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03 昔、ここに来たことがあるんですよぉ

 花子さんからの返答はなかった。答えたくないという意味でなく、どう答えたらいいかわからないのだと巧には感じられた。

 内側にいる花子さんはとても存在が軽い。留まることに必死で、それ以外のものはポロポロこぼれ落ちているのではないか。彼女自身、何のためにここにいたいのか覚えていないのではないか、と疑問がふわりと浮く。


「……離れられへんねんな」


 ぽつ、とこぼせば頭がそろりと頷いていた。

 花子さんは、行くべき場所を探しているのかもしれなかった。


「はい。花子さんへサービス」


 突然、山崎が缶ジュースを片手に差し出してきた。巧の表情が和らいだのは花子さんが出てきているせいだ。


「陽ちゃんありがとう。でも私はかな子、なんですよぉ」


 もう口癖のように彼女は訂正する。花子さん、と巧が咎めれば、彼女はぺこりと頭を下げた。出てくるな、という意図は伝わって、こくこく彼女はジュースを飲んでいる。男二人、座り込んで祭りを見渡すのはおかしなものだ。これで楽しいだろうか。

 こんなことで、彼女の未練は晴れるのか。


『昔、ここに来たことがあるんですよぉ』


 巧の懸念を感じ取ったのか、頭の中で声が響いた。


『あのお社の前まで来たような気がします。同じ場所のはずなのに、もうぜんぜん違ってるはずですけどぉ』


 巧の脳裏に花子さんの感情が流れこんできた。切ない、悲しい、愛おしい、会いたい、会いたい、会いたい、……苦しい。強い強い思いの果てに彼女に残されたのは、おぼろげな記憶のみ。擦り切れたビデオテープのように曖昧で、かすみがかっている。見上げた目線の先にいるのは、だれだろう。顔が、映らない。逆光のように細部が不鮮明だ。


 ――よかった。来てくれたんですね


 不意に聞こえてきた男の声に、巧は息を詰めた。ハッと我に返って四方へ目を向ける。今のは、何だ。当然のように覗いてしまったが、今のは花子さんの『記憶』ではなかったか。彼女自身の中で曖昧になっている――彼女の求める『未練』では。


 憑かれたせいで、彼女と共感しやすくなっているのだろうか。

 ごくん、と巧は生唾を飲み込んだ。


「花子さん、あんたなんで、ここがええ思うたんや」


 巧は腰を上げて社の前に立った。手を伸ばすと古びた賽銭箱がある。それをすっと指でなぞった。この賽銭箱は花子さんの記憶にあるものと同じだろうか。

 巧ちゃん? と花子さんがきょとんとする。


「ぼろぼろやったこの場所で、誰に会いに来たん。ここで何があったん」


 それは、と花子さんが答えを探すように言い淀んだ。巧の両手を持ち上げ、ゆっくりと顔にあてがい、ぎゅ、と瞼を強く下ろす。それは――?


 ――返事を、聞かせてください


 再び男の声が聞こえた。低く優しい声だった。擦り切れた記憶が再生されていく。


 瞼を上げた巧の視界が惑う。古色を帯びた社が重なった。

 踏みしめる石畳も形が不ぞろいで、欠けたものへ変化する。わびしさを漂わせる蒼然とした神社が現れた。夜が昼間に塗り変わる。夏の青々とした葉を木々が茂らせていた。セミの鳴き声も聞こえてくる。

 この場所へ、花子さんは来たのだ。大切な人へ会うために。

 何度も周囲を確認しながら、人目を忍んで。


 誰か見ていないか。近くに津路崎の家の人はいないか。

 視界が巧の意思とは無関係に動いた。目線がぐっと低い。これは、花子さんの目線だ。感覚、感触も彼女のもの。

 記憶の中の花子さんが俯けば、自然と足元を巧も見ていた。鼻緒が見えてぎくりとする。彼女が身に着けているのは、木綿の地味な着物だ。腰にエプロンをしていた。前方にいる男も和装だ。ただし、生地のしっかりした袴姿だった。

 怯えるようにゆっくり、目線が上がっていく。ぼさりとした髪が見えた。影のようなシルエットだった。


 ――かな子さん


 呼ばれて、花子さんが身を竦ませた。瞼を閉じたのだろう。記憶を覗いている巧の視界も真っ黒になる。答えちゃダメ。そんな意思が伝わってくる。微かに首を振ったのは、俯いて両手を顔にあてがってからだ。その両手は水仕事で荒れていた。がさりとした感触が頬にある。


 ――お願いです。俺を見て言ってくれませんか


 顔を見ちゃダメ。

 花子さんは、なにも言わなかった。口を結び、降ってくる言葉に対し、ただ面を伏せていた。男が触れようとする指先さえ、彼女は拒んだ。身を固くして小さくなったのだ。

 しかし頑なな態度をとりながら、彼女は決して逃げようとはしなかった。それが余計に男を苦しめると知っていても、耐えるように彼が諦めてくれることを祈った。


 強い彼女の感情に触れ、巧は訝しく思う。

 ……なぜ? なぜ花子さんはあんな態度を取った?

 花子さんは、あの男を好いていたのではなかったのか。


「――み? おーい、どうしたんだ、巧?」


 気がつくと、至近距離でこちらを覗き込む山崎がいた。きゃ、と頭の中で弾けた悲鳴は花子さんのものだ。のけぞって巧は後じさり、止めていた息を吐き出す。心臓がどくどくと暴れていた。


「どうしたの。いきなりぼうっと突っ立って」


 巧は「ちゃう」と頭を振る。ぐちゃぐちゃと髪をかき回しながら、ちゃう、と繰り返した。荒い呼気の巧へ、山崎が不思議そうに小首をかしげた。


 飲む? と渡されたジュースを遠慮なく受け取って、喉へ流し込む。彼女の記憶を共有するだけで、体力を消耗するのか。汗がこめかみを伝って落ちた。何やこれ、と巧は歯を食いしばる。


 巧ちゃん、と呼びかけてくる声は内側から響いた。心配してくれているのが、声色でわかる。息が整うのを待って、巧は口を開いた。


「今、かな子さんの記憶の断片が流れてきよった。多分未練の、ありどころ」

「ええ? 花子さん、この祭りが未練じゃなかったんだ」

「ちゃう。祭りやない。かな子さんが来たかったんは、ここや。この社の前」


 驚いたように山崎が社を振り返る。その山崎を置いて、巧はふらふらと賑わう境内を歩き出した。立っているだけで辛いが、次に行くべき場所はわかっていた。


「ここは思い出の場所なんや。大切な人に会った(おうた)大切な……でも、まだ足らん」


 何故かな子さんは、あのような頑なな態度を取ったのだろう。彼女の記憶に触れている間は、ダイレクトに感情が伝わってくるのだ。

 何故、あんな風に男を拒絶したのだろう。巧はかな子さんに呼びかける。


「かな子さん。さっき出てきとった人、誰や」


 かな子さんが小首を傾げた気がした。巧が記憶を覗いても、彼女にはどのシーンが流れたのかわからないらしい。男や、と巧が付け足す。着物を着ていた。柔らかい低い声色をしていた。身長は恐らく巧ほどある。年齢は二十歳を過ぎている。


「何でやろうな……細いイメージあったわ。あの人、身体弱かったんちゃうかな。あんまようわからんけどそんな雰囲気しとった気ぃする。なんや思い出さへんか」


 男の人、とかな子さんが繰り返した。気のせいか、声が震えている。


「あんたに、あの社前(あそこ)で返事聞いてたんや。……なんの話かわかるか」


 慎重に発した問いかけは、後半は苦虫を噛み潰したようになっていた。あれは、恐らくプロポーズの返事を尋ねられたのだ。そうわかっていて問いかけている。意地の悪い質問である。


「何で、ちゃんと返事せぇへんかった――」

『巧ちゃん! ……それ以上は、やめてください。何か、何か今、一瞬、何かが』


 それきり、かな子さんが沈黙する。しばらく待っても反応がないので、巧は判断に迷った。

 かな子さんが怯えていた。……何に、対して?


 実は、巧はかな子さんが喜ぶことを期待していた。あの男が未練の原因なら、二人が結ばれたことを思い出してくれれば、彼女は成仏できるのではないか、と。


 いや、できへんか。

 かな子さんのあの反応は、何かある。そういえば、記憶の中で彼女は地味な着物を着ていた。丈が短く色あせたものだ。男のほうは、仕立ての良い格好だった。

 ……身分の差か? 行き当たった自分の考えに、巧は胸糞が悪くなる。


 ふらつきながらも歩く巧に追いついた山崎が、「どこ行くんだよ」と問いかけてきた。一瞬、巧は躊躇った。このまま先へ進むことが正しいのか、不安になったのだ。かな子さんは依然沈黙を保っている。


「津路崎て、でかい家わかるか」

「んー……津路崎、津路崎、津路崎……っあ、幽霊屋敷の」

「幽霊屋敷?」


 予想外の回答に、巧は顔を引きつらせた。まさか幽霊屋敷になっているとは、思いもしなかったのだ。


「この辺りじゃ有名なんだけど。よく小学生が忍び込んだりしてて――って、待った。そこ行くとか言わないよな?」


 巧はにこぉ、とわざとらしい笑みを作った。ぽん、と山崎の肩に手を置き、指にぐぐぐっと力を込める。逃さないからなぁ、という意思を込めて。


「案内せぃな?」


 山崎が顔を引きつらせた。祭りなのにぃ、と無念がる声は、このさい無視することにする。




「でもさ、なんで津路崎なんかに花子さん来たがったんだ? 何もないよ、あそこ」


 自転車をこぎながら巧が、ちゃう、と否定した。目指すべき津路崎は自転車で走って十分ほどの場所にあった。街頭もまばらの夜道を、二台の自転車が通り過ぎていく。


「俺が、来るべきや思てん。さっき『視えた』かな子さんの記憶ん中でな、ふっと浮かんだんや」


 なんや、因縁ありそうな気ぃしてな。

 そう伝えると、ふうん? と山崎が曖昧な返事をする。


 あ、そこ左ー、と指示されながら進むと、学校裏を流れる八多観川に出た。その堤防沿いにしばらく進むのだ。暗い川がなんとも不気味で、目を逸らしながら進んだ。最近の雨で、水かさが増した川は落ちればきっと一たまりもない。


「こっちこっち」


 山崎の自転車が堤防を降りていった。その先は街頭もろくにない暗がりだ。住宅街を抜けたのだ。

 徐々にアスファルトが自然に浸食されていた。雑草が増えて、カエルや虫の鳴声が多くなる。田んぼの脇から竹林が山の麓へと広がっていた。あおい稲の揺らぎに紛れ、ビニルハウスや畑もぽつぽつとある。


「この辺り一帯を津路崎って言うんだ。で、あれが」


 前方に、ぽつんと建った家がある。田園地帯に入ってすぐのところだ。竹林を背景に、かなり大きくて立派な日本家屋がある。灯りはともっていない。

 なるほど、幽霊屋敷とはよく言ったものだ。遠目でも屋敷の屋根が崩れているのがわかった。垣根がぐるりと囲い立派な門もあるのに、廃墟同然である。どれぐらいの間、手入れされずに放置されてあったのか。


「……古風な家やな」


 自転車をとめて、巧は眉間のしわをいっそう深くした。隣では山崎が肩をすくめている。


「だろー。どうする? 中入る? 今誰も住んでないよ」


 二人の前に佇む屋敷は、威嚇するように頼りないライトの下でその姿を晒している。

 門扉だけでもかなり大きかった。黒ずんだ板の門はかたく閉ざされていてビクともしない。その脇にある小さな通用扉も同様だ。この様子だと、裏側からかんぬきか何かで固定してあるのだろう。門もガタがきていて、所どころ土壁ははがれて骨組みがむき出しになり、屋根瓦が落ちて路上で割れていた。よく見れば雑草が方々から飛び出ている。


 あれ? もしかしてこの門は、門番が暮らせるようになっとるんちゃうやろか。ふとそんな考えが浮かんで、巧はため息をこぼした。土地だけなら巧の小さな自宅が、六件は建ちそうな広さがある。


 門より低い垣根から覗いた屋敷の二階は、回廊のようだった。ぐるりと廊下が部屋を囲った造りだ。雨戸は閉ざされていたが、もしかしたら内側はガラスではないのかもしれない。


 視界を転じると庭がある。荒れ放題の広い庭だ。そこだけでも家が何件か建ってしまうほどあるだろう。雑草が好き勝手に伸び、造られた池は藻や水草が水面を覆っていた。あちこちに大きな穴が開いているのは、庭園ならあって然るべき木々を掘り返して移動させた跡か。


 今は見る影もないこの家が、相当な権力者の屋敷だったことを窺わせるには十分だった。


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