兄を好きだったはずの幼馴染が急に優しくなった
急に幼馴染が優しくなった。気持ちが悪いくらいに。
「朝くらい一緒に行こうよ!」
『友達に勘違いされると困るから近寄らないで欲しい』と言った本人が朝玄関まで迎えに来るようになった。
「時間が合うようなら一緒に帰らない?」
高校入学後一年間、一度も一緒に帰った事がないのは記憶違いでないはず。俺は耳を疑った。
「徹、お弁当一緒に食べよう! 作って来たんだよ」
昼休みのチャイムと共に中庭に連れ出されてお弁当タイムとなった。
「はい、徹の好きなたまご焼きにタコさんウインナーだよ」
俺の好みが小学校時代で止まっているのは一笑に付すしかなかった。
所詮は付け焼き刃、いつまでこの茶番が続くのか? 終わるのは時間の問題だろう。飽きるまで付き合えばいいだけの話。腹を立てるだけ損するのはこちらなのだ。
そもそもの事の起こりは三日前だった。
***
夜8時、塾から家に帰ると部屋の電気が付いていた。消し忘れ不用心だなと頭を掻きながら部屋に入ると春香がいた。木本春香、同い年の腐れ縁の幼馴染だ。家が近所なのもあって小さな頃は二つ年上の兄の井下明と俺の三人でよく遊んだものだった。
今日は一人暮らしを始めた兄の所へ告白しに行くと勇んで出掛けて行ったはずだった。
どうしてここにいるのか不思議だ。
「週末だし、上手くいったらそのままお泊まりになるかもね。ニヒヒ!」
と満面の笑みだったのはつい半日ほど前の事だ。
春香は普段から兄に向けて好意ある素振りを振りまいていたし、兄も満更ではない様子だったし、きちんと春香の事を女の子扱いしていたのでカップル成立も間違いないと思っていたのだが。どうして春香がこの部屋に?
肩まであるストレートヘアに笑うとエクボの出来る頬、右側の垂れ目の横にある泣きぼくろと笑うと見える八重歯が特徴的だった。
世間一般的には可愛いと言われるらしいけど、家族並みに見慣れている俺には普通の女の子だった。
いや、疫病神という点では積極的には近寄りたくは無い存在だった。
兄に惚れている春香目線では全ての手柄が兄になるのが常だった。
やっかみではなく、事実としてやってられない、そういう事だ。
兄が面白半分に蜂の巣に投げた石に反応し、怒って攻撃してくる蜂から春香に覆い被さり、蜂に刺されながら守ったのは俺。家へ殺虫剤を取りに戻り、散布して追い払ったのは兄。
当然、感謝するのは兄へで、蜂に刺され俺はグズ扱いだった。
幸い早めに医者に診て貰えたので命には関わらなかった。
その後三日間、俺は蜂に刺され腫れて寝込んだのだが二人共見舞いに来なかった。
同じ家にいるのに弟の心配すらしない屑な兄だと早めにわかって良かったと心底思った瞬間だった。
車に気づかず車道に飛び出した春香を庇って轢かれたのは俺で、俺が突き飛ばした春香を助け起こした兄が春香に感謝された。
ランドセルがクッションになった事とまだ幼く身体が柔らかかった事もあり一週間の打撲で済んだのは僥倖だった。
入院している間に、車道にいる二人を兄が救おうとしたが春香しか救えなかった事になっていた。車に轢かれた俺はただのノロマに。
退院後に事実誤認だと文句を言って抗議したが二人して無視した時点で二人とのまともな交流は諦めた。
本人達には自覚がないのか俺に絡んで来るので適当に聞き流す、それが俺のスタンス。今も昔も変わらない。これからも変えるつもりはない。
春香が兄に告白すると聞いた時は嬉しくて飛び上がりそうになった。厄介者同士がくっついて俺から離れてくれるなら、厄払いが出来たのも同然だ。喜ばない方がおかしいだろう?
その疫病神が部屋にいる。嫌な予感しかしない。出来るなら回れ右して部屋から出て行きたい。
そうだ! この疫病神が帰るまでどこか友達の家にでも行って身を隠すのもありかもしれない。
俺は一目散に反転して部屋を出た。
「待って、徹! 私の話を聞いてよ!」
後ろから駆け寄って来た春香に抱きしめられて羽交締めにされた。
まるっきり、お願い事をする奴の態度じゃねえよ――
***
「未来からタイムリープして来た、という話は置いておいて。
本日、兄への告白が成功して今晩二人が結ばれるんだろ? めでたい事じゃないか!」
「茶化さないでよ!」
「はいはい、それで春香の大学卒業後に結婚する約束をして婚約までしたのに、卒業直前に会社の同僚を妊娠させたので責任とって結婚するからと捨てられたと、これで合ってる?」
「ええ、そうよ」
「まあ、弟としては有り得る事だとは思う。あれは正真正銘の屑だからな」
「ええ、屑だったわ」
春香が深いため息と共に言葉を吐き出した。
「そこまでは良いんだよ。その後が信じられないんだよね。俺と春香が付き合うの? 嘘でしょう? というか、絶対に嘘だ!」
「信じて貰えなくても本当なの! 公園で雨に打たれてぼーっとしていたら徹が現れて部屋まで連れて帰ってくれたんだよ『嫌な事も熱い風呂に入って寝たら忘れる』って優しく励ましてくれたんだもん」
うーん。その記憶の中の俺の行動が信じられないんだよね。絶対にしないと断言できる。
多分、春香が失恋のショックで死んでも涙一粒溢れないと思うしね。
「それで、優しくされて俺に癒されて好きになったって? 信じられないんだよね」
「それだけじゃないよ。小さな頃に蜂から守ってくれたり、車から守ってくれたりしたよね。知らなくて酷い事言っちゃったけど感謝しているんだよ」
「それ、誰から聞いたの? って兄だよな。今日聞いたの?」
春香が首を振って即答で否定した。
「ううん。未来の明と別れる時だよ」
ここで疑問が二つ。
なぜ春香を助けたのが俺だと知っているのか?
なぜ普段"明君"と呼んでる兄の事を"明"と呼び捨てしているのか?
問題解決は後回しにして話を続ける。
「俺は春香を助けて、春香は過去の事を謝罪して二人は付き合い出した。そして結婚した。ここまでは合ってるの?」
「そうだよ。そして――」
「偶然街で出会った兄といい雰囲気になって、うっかりホテルにしけ込んだと? そのまま焼け木杭に火が付いて不倫を楽しんでいた所を俺にバレた。そしてショックを受けた俺が自殺した――」
「――そうだよ。その後、気がつけば私は10年前の今日に戻って来てたんだよ」
なぜこいつはここに姿を現せたのだろうか? 話が事実だとしたら完全な疫病神じゃねえか! 嘘だとしても内容がハード過ぎる。
未来の俺はどういう気持ちでこいつと結ばれたんだろうか?
そしてどういう絶望感で自らの命を断とうとしたのだろうか?
あまりにも現実味が無さすぎて何も想像出来なかった。
今の俺の中にこいつに対する情なんて一欠片もない。はず――
全てを捨ててやり直す事も出来たのでは無いのか? 過去も未来もこいつら二人に翻弄されるとか哀れすぎる。未来の俺を思って涙が溢れた。
「泣いてくれるの。やっぱり徹は優しいね」
クソビッチの声が遠く聞こえた。せめて未来の俺への追悼が終わるまでは黙っていて欲しい。台無しだよ。
***
結局、俺は無かった事にした。全てを無かった事にした。
春香の告白も、その夜の出来事も全て。
所詮、幸せかどうかなんて人生終わるまで分からない。死んだ後で騙されていたと分かったところで何も出来ない。
本人が幸せだと思っていれば他人がどう思おうが関係ないのだ。
今は春香の事を信用できなくても、いつかは信用する日が来るのかもしれない。そして恋に落ちて結婚するのかもしれない。
タイムリープの事が事実なら、不倫して裏切られるのかもしれない、されないかもしれない。
そんな不確実なものに振り回されるのはごめんだ。
一つだけ言えるのは、自らの苦しみから逃げ出した俺の真似だけは絶対にしない。誓ってもいい。
***
俺は最後まで己の人生を全うする。
願わくばその傍に最愛の人がいますように。
「何神妙な顔してるのよ?似合わないわよ! それより急ぎましょう。映画が始まっちゃうわよ!」
俺の背中を押して先に春香は走り出した。
「夏美、秋生、父さんの手を離すなよ!」
「うん、わかった!」
「うんとね、抱っこがいいの!」
愛娘の差し出す手を受け入れて抱き上げ、反対の手で愛息子も抱き上げた。
「落ちないようにしっかりと掴まってろよ!」
「「わかった!!」」
俺はこの瞬間の為に生きているといっても過言ではなかった。
徹は優しかった。
タイムリープの話を信じる信じないは別として、私の謝罪を受け入れてくれた。
そして
「無理に俺に拘る必要はないんだぞ。結局はどこか無理してる所があったから浮気という形になって現れたのかもしれない。他に好きな男が出来たのならそいつの所に行けばいいんだぞ」
そう笑いながら言った。
私の想いはただの執着だと笑い飛ばす。
二回目の人生を別ルートに行くなら俺に拘らなくていいと。
徹に拒絶されるなら諦めるしかないと考えていたが、明確な拒否をされる事はなかった。
そして、幼子の成長を見守るように、いつも優しかった。
「最近の好物は唐揚げとスコッチエッグなんだ。よろしく」
そう言われた時に改めて徹の好物を何も知らなかった事に気が付いた。好物だと思い込んでいたのは小学時代のもの。
中学、高校と何も徹の情報を更新していなかった。
あらためてその事実に愕然とした。
前回結婚した時も何も言わなかった。ずっと好物はたまご焼きとタコさんウインナーだった。
言わなかった? 言えなかった?
いや、聞かなかった。その事実に辿り着いた時に愕然とした。
どの口で徹の事を愛していたと言っていたのだろう? 臆面もなく。
全てが驕りだったのだ、愛していると驕り、愛されていると驕り、そして彼を裏切った。
彼は私の裏切りに絶望して命を絶つほどに愛してくれていたというのに。
私の愛は見せかけだったのだ――
徹の前から姿を消すと覚悟を決めた時にはすでに遅かった。お腹の中に二人の子供を授かっていた。
彼に告げずに姿を消すという選択肢はなく、全てを彼に委ねるのだった。
今回の私は進学をしていなかったので家庭に入る分には問題なく、また、捨てられたのなら捨てられたで母子二人で生きていくのはどうにかする自信はあった。伊達に二度目の人生ではない。
「責任を取る気のない女に手を出す程鬼畜じゃない。順番は逆になったけど俺と結婚して欲しい」
それが徹のプロポーズの言葉だった。
前回は子供もプロポーズも無かったので嬉しかった。
30分ほど泣いている間、ずっと徹は私の背中をさすってくれた。
やがて二人目の子供も授かり、二人とも前回の人生よりも年上になった。
このまま死ぬまで二人で仲良く過ごしたい。
私は右手にポップコーンとドリンクをまとめて持つと左手で徹の背中を押した。
「何神妙な顔してるのよ?似合わないわよ! それより急ぎましょう。映画が始まっちゃうわよ!」
いつまでもずっと愛しています。死ぬまでも死んでからもずっと。