05 話しとかなあかんことが、ある
『かな子に関わるのはやめときな、きょう子。それは罰なんだよ。若様をたぶらかした、ね』
横合いから飛んだ鋭い忠告は、先ほど桶を持ってきた女だ。
『だとしても、これは……やりすぎです。女の子の肌に、どうしてここまで』
『追い出されないだけマシってもんさ。これ以上首突っ込むのはおやめ。あんたじゃなくて、あんたのお父さんが困ることになるよ。奥方様に知れたらね』
きょう子と呼ばれた女の子は硬直した。逡巡と怯えが伝わってくる。
津路崎とこの女の子の繋がりはわからなかったが、取引先や、大家と店子みたいな関係なのだと推測できた。かな子さんの事情を知らず、憤りを露にできたことから、それぐらいの距離があると踏んだのだ。父親や身内を引き合いに出されては分が悪いだろう。
どうしよう、と問うように、きょう子は振り返った。その表情は、助けられない悔しさを訴えている。
ああ、この人はかな子さんを助けられない。かな子さんを助けられるほどの、立場にいない。
かな子さんの失望が伝わってきた。もしくは諦めか。
『奥方様』の怒りを買うことは、龍の逆鱗に触れることと変わらないのか。
きょうちゃん……。かな子さんが友だち呼んだ。かすれた声だったが、必死の思いで呼んだのだ。微笑を浮かべながら。
『かなちゃん……、ごめんね。私、何もしてあげられないよぅ……』
でも待って。お水だけでも――と、立ち上がった少女を咎める声がする。
『何をしてるの! 用が済んだらとっととお行き。八郎さんが外で探していたよ』
きょう子が肩をはずませた。かな子さんが身をよじる。嘘をお言いでないよ、と泣き崩れた中年の女の声だった。
『でも、たえさん、かなが……お水だけでもあげちゃダメですか?』
中年の女は、丸い身体を揺らしながらこちらへ近づいてくる。きょう子の手を取って裏口へと促す。
『かな子は、罰を受けてるんだよ。あんた、何もしちゃいないね』
『でも、あんなに酷い怪我が――』
『お黙りよ。きょう子……向こうから奥方様がご覧になってる。わかるね? あんたが余計なことをしたら、八郎さんがどれだけ困ることか』
低い囁きはどれほど効果を生んだのか。ああ、とかな子さんが目を伏せた。行ってしまう。叱責される前に、立ち去ることを決めたのだろう。『すみません』ときょう子はきびすを返す。
『……お腹がすいたろう。あとで何か食べられるものを持ってくるからね』
それだけを言い置いて、中年の女も去っていく。視界から消えてしまう。行かないで……。置いていかないで……。涙が、頬を伝って落ちた。
かな子さんに気づいた者たちは、ある者は視線を逸らし、ある者は薄笑いを浮かべ、ある者は気の毒そうにしながらも去っていく。日常という枠から弾かれた者は、これほどのけ者にされきゃいけないのか。
しばらくしてかな子さんは、また納屋へ連れ戻された。門番をしていた男がわらを敷いた寝床へ放りこんだのだ。すぐさま扉を閉じる重たい音がする。いや、やめて。お願い。喉を絞って懇願した。お願いだから……。
身体に力が入らないのだ。懇願した声もか細いもので、扉を閉める音にかき消された。がしゃん、と錠を下ろす音が無情に響いた。
そしてまた、世界は暗転する。
ひそひそと紡がれる声が、闇の中で響いた。
身分違いも甚だしい。あの子は金が目的だったらしいよ。卑しい女。あんな恩知らず、見たこともない。身体を使って誘惑したらしい。女を使うのはあの娘の手段だ、はしたない。なんて常識知らずなのか。あんな娘とは関わらないほうが身のためだ――
方々から聞こえるそれらの声は、かな子さんを苛む。
女の声で、男の声で、さまざまな色を変えて。
もうええ。もうええ、見たない!
巧はついに音を上げた。彼女は虐げられてきたのだ。大切な人との思い出には、こんな苦しいものもセットになっていた。信じられない。あれほどおっとり話すかな子さんに、こんな過去があったとは。あれほど世界を愛している彼女が、ここまで傷つけられなきゃいけなかったとは。
そして、闇が再び切り裂かれた。
虚ろなかな子さんは腕を引かれ、無理やり表へ引っ張り出されていた。庭を抜け、本邸へと通される。その広い玄関口で正座をさせられた。
袖口からやせ細った腕が見え、巧は苦い思いでいっぱいになる。唇が、肌が、がさりと荒れていた。リンチを受けた傷は治っていたが、精神的な傷は癒えていない。
これほどぼろぼろの彼女が、かな子さんだと巧は思いたくなかった。巧ちゃん、と呼びかけてくれる彼女だとは。
そこへ、玄関を飾る屏風の向こうから女が現れた。従者を引き連れて現れたその女の横柄な態度から、例の『奥方様』であると巧は直感する。かな子さんの記憶から顔の造作が薄れようと、これは言い切れた。
女主人はこちらを見下げ、ふ、と鼻で笑った。そしてかな子さんは言い渡されたのだ。裁きを下される罪人のごとく。
『お前に婚姻話があるんだよ』
決して大きな声ではなかった。むしろ囁きに近い。
かな子さんが、驚愕をあらわに顔を上げた。そこに映る女性の顔は不明だったが、にぃっと笑ったのだけわかった。かな子さんの反応を嘲った気配がそこかしこでした。
――そうやったんか。
巧は歯噛みした。
そうやったんか。このために甚振ったかな子さんを、蔵へ閉じ込めたんか。
手当てしたんも、このためか。逃げられたらかなわんてことか。どこまでかな子さんを貶めたら気ぃ済むんや! 息子の周りに姿も見せるなてことか。知ってる奴のとこ嫁がせて、飼い殺しにしたろ言うわけか。
かな子さんから、血の気が引いていく。かちかちかち、と歯が鳴った。
『奥方様』が何かを言っているが、耳に入らない。
これほどの『罰』はない。
なんて、むごい。
『わた……私、は……結婚、なんて……』
一緒になれなくとも、あの人の姿をそっと見守られたらよかったのに。
穏やかに日々を暮らすあの人がいるだけで、よかったのに。
それさえ許されない。
『あんたには勿体ないほどの良縁だ。この話、受けるね?』
『私は、結婚なんて……』
ぱしん、と頬を打たれた。
『否やは聞かないよ。どれだけ私の顔に泥を塗るつもり』
……み、……うぶか、……くみ、……こさん。たくみ、はなこさん……
がくがくと肩を揺さぶられている。耳元で騒ぐ声がする。
今度は何や。今度はどんな仕打ちが待ち受けてる言うんや。
「おい、しっかりしろよ。巧? 花子さん? おい、まさか気ぃ失ってる? どうしたらいいのこれ」
山崎?
その名前が浮かんだ途端、巧の意識はクリアになった。ぱっちり瞼を押し上げると、山崎の顔が間近に飛び込んでくる。ぎゃ、と巧が仰け反ると、山崎は安堵の息をこぼした。
「ああよかったぁ、目ぇ覚ましたぁ」
くしゃりと顔を歪ませて笑うものだから、巧のほうが面食らう。
そうだ。津路崎の屋敷まで山崎と来たのだ。巧の右手には、妙な存在感を放つあの門がある。
「お前、いきなり叫んで倒れたんだよ。大丈夫か」
ああ、そうだった、と頭痛をこらえて巧は思い出す。この家をかな子さんに見せた途端、嵐みたいな感情の奔流に巻き込まれたのだ。その後は過去をツアー状態で無理やり引っ張りまわされた。
――お前は、どれだけ私の顔に泥を塗るつもり。
怨念のような囁きを思い出して、ぶるりと巧は身震いする。心配そうにしている山崎へ真っ青な顔を向けた。
「お前に、話しとかなあかんことが、ある」
今にも卒倒しそうな巧が、自転車を支えに歩き出した。にじみ出た汗が、ぐっしょりと身体を濡らす。
かな子さんの、水をかけられた記憶が脳裏に浮かんだ。ひどい徒労感だった。立っているだけで辛い。それでもあの時のかな子さんよりマシだと、自転車を押しながら思う。リンチを受けたわけではないし、全身も怪我だらけではない。それに――
「わかったけど、どこ行くんだよ」
山崎がいる。
どこでもよかった。早く、この津路崎から立ち去りたかった。
粘つく闇が追いかけてくるようで、胸を塞ぐ。
角を曲がり、津路崎が見えなくなってやっと巧は人心地ついた。振り返ろうとは思わない。再びあの過去に絡め取られそうな気がした。
腹減ってねぇ? という山崎の提案で、コンビニに立ち寄った。明るく人の出入りが多いコンビニを見ると、帰ってきたのだと強く実感する。先ほどまであった息苦しさがすうっと消えた。バイクや車の排気ガスさえ恋しくなってくる。
そしてインスタント焼きそば、から揚げ、おにぎり、ジュースを、あっという間に平らげた。予想以上に飢えていた自分に驚く。だがそれだけではなかった。腹が膨れれば、先ほどまで巧を襲っていた徒労や頭痛が和らいだのだ。
心なしか、エネルギーを充填したお陰で身体も軽い。コンビニをバックにして座っているだけで、体力が回復していくのがわかる。
山崎はやっぱり、としたり顔だ。
「花子さんの傍にいると、それだけで腹が減ったもんなぁ。何か口に入れるとだいぶ違うんだよ。――それで、花子さんどうしたって」
巧は頭の中を探ってみた。今となれば、彼女の存在を感覚的に察知できる。
「今は、閉じこもっとる。ちょっと荒療治が過ぎた言うんか……俺もヤバかったしな」
そうして巧は語った。かな子さんの過去や、現時点でわかっていることすべて。
山崎はかな子さんの受けた仕打ちに、たいそう腹を立てた。
なんだよそれ。そんなことする権利あんのか。犯罪だろ!
だが、話が進むにつれ今度は怯えだした。どうしてそこまでできんだよ。信じらんねぇ……。マジでそんな目にあってきたのかよ……。
項垂れた山崎の落ち込みはすさまじい。膝をだいて、顔をうずめて負の空気を撒き散らしている。何と声をかけようか、巧が迷ったときだ。突如山崎はペットボトルをあおいだ。スポーツ飲料をぐいーっと一気飲みし、空になったボトルをゴミ箱に投げ入れる。
「っしゃ、落ち込み完了! まだ足りないからも何か買ってくる!」
肩を怒らせ、アスファルトを叩きつけるようにして歩きながら、コンビニへ入っていく。すぐに山崎はポテトチップスやチョコレート、菓子パンを袋に下げて出てきた。巧の隣へどっかりと座り、真面目な顔で尋ねてきた。
「なぁ、それで未練って何なんだよ。かな子さん、そいつらに恨みがあるの」
切り替えの速さに恐れ入る。巧は苦笑した。ポテトチップスの袋を破き、ばりばりと口へ押し込む山崎は怒っているようだ。巧もポテトチップスのおこぼれに預かりつつ、首を傾けた。
「そこがなぁ、ようわからん」
「わからない?」
「神社での告白は、いじめやら虐待の記憶に繋がるわけやん。だから思い出したないもんにカテゴライズされとってもしゃあない。でもそれやったら……祭り行きたい言わへんやん?」
「かな子さんは、その『若様』? が、好きだったわけでしょ。ならあの神社は、大切な場所に違いないんじゃないの。行きたいって思うでしょ」
「だから、大切な場所と、暗い記憶が関連しとるんやっつーの」
「だーかーらー! その暗い記憶が未練に関係してねーとは言えねーだろ。むしろ未練なんてドロドロしたものって決まってるじゃん」
正論に巧は言葉に詰まった。だが、かな子さんは怨霊ではないはずだ。ずっと、一人で苦しんでいた彼女は、些細なことを喜べるやさしい人だった。そんな暗いことを望んで、天国に逝けずにいるのは悲しい。
頭を探ると、かな子さんが、一人きりでひざを抱えてうずくまっているイメージが浮かぶ。怨念が彼女の内に巣食っていると信じたくない。
すると、隣でポテトチップスを食べきった山崎が面白くなさそうに呟いた。
「大体、かな子さんが『女子トイレの花子さん』してたのも、訳わかんないままだよな」
その通りだ。巧はぽかんと口をあけて、まじまじと山崎を見やった。どうして考え付かなかったのか。袋から何個目かの菓子パンを取り出す山崎の背中を、思い切り叩いた。
「それや!」