5 日常への回帰
駆けつけた警察に現場を預け、高速道路を走らせたリーリエは商業区へと降りる。
事故を起こした蒸気車両は、警察の手によって引き上げられ、破損した高速道路の壁に赤の誘導灯を取り付けられた規制線が張られていることを除けば、街はもういつもの夜に戻っていた。
「おかえり、リーリエ」
下道を走り、店に戻ってきたリーリエをアスカが迎える。
「ただいま」
慣れた操作で従機を車庫に入れたリーリエは、ワンピースの裾を翻して操縦席から飛び降りた。地面に降りても、足許が揺れるような興奮が続いている。まだ夢を見ているような気分で、リーリエは今まで自分が乗っていた従機を仰いだ。
「…………」
搭乗に使う梯子を見上げると、あの青年の手の感触が手のひらに蘇ってくる。しっかりとリーリエの手を掴んで離さなかったあの手――。
「ねっ、公爵家のご子息を助けたって本当? アルフレッド様ってどんな感じだった?」
「えっ、なんで知ってるの?」
回想にふける心を読んだようなアスカの問いかけに、リーリエははっと我に返ってアスカを振り返った。
「もうみーんな知ってるよ! 取材も来てたし明日にはニュースになるんじゃないかな」
「……え、そんなに?」
公爵家の令息アルフレッドの救出をしてから、まだそれほど時間は経っていない。救出劇の成功を見届けた人々が、既に各々の生活へと戻っていたこともあり、街中でそこまでの話が広がっているとは、思ってもみなかった。
「そっちには来なかったの、取材?」
驚くリーリエに、アスカがきょとんと瞬きをしながら小首を傾げる。
「あ、うん。警察の人が、交通規制してたし……。それに、私は事故そのものとは関係ないから」
新聞社や放送局の取材らしいものを見た覚えはない。もしかすると規制線の向こうにはいたのかもしれないが、少なくともリーリエには思い当たる節がなかった。
「そっかぁ。でも、すっごい活躍だったよ! こっちはもう大騒ぎでさ!」
街の興奮を伝えようとしてか、アスカが身振り手振りを交えて話を続ける。
「……本当に、間に合って良かった。あれ、人間じゃ絶対届かなかったし、あの判断の速さには痺れた!」
ほとんど息継ぎをせずに話し終えたアスカは、リーリエとの距離を詰め、くしゃくしゃの笑顔で抱きついた。
「リーリエ、格好良かったよ~」
「あ、アスカ……」
いつになく力強く抱きしめられた腕の中で、リーリエが困惑の声を上げる。リーリエを抱きしめたアスカの腕は、微かに震えていたからだ。
「本当に、格好良かった……。けど……、リーリエが無事で、良かった……」
「アスカ」
心優しい親友のこれ以上ない労いの言葉に、リーリエはアスカの背中に手を回してぽんぽんと叩く。
「心配かけてごめんね」
「そうだよ。後になって、落ちたらどうしようとか色々考えちゃって、帰って来るまで気が気じゃなかったんだからね!」
リーリエの謝罪の言葉に、アスカは抱擁を解き、目尻に滲んだ涙を手の甲で拭って笑った。
「うん、私も……。アルフレッド様を助けてから、なんか急に怖くなっちゃった」
「それはそうなるよ。……はぁ~、リーリエだぁ……」
包み隠さず不安を吐露したリーリエに、アスカが安堵の声を漏らす。そうしてひとしきりリーリエの美しく滑らかな髪や顔をぺたぺたと触ると、頬に手を添えて瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「……それで、どうだった?」
問いかける声には、アスカらしい好奇と悪戯っぽさが覗いている。その問いかけにリーリエは、アルフレッドの瞳を思い浮かべながら目を伏せた。
「……アルフレッド様が手を握っててくれたから……。なんだか安心した……」
「えっ。それって、もしかして――」
「ち、違うの! そうじゃなくて!」
アスカの言わんとすることを察して慌てて首を横に振る。
「無事に助けられて、ちゃんとこの人が生きてるんだってわかって……。そういう意味で安心したっていうか……」
運命的とも言える劇的な出来事ではあったが、胸を打つ興奮は、恋とは違う。
「なぁんだ……。私はてっきり、一目惚れとかしちゃったのかなーって」
「ないない。大体、身分が違いすぎるし」
恋や運命の出会いがどういうものかはわからなかったが、リーリエは冷静に自分の立ち位置を踏まえて答えた。
「でも、最近はそういうの関係ないって言うじゃない? 案外アルフレッド様もリーリエに一目惚れしてたりーとか、あるかも」
「まさか」
咄嗟に否定の言葉が口を突いて出たが、言葉とは裏腹に、手のひらにはしっかりと握ったアルフレッドの手の感触が蘇っていた。熱い体温と、力強い男性の手――その感覚を思い返したリーリエの指は自然とそこにアルフレッドの手の形を描くように動いた。
「……ふふっ。じゃあ、リーリエをからかうのはこれくらいにして、と。課題が待ってるから、今度こそ帰るね」
人好きのする笑顔を見せながら、アスカがゆっくりと踵を返す。
「ありがとう、アスカ」
「どういたしまして。じゃあ、続きはまた今度ね」
貴重な時間を割いて自分を待っていてくれた親友を、リーリエは感謝の念を込めて見送った。