02 俺は呪われたけど、そっちは憑かれてんじゃん
巧の顔から血の気が引いた。
山崎がおぞましいものでも見たように、後退する。
「ちょっとだけ、なんですぅ。今晩だけでかまわないのでぇ」
いつの間にかしおらしく胸の前で合わせていた両手で、巧は口を押えた。これはなんだ。だが、答えはすでに出ていた。先ほどの一瞬で、巧は幽霊に憑かれたのだ! そして、この間延びしたしゃべり方と妙に乙女チックなこのポーズは、巧の意思ではなく……
「何やねんこれ!? 勝手に、身体が」
先ほどとは別の意味で鳥肌を立てた巧の直後、小首をかしげて人差し指を頬にあてた巧がいる。足もばっちり内股だ。
「だからぁお借りしてますって言ったじゃないですかぁ」
勝手に動いた口をばくん、と閉じたのは巧の意思だ。身体が震えるのは、悪寒がするからではない。断じてない。
「出て行け、早く、いますぐ! これは俺の身体や!」
怒髪天をつく勢いで叫べば、直後に同一人物が泣きそうに目をうるませ、身をよじる。
「いやぁん、陽ちゃぁん、巧さんがいじめますぅ」
「だ・か・ら! 出て行けつってんやろが!」
一人漫才の巧を、ちょっと離れた場所で山崎が腹を抱えて笑いだした。
「そ・れ・で、こいつ誰やねん」
巧が騒ぎつかれたのはそれから十分も経過した後だった。窒息死する勢いで突っ伏している山崎に説明を強要する。落雷と豪雨は急速に収まりつつあったが、今の三人(うち一人は幽霊)にはどうでもいい。
「さっきも言ったけど、女子トイレの花子さん。自称十八歳の可憐な乙女……ぶはは」
「笑うな」
こちらの顔をまともに見て、また笑いの発作を起こす。
ここが人気の少ない旧校舎で助かった。こんな状況はまともではない。ふざけんな、と拳を巧は握り締めた。だが、幽霊を祓う方法などわからない。とり憑いたもの勝ちなのだ。
「つーか旧校舎の幽霊って、これか? これが、あの怪談か」
「怪談ってぇ、何ですかぁ?」
知らんのか、と巧が項垂れた。山崎が笑い顔のまま、旧校舎の幽霊の話をする。花子さんがふるふると首を振った。否、花子さんが巧の身体を操って首を振らせた。
「私はたしかにお化けですけどぉ、花子じゃないですよぉ。かな子ですー。私、そんなことしてませんよぉ」
「そうなんだよ。この人、ここでずっと泣いてたんだ」
「な、泣いてませんよぅ、陽ちゃん! そりゃ、ちょっと寂しくなったりはしましたけど、ここは学校ですもん。いつだって賑やかですもん」
旧校舎のすすり泣く声は、完全にこいつが犯人だ。山崎も苦笑いをこぼす。
「たぶん、霊感がある人? とかさ、花子さんにシンクロしたんじゃないかなぁ」
幽霊の嘆きに影響されて、憂鬱になったり、突然悲しくなったり、頭痛がしたり、吐き気があったりしたわけだ。
「自覚ゼロって性質悪。……それとも他におるんか、幽霊が」
「ええ、私以外にも、何人かは。ここにいるのは、私一人ですけどぉ」
巧は髪をかきむしった。またもじもじと胸の前で両手の指を絡めている自分に、怖気がした。
「うがぁぁ出てけ! つーか勝手に身体使うな、しゃべんな。キモい! それで、山崎。お前の相談って結局何や」
花子さんのとろとろした発言を封じ、山崎へ問い詰めた。笑いすぎて涙を浮かべる山崎は、視線を泳がせ、
「ほら、夏休み中に旧校舎取り壊しでしょ。それまでに俺とここを抜けたいって言うんだよ。今夜祭りがあるでしょ。アレにどうしてもって」
巧が自分と陽介を指差すと、陽介はこくこくと頷く。沈黙が落ちた中、かさこそと聞こえてくるのは、梢の擦れた音だ。そんな中、巧は己の髪をガシっとつかんだ。
「アホぬかせ、はよ出んかいてめー! なんっで山崎とデートせなあかんねん! つーかなんで俺? 山崎に憑いて祭り行きゃえーやろが!」
「あ、俺もそれ知りたいー。花子さんに呪われたからか、腹がすぐ減って困るんだよなぁ。なんか生気? っての吸い取られてるみたいで。花子さんは元気になっていいけど、俺は困ってるって言うか」
「マジで?」
「言っておくけど、俺より巧のほうがヤバイっしょ。俺は呪われたけど、そっちは憑かれてんじゃん」
げ、と巧が顔に書く。
「失礼ですねぇ。私は、悪霊でも怨霊でもないんですよぉ。立派な地縛霊なんですから」
えっへん、と巧(に乗り移った花子さん)が胸をそらした。それでも、巧は霊感体質ではない。こんな憑依状態に長時間耐えられるはずがないのだ。今も、じりじりと負荷がかかっている。
「一応俺もね、この役は女の子がいいなーって思って、仲良くなった子たちと何度か来たけど、さっぱりでさ。そしたら巧でいいって言うんだもん、詐欺だよねぇ。でも考えてみたら、こんな危険なことお願いもしにくいよねー」
「……お前がしたかった相談ってのは」
「成仏してもらうのに、どうしたらいいか知恵を借りたくて。俺の呪いも解けるでしょ」
てへ、とかわいらしく山崎が舌を見せても、憤りは収まらない。だったらこの場までくる必要なかったんちゃうんか!? 巧は思わず拳を振り上げる。だが、こんな目に合わない限り山崎の話を信用しなかったはずだ。舌打ちすると、振り上げた拳を巧は黒髪に差し込んだ。
「出て行けこら! 出て行かんかいこら!」
うーわー、巧ってば口わるー、と笑うのは山崎だ。無視して我武者羅に髪をかきむしると、次の瞬間巧は瞳を潤ませた。
「いやぁん、出たくないですー。髪の毛引っ張ると痛いですぅ。やめてくーだーさーいー」
十五年間生きてきて、一度も発したことがない声色に、巧は震えあがった。精神的ダメージがでかすぎる。
「頼むからしゃべんな。まじキモイ! お前、勝手に身体動かされる気持ちわかって言うとんのか、こら」
「お、怒らないでくださいぃ……だって、しゃべらないと、私の言葉、伝わらないじゃないですか。私、身体ないんですもん! 身体がないと、いろいろっ……大変なんですからね」
「知るか。そっちの都合こっちに押し付けんな」
「あんまり意地悪言うとぉ、呪いますよぉ……? いいんですね」
駄々をこねていた少年の顔が、不意に妖艶なそれへ変貌する。氷片をまいたような雰囲気は、本気だと告げていた。ぎくりとした山崎はあわてて立ち上がる。
「花子さん、そんなこと言ってたら巧ますます嫌がるじゃん。巧も、花子さん今日一日だけだから、な?」
山崎の仲裁は手遅れだった。悪寒に吐き気、頭痛のトリプルパンチが巧を襲う。動悸に息切れも伴って立っていられない。床にうずくまって頭を抱える巧は、しばらくうんともスンとも言えなくなった。事態を引き起こした花子さんも同様に沈み込む。
「……わかったわ。今日が終わるまでっつー約束なら」
「……ほんとーですかぁ?」
真っ青な顔で巧が了承したとたん、身体は軽くなる。視界が奇妙なほど明るくなった。ふらりと歩きだした巧は、額にびっしり浮かんだ汗をぬぐう。
「でも、俺の身体は俺のもんや。あんたは極力出てこぉへんって約束しい。そしたらそこにおってええ。ええな? 俺の身体は俺のもんやからな?」
追いかける山崎の目の前で、こくこくこく、と巧の首が動く。
「よし。それでデートって何するん。その辺歩くだけでええんか」
「今夜、祭りあるじゃん、山越神社の。そこに七時待ち合わせで。――いいよね、花子さん」
こっくりとあごを引く巧のしぐさは、やっぱり子供っぽくかわいらしい。自分の身体が否応なくコントロールされ、巧がため息をついた。それでも彼女は、しゃべっていないだけ我慢している。山越神社は巧でも場所を知っていた。通学路脇にあるのだ。山崎とは神社で待ち合わせだ。
不意に巧が振り返る。目線の先にあるのは女子トイレではなく、さらに通路奥の扉だ。風によって揺れる木々が見えた。外では、雨が実にタイミングよく引けている。祭りは、当初の予想通り開かれるはずだ。巧が瞬く。なぜか後ろ髪を引かれる気持ちになったのは……、かな子さんを宿しているからか。
旧校舎のすぐ裏を流れる八多観川の水音が聞こえてくる。
「それじゃ、後で集合な」
身体を動かされながら、自分以外の存在を、頭の中で巧は意識していた。自転車をこいで神社に向かう道すがら、なぜか顔が微笑んでいるのだ。うれしい楽しいといった感情が、溢れ出す。これは、花子さんの気持ちだ。
向かってくる風ひとつで、やさしい気持ちになれた。夕日に伸ばされた自分の影に、泣きそうになった。雨上がりの水溜りを、ジャンプして越えた。道端で遊んでいる子どもたちをやさしく見守って、虫を見つけるとくすくす笑った。自転車に乗るときは大騒ぎしてうるさかった。
地縛霊としてここに残った彼女には、こういう体験が貴重だったのだろうか。巧にとって当り前のことが、輝きを帯びていた。こんなに世界は綺麗だっただろうか。
(どんな気持ちなんやろうな)
感覚を持たないまま、誰にも認識されることなく、世界にただあり続けることは。肉体を失ったことのない巧には当然わからない。いろいろ大変なんですからね、と彼女が言ったとおり、きっとそれは辛くて悲しい。
花子さんは精一杯世界を感じようと、アンテナを全開にしているのだった。些細なことでも逃すまいと、今ではなにもしゃべってこない。彼女がしゃべったのは、山崎と待ち合わせた神社に到着してからだ。
それじゃ行きますか、と連れ立って鳥居をくぐる。すると、花子さんがぼんやりと呟いたのだ。露店や道行く人を眺めながら、
『ずいぶん、このあたりも変わっちゃったんですねぇ』
その声は、巧の頭の中だけに響いた。祭りで浮かれる人々の波をすり抜け、奥の社を目指す。的屋から立ち込めるにおいと、うるさいほど流れる音楽の中へ、率先して潜り込んだ。そうしたほうがいい、と感じたのだ。花子さんは、的屋を覗いては巧の中で笑い声をあげた。祭りを楽しむ人の笑い声が聞こえるたび、巧の顔がほんのり笑顔になった。
一度奥まで抜けると、花子さんは御社をしげしげと眺めて、小さく笑った。
『こんなに立派じゃなかったんですけどねぇ。私が知っていたここは、いつ崩れてもおかしくない場所でした。でも、お祭りの雰囲気は昔と変わりませんねぇ』
まるで一夜限りの、泡沫を覗いているようです。
過ぎた時間を懐かしむような、惜しむような声は、小さく巧の中で弾けた。
ちょうちんの赤い明かりが照らし出す賑わいは、現実であって現実ではない曖昧さがある。着物を着て、面をつけ、ヨーヨーや金魚の入った袋をぶら下げて流れる人々は、本当に人間たちだろうか。もしかしたら花子さんと同じく、賑わいにつられた、この世ならざる者たちかも。
整備された石畳の段差にしゃがんだ巧は、ふ、と笑いをこぼした。一夜限りの泡沫ならば、非現実があってもいい、と。
そうしていると、彼女の目線は見知らぬ恋人たちのところで度々止まった。ぼんやりとそれを眺めている。もしかしたら彼女は、ここへ誰かと来たのかもしれない。大切な、誰かと。
(強い未練を残すほどの何があったんやろ)
花子さんを身の内に宿し、優しい人柄の女性だとわかった。世界を愛することのできる、気持ちの穏やかな人なのだと。
だから巧は余計に引っかかっていた。何が彼女を引き留めているのか。
「花子さん趣味悪いで。祭り来たかったのに、憑いたの俺で、選んだの山崎て。大切な場所なんやったら、もっとマシな人選せなアカンやろ」
ふふふ、と巧の中で彼女が笑う。
『あの場所から離してくれる人なら、どなたでもよかったんですよぅ。陽ちゃんはやさしいから、私のために女の子を探そうとしてくれたんです。だけどもう、私には時間が残されてませんから……』
あの場所から離してくれる人、というのがなんとなく引っかかった。花子さんは、あそこにいたくて留まったのではないのか。
「そうや、なんで女子トイレにおるん? トイレでなんかあったん?」