2 バンクシー・ペイントサービス
夕映えの街が柔らかな金色の光を纏っている。
芸術都市アーカンシェルの北にある、アーカンシェル国立美術大学から夕刻を知らせる鐘が響き始めた。
アーカンシェルは、最北にあるシェル湖を中心としたリゾートエリア、そこから南北に延びる大通りに添うようにアーカンシェル国立美術大学とアーカンシェル国立美術館が続く芸術都市だ。
都市の外部に蔓延る野盗などの外敵の侵略阻害や、歴史ある芸術作品の保護の観点から、街は高い壁に周囲を囲まれており、さながら城塞都市のような様相を呈している。街の東西は、西の貴族街と東の一般市民街に分かれており、一般市民街へ続く交差点の先では、路上で作業をする巨大な人型の機械の姿があった。
鮮やかな空色と橙色で彩られた全長三メートルの鋼鉄製の機械は、従機と呼ばれる作業用の機械だ。
その背に担がれるように作られた操縦席に座しているのは、防護用のゴーグルとマスクで顔を覆った少女だ。作業用の鉄骨の上に立つ従機の操縦席で、彼女は増築された酒場の壁に塗装を施している。
彼女が操縦桿を操作すると、腰部に取り付けられた大型の空気圧縮機から空気が供給され、深みのある緑色に塗られた酒場の壁にカクテルグラスを象った白い模様を鮮やかに浮かび上がらせた。
鐘の音が止むのと少女が作業を中断するのはほぼ同時のことで、彼女は鐘の残響と頬を照らす光に誘われるように顔を上げ、操縦席からゆっくりと立ち上がった。
空色を基調とした従機の頭部に当たる位置によじ登り、顔を覆っていたゴーグルとマスクを外す。涼しくなった風が、少女――リーリエの長く美しい髪を梳かすように撫で、西に沈む陽の光がそれを橙色に透かしていく。リーリエはその感覚を楽しむように頬を緩め、穏やかな微笑みを浮かべている。風に誘われるようにゆっくりと身体を反転させた彼女は、視線を夕闇の色に変わり始めた商業区の大通りへと向けた。
色とりどりの塗料で壁や屋根を塗装された建物は、リーリエが営むバンクシー・ペイントサービスによって施されたスプレーアートで彩られている。リーリエの父、ブレックとリーリエによってアートの息吹を吹き込まれたこの一画は、この五年ほどで目覚ましい変化を遂げている。
以前は治安の悪化の象徴となっていた落書きがなされていた通りは、リーリエの父の働きによって一新され、新しいアートと街の融合を果たしている。その働きは、治安の回復にも大きな影響を及ぼし、商業区に軒を連ねる店や家々は、独自のデザインやカラーを掲げた塗装を施すようになっていった。
その塗装を一手に担うのが、リーリエの働くバンクシー・ペイントサービスである。十九歳のリーリエは、三年前に交通事故によって他界した父に代わり、一人で塗装業を続けている。
「さて、と」
薄明の街が宵闇の色に変わっていくのを見届け、リーリエは操縦席に戻った。操縦桿を操作して空気圧縮機を作動させると、従機の右手に携えられているエアブラシのトリガーを引いた。
薄水色の塗料が滑らかに壁に吹き付けられ、カクテルグラスにカクテルが注がれる様がありありと浮かび上がる。
壁の塗装と注文のスプレーアートを仕上げたリーリエは、操縦席に凭れ、空を仰いだ。
日暮れを迎えた街には、街灯の明かりがぽつぽつと点されていく。酒場の斜め向かいにあるリーリエの店、バンクシー・ペイントサービスのネオン色の看板にも明かりが灯った。
街灯に加え、ネオン看板が灯り始めると、街は明るく夜の表情を見せていく。
商業都市として新たな発展を見せつつある芸術都市アーカンシェルの一般市民街は、夜の賑わいを求めて訪れる観光客や美術大学の学生らで賑わい始めていた。
明るく彩られた街を物珍しそうに眺めながら、人々は目当ての店へと向かっていく。かつては窃盗やスリなどが横行していた通りとは思えないほど、長閑な光景がそこにはあった。
気がつけば、従機の足元にも酒場に訪れた人々が集まっている。従機を倉庫に戻すことを諦めたリーリエは、操縦席から改めて街を眺めた。
街がこうして発展したのは父の功績が大きい。だが、その父の急死により、バンクシー家には莫大な借金が残されている。母ミシェルも、料理の腕を活かして中央都市アマルーナで住み込みの働き口を見つけて働いている。
「…………」
従機の上に立つと、北から街中へと向かってくる美大生たちの姿が見える。流行のファッションに身を包み、楽しげに歩いて行く姿をリーリエは羨ましく眺めた。
リーリエは十九歳。父が健在だったならば、おそらく親友のアスカと共に同じ美術大学に行っていたはずなのだ。
「リーリエ、そこにいるー?」
溜息を吐きかけたリーリエの耳に、アスカの声が聞こえてくる。アルバイト帰りらしいアスカは、店のロゴ入りの紙袋を左右に振りながらリーリエに見せた。
「仕事終わってるなら、降りてきなよ」
紙袋の中身は、アルバイト先のマグロナルドのツナバーガーだろう。看板商品のツナバーガーをイメージしたロゴを見ると、それだけで空腹を思い出した。
「今行く!」