け止めた。わさわさと揺れて抗議のように木の葉を舞い散らせた。
「ちょ、巧どうしたんだよ。かな子さん何言ったんだ、なぁ、何暴れてんだよ」
「るさい黙れや!」
止めに入ってきた山崎を、巧は腕を振り払うことで殴った。ひじが山崎の横面にヒットしたのだ。巧より小柄な山崎の身体が転がる。それが、かな子さんの過去と重なった。
あ、と巧は自分の仕出かしたことに凍りつく。自分が軽蔑したものと同じ存在になり下がった気がした。しかし巧が完全フリーズする前に、奴はぴょこんと飛び起きた。「ぃいってぇ!」と声をあげながら。
「やまざき……?」
巧が思わず呟くと、ぎっと眼を吊り上げて詰め寄ってくる。巧は勢いよく襟元を掴まれた。
「いてぇじゃねぇかよ! いきなり何してくれてんだ! あ? 言っとくけど、俺はお前みたくかな子さんに憑かれてねぇんだよ。説明なきゃわかんねぇんだよ。一人で切れんな、暴れんな!」
眼前まで顔を寄せてすごまれ、「わ……悪い」と巧の口から謝罪がぽろりと落ちた。山崎の反応は、普段は機嫌のよいネコがしゃー! と毛を逆立てたようだった。ごろごろと喉を鳴らして女子から可愛がられているイメージが強かったので、この反撃には巧も驚きだ。
よし、と鼻息荒く山崎がうなずく。そして殴られた頬を押さえた。
「だぁもう、いってぇ……。思いっきり当たったな、くそ。肘かよ、肘。あーあ、これ痣になるかな。明日目ぇ覚めたら腫れてたりしてな」
言葉に含まれた棘が、巧に突き刺さる。悪気はなかった分、棘は切れ味鋭く良心にドスドスと。
「で、何言われたか言ってみろよ、あ?」
山崎が獰猛な笑みを見せる。顔を殴っただけの理由があるんだろうな、こら。言葉には変換されていない怒りのオーラが立ち上っている。
一気に柄悪くなってへんか? たじろぎつつ巧は観念する。脳裏にかな子さんの姿を描きながら、ぐしゃぐしゃと前髪をかき混ぜて、吐くように言った。言葉が刃になって、二人を傷つけやしないかと恐れるように。
「かな子さん、自殺……自殺したんやって……。裏の川に飛び込んで……」
学校裏の八多観川は、流れの激しい川だ。さほど幅はないが、ところどころ急に水深三メートルを越える深さになる。特に学校近くでは鋭いカーブを描いていて、底が深くえぐれていた。巧たちのいる場所から数メートル先のフェンスを越えると崖になっていて、そこにかな子さんは身投げしたのだ。浮き上がらないように足に錘をつけて。
強制的な結婚が嫌で。
死を選ぶことでしか、自分の我を貫けないと悟って。
ひとりぼっちで川の底に沈んでいったのだ。
「それで? どうしたんだよ」
山崎が仏頂面で先を促す。巧は数度瞬いた。
「それでって……それだけやけど」
はぁぁぁ、と山崎はこれでもか、と重いため息をついた。先ほどの巧に対するあてつけか。半眼になって人差し指を突きつける。
「あのさぁ、かな子さんって地縛霊なんだろ。真っ当な死に方してるはずないじゃん。言ったろ、最初に。十八歳の可憐な乙女だってさあ? 未練抱えたって仕方ないだろが。そんなことは大前提なんだよ」
「でも、かな子さんは忘れてたんや」
忘れていたから、出会った当初は無邪気に笑っていたのだ。かな子さんは、忘れたかったのではないのか。過去の闇全て、沈めてしまいたかったのではないか。それをわざわざ掻き毟って、無用に苦しめただけではないのか――
「巧、引きずられんな」
鋭い警告が飛んでくる。
「お前はかな子さんじゃない。不安定になんなよ。何か食って落ち着け」
飛んできた菓子パンの片割れを受け取り、巧は情けない面持ちになる。オーソドックスなクリームパンでも甘いものは苦手だ。天敵のように見据えていたが、山崎の「食え」という威圧感に耐えられずかぶりつく。吐きそうになったが、無理やり嚥下した。持ってきたペットボトルのお茶で流し込む。
「そうだ巧、かな子さんに代わってくれね? かな子さん、話しようよ」
もぐもぐクリームパンを美味そうに頬張る山崎は、にこりといつも通りの笑みを浮かべていた。その変わり身の早さに戦きつつ、巧は顔をしかめ、提案に否を出した。
「嫌や言うてんで。つーか、聞こえとるみたいや。俺通って」
「俺は巧じゃなくて、かな子さんとしゃべりたいわけ。なぁかな子さん、ほら出てきてよ」