10 私は、幸せ者ですねぇ
封筒には、手紙と曇りのない指輪が入っていた。指輪は、当時としては珍しいもののはずだ。巧の小指にならなんとかはまってくれそうなサイズである。シンプルに輝くそれは、いつか二人そろって身につけられればと願ったもの。
指輪に添えられた手紙には、突然兵役に志願したこと、想いを告げて困らせたこと、不甲斐ない自分を詫びていた。指輪は、左手の薬指にはめると祝儀を上げたものの証になること。本当はあの日、かな子さんに渡したかったものであること。しかし、これを持って兵役へ出ることはできず、家に残していくこともできなかったことが、綴られていた。
その上で、我侭を承知で、かな子さんから明確な返事をもらってないこと、戻ったら改めてその返事を尋ねたいとも。
――もしも俺を許してくれるなら……この指輪をはめてもらえませんか。
不意にそんな言葉が聞こえた気がした。手紙の送り主は、一途にかな子さんを思っていたのだろうか。
「だとしても、俺は嫌いだね!」
え、と巧が目を丸くした。かな子さんも巧の中で驚いている。
「自分で決め付けて勝手に戦争マジで行っちゃってさ。残された人の気持ちこれっぽっちも考えてない。こいつ、自分のことで手一杯なんだもん。甘えてんじゃねぇよ。相手受け止める余裕なしに告白して、ばっかじゃねぇ? 手紙見ててもさ、何ソレ泣き落としですか? ああああイライラする。かな子さんが好きなら堂々とさらうぐらいの根性見せろよなぁ!」
がー、と突如山崎がマシンガンのごとき毒を吐く。巧に落ち着けと警告したくせに、かな子さんへの肩入れ具合は、山崎も同レベルのようだ。
「お前……アレだけこいつの気持ちわかる的推論して、それか」
「はっ、気持ちが理解できても、それとこれは別問題。かな子さんに悪いと思って黙ってたけど、もう無理。我慢できない。腹立つに決まってんでしょ。だけどそんなことより! 巧、手出して。ちがう、右じゃなくて左手」
有無を言わさない迫力でもって、山崎が指輪をもぎ取った。そして巧の左手をつかむ。巧に待ったさえ言わせず、「かな子さんの変わりに、お前がはめとけ」と強引に左手の薬指にはめこんだ。
「かな子さん、巧でごめん。こいつの手でごめん。でもこの指輪、かな子さんのものだから」
銀色に輝く輪は、左薬指の第二関節あたりで止まった。
掘り出すために土で汚れて、指輪を取り出すためにさらに汚れた指に、煌いた。
「お前、なんでこんなに手でっかいんだよ!?」
途中までしか入らないだろうが、と山崎が無理やり巧の指に押し込める。
「いたいたいたっ、痛いわアホ! だったらお前がはめろ!」
「俺がはめたって意味ないだろが! かな子さんが嬉しいか? 喜ぶのか俺がはめて!」
「抜けんようなったらどうすんねんっ」
言い合いに水を差したのは、かな子さんの声だった。頭の中でくすくす笑う彼女の声は、巧を不安にさせた。どこか壊れてしまったような笑いに思えたからだ。かな子さん、と巧が問いかけると、彼女は泣きそうな声で呟いた。
『私もこれぐらい、あのころにはっきり言えたら、よかったんですねぇ。好きなら好き、嫌いなら嫌いって言えていたら。この指輪も……わかってたから開けずにいたのに。どうして私……ずっとずっと、できなかったのでしょうねぇ』
こんな簡単なことだったのに、何十年もかかってしまうなんて。
ひびが入ったと思った。それまでギリギリ保たれていた何かが、音を立てて崩れていく。ガラスのように、パリン、パリン、と破片となって欠片となって、もろく呆気なく、消えていく。
立ちすくんだ巧は、突然左右を見渡した。何かを探すようにおろおろしたが、どうすることもできない。どうしたらいい、どうしたら、と頭を絞るが何も浮かばない。
「なに、今度はなに!? どうしたんだよ」
「かな子さんが、消える……っ」
巧の中から、どんどんなくなっていくのがわかる。
「うそだろ!? どうして急にかな子さんが」
未練がどんどん消化されていったからだ。途中で気づいたのか、山崎が真っ青な顔で口をつぐんだ。頭を抱えていた巧の手が、そろりと勝手に動く。確認するように指を触り、指輪を触った。愛しい気持ちを込めて、何度もなんども。
「いいんですよ、陽ちゃん。ありがとう。巧ちゃんも、ありがとう。無理を……我侭をたくさん言って、二人には迷惑をかけました」
山崎が息を呑んで巧を見る。巧の表面に浮き出ているかな子さんは、静かにその視線を受け止めていた。
「待ってよ。だって、まだお祭り堪能してないでしょ、消えちゃダメだよ!」
「あれで十分です。お祭り堪能できましたよ。楽しかったですよ。陽ちゃん、ありがとう」
「嘘だかな子さん。だって……俺何もしてないよ。もっと一緒にいようよ。この世界が楽しいんだよって、ねぇ」
「陽ちゃんはずっと傍にいてくれましたよ。一人ぼっちだった私の傍にいて、どうして泣いてるのって聞いてくれました。巧ちゃんは、出会って間もない私に身体を貸してくれました。二人とも、私のために怒ってくれて、泣いてくれました。――嬉しかったんですよ」
巧に憑いた彼女は微笑んで、への字口の山崎に手を伸ばした。姉が小さな弟へさわるように髪をなでて、頬に触れ、それからぎゅっとシャツの裾をつかんだ。山崎が身体を強張らせた。陽介さん、とかな子さんの唇が、動く。
「今頃言っても遅いって、わかってますけれど。もうあなたはここにはいないんだって、知っていますけれど……。ずっと言いたいことがあったんです。いいえ、言わなきゃいけない言葉が」
巧の手が震えている。いや、震えているのはかな子さんだ。
にこ、と彼女は微笑んだ。くしゃりと潰れそうなのを、精一杯に笑みの形に変えていた。
「陽介さん、あなたのことをずっと愛していました。本当はあなたを、待っていたかった」
それを、あの人に言いたかった。
指輪が真っ二つに割れたのは、山崎がその手を取ろうとしたときだった。黒ずんだリングが、ぼとりと地面を転がる。ふ、と力を失ってだらりと垂れた巧の腕。割れた指輪を追いかけた山崎の目は、それが風に消えていくのを見た。巧が、がくんと膝をつく。
「かな子さん! 俺、迷惑だなんて思ってなかった。いっぱい話せて楽しかった。そりゃ呪われてちょっと困ったけど、嫌じゃなかったよ。なぁ、聞こえてる? 今度は幸せになれるから。今度はたくさん幸せになれるから、だから」
山崎が泣きそうな面持ちで、声を張り上げる。憑依が解けて真っ青な顔をした巧が、肩で息をする。ぎり、と奥歯をかみ締めて、巧は拳を握り締めた。
その二人の耳に、届いた。確かに聞こえた。風の音にまぎれて。
はい。私は、幸せ者ですねぇ。
ありがとう。ありがとう……
微笑む彼女の姿こそ、見えなかったけども。
汗をぬぐった巧が、「あ」と自分の空っぽの手のひらを見下ろした。持っていたはずのブリキの箱も、巾着袋も、封筒も、いつの間にか消えていた。
遠くから聞こえる祭りの音楽が、戻ってくる。虫の音と、葉や草のこすれる音も――
「ぐあああ、きもっ。きもい! 気持ち悪いっ!」
余韻に浸る間もなく声を上げて身体をかきむしったのは、巧だった。
「俺、俺が、うあああ」
意味不明なことを叫びながら転げまわる巧を、山崎が呆れ眼で見下ろした。
「お前、開口一番で言う言葉か、それ」
「こんな目にあったんは、誰のせいや思っとるんじゃ、こら」
「けっこーかわいかったけどぉ? 目ぇ潤ませてさ、『陽介さん、あなたのことずっと』」
「ぎゃああああ!! 言うな、そこ言うな! 言っとくけど、これは貸しやからな!?」
転がる巧の隣によっこいしょ、と山崎がしゃがんだ。自分の身体をしげしげ見下ろして、
「なんかすっげぇ身体軽くなった気がしねぇ? 身体っつーか、気持ち?」
「そらお前、呪われとったもんな。俺なんか気分爽快レベル? さっきまでの重たさがどっか行ったわ。あんなんよう背負っとったな、かな子さん」
汚れをはたきながら、巧が身を起こす。それをちらりと一瞥した山崎が、にかっと歯を見せた。
「でもさ、良かったよな。手繋いだだけ済んだし? なんか楽しかったし」
「ふざっけんなよ。こっちは死にかけとったわ。お前のせいで」
あはは、と山崎が笑う。笑いごとちゃうっちゅうねんと巧は憤慨した。ないだろうとは思っていたが、抱き合ったりキスするといった展開にならず本当に良かった。今更ながら肌があわ立って巧はこっそり息を吐く。
その隣で、山崎の顔が徐々に落ちていく。涙は流れてなかったけど、声が泣いていた。
「ほんとよかった、かな子さん。……幸せだって言ってくれて」
俺何もできなかったけど、と鼻をすすっていた。
山崎は高校へ上がってしばらくしてから、かな子さんの存在を知ったのだった。忍び込んだ旧校舎奥で、ぼんやりと涙を溢れさせる幽霊の彼女が「陽介さん」と呟いていたのがきっかけだった。何の目的があって忍び込んだと巧が訝ると、奴は笑って誤魔化したが。
「俺じゃないってわかってるんだけど、名前連呼して泣くんだもんよ。たまんないじゃん。何とかしてやりたいって思ってたから」
見上げると星空が瞬いている。彼女が逝った世界でも星がきれいであるといい。巧は目を閉じた。そこにもう彼女はいない。すぐに感じられたあの気配は、欠片も残さず消えていた。
「陽介さん、言うてたな」
うん、と山崎がうなずく。
「お前のことは、陽ちゃんて、言うてたのにな」
うん、と山崎が再度うなずいた。
「巧。俺だけじゃあの人、どうしようもできなかった」
「何言うてるん。お前一人でだって何とかなっとったやろ」
「んにゃ、俺はあの人を連れ出せなかった。泣いてるかな子さん宥めるだけで、限界だったんだ。だから相談したんじゃん」
「かな子さんはお前がおったから、祭りんときあんな楽しそうやったんや。お前とおった時間、泣いてへんかったんやろ。それでええんちゃう?」
うん、と山崎はうなずく。神妙に、かみ締めるように。
かな子さんが山崎を選んだのはおそらく正解だった。かな子さんは、境界を突き破ってくれるきっかけを欲していたからだ。それは巧では無理だった。山崎が動いてくれたから、彼女の繋ぎとめた鎖を破ることができた。
この一夜限りの不思議とも、お別れか。
そのとき、豪快に腹の虫がないた。巧だけではない、山崎もだ。二人は顔を合わせた。かな子さんにエネルギーを持っていかれたお陰で、いつも以上に腹が減っている。そういえば祭りの間はかな子さんを意識するあまり、何を口にしたかあまり覚えていない。時間を確認すれば八時半を回ったところだ。祭りはまだ続いている。急げば、まだ間に合う。
「なんか食ってくか。的屋行って。残りもんしかないやろーけどな」
「よーし行くか! 祭りまだ終わってないっぽいし。でもその服で行くんだ?」
山崎に指摘され、巧は気づいた。転がったせいで泥だらけだ。しかも汗で全身がベタベタだった。しばし服を見下ろした巧は「別にええ」と言い切る。着替えに戻る時間が惜しい。
「今日ぐらいええわ。ほらそっちのシャベル持て。用務員室寄ったら行くで」
「でもさー、誰にも見られなくてよかったよなー」
シャベルをかついで先に歩いていた巧が、凍りついた。山崎はあっけらかんと言ったが、考えてみたら男二人で、とても怪しい雰囲気をばら撒いていたかもしれない。しかも夜の学校で、指輪をはめたり、好きだとかなんとか口にしたり、抱き合いかけたり、巧は二重人格の容疑まで――
血の気が引いた。
「誰もおらんかったよな!? 俺ら以外おらんよな?」
「あー、うん。まぁ、いたとしても大丈夫じゃね。大したこたないっしょ」
「大したことあるやろ!? 特に俺は! ちょ、山崎待てやこら!」
腹減った、と平然と歩く山崎を、巧が追いかけ……旧校舎はまた静まり返る。
裏門を越える直前、巧はふと旧校舎の方向を振り返った。特に意識した動きではなかった。木々に囲まれた暗い影が旧校舎だ。あそこに彼女はもういないけど、きっと向こうでも笑っててくれるはず。そう祈りながら。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
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