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04 うそなものか

暴力表現があります。苦手な方はご注意ください。

「中入れるんか」

「裏へ回ればいいよ、戸板が外れていたはずだし。それかぐるっと行った先で、垣根が途切れてる」


 小学生のころ俺もよく来たんだよなー、と山崎が笑みを浮かべている。

 できれば入りたくないのが、巧の本音だった。巧は沈黙を保ち続けるかな子さんへ呼びかけた。少し警戒しながら、


「かな子さん、かな子さん。ちょっとそっぽ向いとらんで、出てきぃひんか」


 どうかしたの、と山崎が訝っているが、無視だ。


「なぁ、この家見覚えあるんとちゃうか」


 巧の声に誘われるように、ゆっくりと顔が動いた。最初は夜の暗い視界で場所を把握できなかったのかもしれない。しかし、門を見て、その向こう側から覗く屋根を見て、周囲の田んぼを見て。


 かな子さんが徐々にパニックを起こし始めたのを、巧は感じた。足が勝手に後退する。目が徐々に見開かれ、呼吸を忘れる。どくん、と心臓が強く跳ねた。どくん、どくん、どくん、と。


 ――この、恥知らず。恩をあだで返すとはこのことだよ。何もできないお前を拾って育ててやったのに。お前のせいで、お前のせいで!


 突如聞こえた女の声に、かな子さんは飛び上がった。ああああああああ、と頭を抱える。山崎が仰天して固まった。巧の身体を操るかな子さんは、かがみ込んで小さくなった。すみません奥さま、すみません、すみません、すみません、と謝りながら、身体を震わせる。


「なぁ、巧? かな子さん? 大丈夫かおい、ちょっと聞こえてる?」


 膝をついてこちらを窺う山崎の声が、遠のいていく。かな子さんの悲鳴となじる声で、巧の頭の中は溢れかえった。予想以上の荒れようは、まるで嵐だ。ここまでの強い反応を示すとは。


 何とかこらえて顔を上げると、開かれた門が見えた。今は夕方に近いのか、茜色をした屋敷がその奥にある。玄関へと続く整えられた石畳と、剪定を受けた木々は崩れていない。

 過去だ、とわかった。


 かな子さんがきびすを返し裏口へ回る。使用人は表から入ってはいけない。しかし、小さな裏門をくぐったところで横面をはたかれた。見知った顔に、ただいまを言う暇もなかった。手に持っていた包みが転がり落ちた。え、と訝る間もなく、怒鳴り声が叩きつけられる。


『かな子、お前自分が何をやったかわかっているの。お前言っただろう、お断りをしてくるって。私はそれを信用したんだ。それが、それが……!』


 かな子さんに向かって声を震わせるのは、丸みを帯びた体つきの、中年の女だった。かな子さんと同様に色あせた着物を身に着け、腰にエプロンをしていた。ふくよかで優しげな顔を怒りに染めている……のだろう。かな子さんの記憶は、細部が抜け落ちている。


 蔵のようなものが見え、屋敷の裏口だと思われる戸から、土間が見えた。その少し右奥にあるのは、井戸だろうか。


『この、なんてはしたない――私はお前を七つから面倒見てきたけどね、そんな風にしつけた覚えはなかったよ。ああ、奥方様に顔向けできやしない。なんてはしたない子なんだ』


 中年の女は手のひらを振り下ろす。何度も何度も、顔をかばうかな子さんへ手のひらは吸い込まれた。女は、今にも泣きそうな気配をまとっていた。手ひどい裏切りを受けたと訴える口調なのに、全身でどうして、と問いかけて嘆いていた。


『待ってください。ちゃんとお断りをいたしました。若様にはちゃんと……』

『嘘をお言いでないよ』


 ぴしゃりとした怒声が、かな子さんの言を封じる。


『じゃあ、どうしてあの方が出兵なさるんだい。軍へ志願なんてことを言い出すんだい。お身体が丈夫でないことぐらい承知しているだろうに、あの方は戦争へは行かなくてよかったはずなのに』


 うそ。

 かな子さんが凍りついたのを見て、中年の女が泣き崩れた。手で口元を覆って嗚咽をこらえている。彼女も、かな子さんが知らないことを承知していたのだ。しかし、言わずにおれなかった。


『うそ、うそ! どうして急に志願なんて』

『うそなものか』


 うそなものか……、肩を震わせて女は繰り返す。青ざめたかな子さんは固まったきり、動けなくなった。立ち尽くしたまま女の背中を見ていた。生暖かな風がやけに気持ち悪かった。


 ざざざっとノイズが走って視界が曖昧になり、場面が切り替わる。そこは屋敷の裏手だと思われた。


 視界が地面を這っている。呼吸をするたび、砂がわずかに舞い上がった。鼻では上手く息ができなくて、口からだ。視界に広がった黒は、恐らくかな子さんの髪だ。真っ直ぐの癖のない髪だった。そのすぐ傍に赤い色が見えた。あれは、かな子さんの血だろうか。


 鮮烈な太陽の光と深い緑の匂いで、夏なのだとわかった。身体中が酷く痛む。何もしていないのに痛みで意識が朦朧となった。視界が翳る。どうやら周囲にだれかがいる。一人ではなく、三人、四人とかな子さんを囲っている。影人形のように真っ黒な人物は、逆光のせいでそう見えたのか。


 ちゃう。

 かな子さんは、この人らを忘れてしまいたいんや……。


『起きなさい。まだ話しはすんでないの』


 身を起こせずにいるかな子さんの背中を、誰かが蹴りつけた。がは、とかな子さんが衝撃にあえぐ。全身の痛みは、誰かになぶられたせいだと巧は気づいた。


『起きろと言われてるのがわからないのか!』


 命令が降ってきても、どうしようもできなかった。起き上がるための力が腕に込められない。まして背中を足蹴にされては、起き上がりようもない。


『水をかけて』


 冷たく命じるこの声は女だ。津路崎を訪れたとき、最初に脳内で響いた『恥知らず』と罵る声に、似ていた。


 ばしゃり、と本当に水をかけられて巧はぎょっとなった。井戸の水はびりびりと冷たかった。かな子さんが身体を折り曲げてむせた。着物や髪が肌に絡みつく。


 ちょっと待てや、そこまですんのか。強い怒りが沸いた。

 かな子さんが対等の人間として扱われていなかった事実が、信じられなかったのだ。


 ぐったりと倒れたかな子さんのあごを、誰かがつかむ。無理やり顔を上げさせられ、くらりと眩暈がした。視界が定まらないため、至近距離で見たはずの相手の顔さえ定かでない。女の声が聞こえる。命じることに慣れた声が。


『お前が、あの子を(たぶら)かしたんだろう。え? もう一度聞いてあげる。何が目的なの、言ってご覧。津路崎の家か金か。この汚らしい身体を使って、唆したんだろう』


 頬を叩かれた、何度も。女が何かを言うたび、左右の頬に衝撃が走る。


『あの子にはねぇ、あんたなんかとはちがう、ちゃんとした許婚がいるんだよ。学のあるちゃんとしたところのお嬢さんだ。お前が知らなかったとは言わせないよ!』


 ひときわ大きな音と共に、視界が回る。次に肩が硬い地面に叩きつけられた。ああ、殴られたせいで、身体が女の手を放れたのだ。頬を地面にこすり付けたかな子さんの視界は、地面を映した。しかしそれで終わるはずもない。


 次の瞬間、側頭部に痛みが走った。頭を踏みつけられたのだ。口の中に砂利が入ってきた。悲鳴を上げる気力もかな子さんには残されていなかった。されるがままに倒れている。


 見ていられず、やめろ、と喚いたのは巧だった。

 やめろ、やめろ、やめろ! これじゃリンチやろが! お前らなんやねん!


 しかし、巧は傍観者でしかない。

 かな子さんの過去に、記憶に干渉できない。


 再びシーンが切り替わった。今度は、暗い部屋だ。

 ぼんやりと低い天井を見つめたかな子さんは、目だけを動かして、ここが屋敷はずれの蔵であることに気づいた。埃をかぶった大小さまざまな箱がひっそりと存在していた。あれらは皿や茶器をおさめた箱だ。かな子さんも、ここへたびたび出入りしていた。低い天井で区切られた二階部分には、巻物や書物が置いてあったのを、知っている。


 ひんやりした埃っぽい空気が心地よかった。向かいでは、立ち上がっても手が届きそうにない位置に、小さな窓が光を暗がりに浮かび上がらせている。埃がきらきらと輝いていた。今は昼間なのか。それともあれは眩い月明かりなのか。


 背中がちくちくするのは、敷かれたわらのせいだ。ぼうっとしながら手を持ち上げると、手当てされてあった。だれが、してくれたのだろう……。


 力ない疑問に、脳裏をいくつかの顔が通り過ぎる。これも細部は潰れていたが、そのうち一人は、二つ前のシーンでかな子さんの頬を張った中年の女性だ。彼女はかな子さんにとって、母のような人だったのか。


 きしんだ音を立てて戸が開いた。光の中から、誰かが顔を覗かせる。誰何しながら身を起こそうとした彼女の耳に、ぷ、とあざ笑う気配が届いた。かな子さんの身が強張る。


『ほぉら、水だよ。奥方様に言われてんだ。そろそろ動けるようになっただろ? こっちへ来て飲みなよ』


 差し出されたのは、水汲みの桶だった。同じ女中の誰かのようだ。婀娜っぽいしゃべり方だ。

 暗がりから、かな子さんはゆっくりと這うように移動した。起き上がるのも苦痛だったが水は欲しい。喉がからからに渇いていた。腹も減っている。どうしようもない飢えに目が回る。いつから、かな子さんはまともな食事を取っていないのか。


 ずり、ずり、と這いつくばって戸口へかな子さんは向かう。それを眺める女は、唇に笑みを引いていた。


『ほら、飲みなよぉ。いっぱいあるんだから』


 そう言って、かな子さんの目前で女は桶をゆっくりと、ひっくり返した。少しずつ水が落ちて、女の足元をぬらす。燐光を撒きながら、どんどん零れ落ちていく。


『飲みたかったんじゃないのぉ?』


 かな子さんの指先まで、水は広がった。これを、舐めろと。

 指先についたそれは、砂が混じってにごっていた。屈辱である。桶から零れ落ちる水へと手を伸ばすと、女はあざ笑って桶を後方へ投げ捨てた。音を立てて、水がばら撒かれる。


 巧は「こいつもか!」と怒鳴った。怒りをあらわにしても通じないとわかっていて、怒鳴っていた。

 こいつもか。人をなんやと思ってんのや。なんでこいつらは、かな子さんに手ぇ差し伸べようとせえへんのや。同じ家の者やろが。ただ、仕える家の男を好いただけやろが! 何があかんねや。かな子さんはちゃんと断ったんちゃうんか! どうせぇ言うんや!


 しかし、巧がいくら憤っても、映像の中の人物には届かないのだ。

 女は呆然と桶を見つめるしかできないかな子さんの耳に、囁いた。埃っぽい暗い空気に悪意が広がっていく。それは、毒のように。


『ねぇ、どうやって若様に近づいたのか教えて頂戴よ。身体を使ったって本当?』


 たぶらかしてなんかない。そんなことしていない。あの人と私はそんなものじゃなかった。

 胸中で悲痛な叫びが響く。喉がひりついて、声にならなかったのだ。だから、悔しそうに女を仰ぐしかできない。


『おとなしい顔して怖い子だね。お前みたいな汚い子、本当に若様が相手にしたの』


 あの人は、そんな人じゃない。心のやさしい人だった。陽だまりみたいな人だった。私みたいな端女にもお優しかった。私は、あの人を見ているだけよかった。それ以上を望んだことなど、ただの一度だって、なかった。


 なかったのだ。

 視線が交わる一瞬、言葉をかわした一瞬だけで、心が満たされていたから。


 悔しさで涙がにじんだ。この女はかな子さんを貶めることで、自分が仕える家の子息まで貶したのだ。きゃらきゃらと笑うだけ笑って、女は出て行く。

 かな子さんは唇をかみ締めた。その拍子に乾燥した唇が切れたのだろう、血の味がした。


 女は戸を閉めていかなかった。眩い光の向こう側では、忙しなく働く家人がいる。

 かな子さんが欠けても滞りなく回る日常がそこにあった。助けを求めるように外を見つめ、扉を支えに何とか立つと、ふらりと光の中へ出る。その途端、膝が笑ってどうと倒れ込んだ。日向の地面は熱を帯びていた。着物からむき出しになった素肌を、容赦なく焼いた。声にならない悲鳴が上がった。


『かな……?』


 声のした方向をかな子さんは見やった。そこに女の子が一人いた。恐らくはかな子さんとさほど変わらない年齢なのだろう。顔色を変えて走り寄ってくる。


『だいじょうぶ? 起き上がれないの』


 肩をつかまれてかな子さんが喘いだ。痛みが走ったのだ。ごめんね、と女の子は触るのをやめる。そうして息を呑んでいた。彼女の視線は、かな子さんの鎖骨辺りを見ている。かな子さんは、手で隠すように着物のあわせをつかんだ。

 見られた。見られてしまった。


『ひどい……痣が……。どうしたの、かなちゃん。だれがこんな――』


 言いかけて、少女が口を閉ざす。


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