15 束の間の安堵
夕方には電話が手配され、紅茶を運んできたナタリーによって配線が繋がれた。
鎮静効果のある薬草を加えた香りの良い紅茶に、砂糖を二つ加えたものを口にしたリーリエは、ほっと一息吐いてアスカの家に電話を架けた。
「もしもし――」
「リーリエ、久しぶり!」
電話向こうのアスカが、リーリエの微かな第一声を聞き取って明るい声を上げる。いつもと変わらないアスカの声にリーリエは緊張で強ばっていた肩の力を抜き、今日の出来事を話し始めた。
昨日の新聞のことに加え、元許嫁のアンナが現れたこと、アトリエが燃えたことを一通り話すと、感情豊かに相槌を打っていたアスカは、改めてアンナのことに触れた。
「元許嫁のその子、評判よくないよ。一方的にって感じだけど、自分がアルフレッドの許嫁っていうのは確かに話してたと思う……」
「知ってたの?」
「でも、交流もなければ興味もなかったし」
アスカによると、アンナは同じ美術大学の二年生らしい。
「絵の技術はあるけど、性格に難ありな子なんだよね。かなりの二面性があるのは有名な話だから、気をつけてね」
「う、うん……」
ナタリーも同じことを言っていたことを、思い出して頷く。アンナに関する情報を一通り話したアスカは、話題をアトリエの火災の件に移した。
「それにしても、アトリエの件はやり過ぎだよね。一歩間違えれば、お屋敷だって火事になっちゃったんじゃない?」
「それは、多分ないと思う」
仮にそうなった場合の可能性が浮かんだが、リーリエは即座に頭の中からその想像を追い出した。
「なんで?」
「……庭師の人たちが、すぐに駆けつけてくれたから」
誰かが火を点けた可能性があることに触れるのは、勇気が必要だった。リーリエが誤魔化すように言うと、アスカは溜息を吐いて乾いた笑いを漏らした。
「捨て身の計画的犯行みたいな? ……貴族って暇なんだねぇ」
呆れた様子のアスカが核心を突いたような言葉を口にする。だが、それ以上掘り下げて聞くようなことはしなかった。
「……ねえ、アスカ。私って、アルフレッドと結婚すべきだと思う?」
「ん? 好きじゃないの?」
アスカは不意を突かれたようなきょとんとした声を発した。
「ううん。そうじゃなくて……。上手く言えないんだけど、快く思わない人が身近にいる中で、自分の気持ちを優先してもいいのかなって」
「あー……そういうことかぁ。普通はリーリエみたいな経験、しないもんね。うーん。そしたら、見方を変えてみたらどう?」
「変えるって?」
アスカと話していると、幾分か冷静さを取り戻す。自分がどうすべきか迷っているときに、道を示してくれるのは頼れる親友なのだ。
「……例えばさ、嫌がらせがなかったらどうだった?」
「こんな風に思い悩んだりはしないわ。多分」
リーリエは即答した。全面的に歓迎されないまでも、表立って嫌がらせがなければ、元婚約者のことも含めてそこまで心を痛めることはなかっただろう。そう思うと、今の状況に置かれた自分が一層惨めなように思われた。
好きな人がいて、結婚の約束をする。
手放しで幸せを感じられたのは、その時だけだったのかもしれない。結婚そのものは、家同士の契約でもある。貴族に嫁ぐということは、そうした古い風習の中に身を置くことでもあるのだ。
「じゃあ、障害はそこだけってことなんだよね。まあ、それが大問題なんだろうけど」
「うん」
他に問題が出てくる可能性もあったが、それはもう考えても仕方がないように思われた。リーリエはアスカの言葉に頷き、次の言葉を待った。
「だとしたら、楽しいことに目を向けてみようよ。嫌がらせに負けるのって、こうして落ち込むことなんだと思うよ。悔しいけど、相手はそれを狙って痛いところ突いてくるんだよね」
「本当に、痛すぎるくらいにね」
皮肉のひとつも言ってやりたいくらいには元気が戻ってきた。顔を歪めてささやかに言い返すと、電話口のアスカが大声を上げた。
「あー! やり返してやりたい! あたしの大事な親友になんてことするんだ!って!!」
「気持ちは嬉しいけど、でも……」
アスカの突然の変貌に慌てて宥めるような声を上げる。アスカはすぐにいつもの調子に戻って、軽口を叩くように言った。
「わかってる。わかってるよ。だけど、やられっぱなしって嫌だから、アルフレッドに八つ当たりしてやろうかな」
「それは……」
「ダメ?」
「いいかも」
アスカに八つ当たりされるアルフレッドは、少し見物かもしれない。そうでなくても、自分が言葉で伝えられないことをアスカが伝えてくれると思うと、心強かった。
当然、それを面白いと思うには、アルフレッドへの深い信頼がある。
「ふふふっ、信頼してるんだね」
「もちろん。そうでないと、婚約なんて出来ないでしょ」
「うんうん。これからの人生を共に歩む伴侶になるんだもんね」
アルフレッドへの思いを再確認するようにリーリエが言うと、アスカも改まったように祝福の意を込めて柔らかな声で返した。
「あっ、そうだ! 結婚したら、もう一般市民じゃなくなるし、ゆくゆくは公爵夫人ってことになるんでしょ? そうしたら形勢逆転!みたいなことにはならないかな?」
「……そんなに簡単じゃないと思うけど、確かに表だっては嫌がらせみたいなことは出来ないかも」
それこそが、アルフレッドが意図していることならば、婚約発表と、挙式を急いでいる現状にも頷ける気がする。
「だよね! だから相手もさ、今のうちに婚約者から引き摺り下ろそうって必死なんだよ」
同じことは、アルフレッドの母や元婚約者にも言えるだろう。
「……ごめん。別に不安を煽ろうってことじゃなくてさ」
「うん。わかってる」
リーリエの沈黙を気遣ったのか、アスカが声のトーンを少しだけ落とした。
「……そういえば、アルフレッドはなんて?」
「君は私が守る、って」
「はー……。いいなぁ……」
噛みしめるように呟くアスカの声は、電話口の向こうで微かに揺れている。恐らくベッドの上に転がって、バタバタと手足を動かしているのだろうと思っていたが、その通りの音が響いてきた。
「私も、恋したーい!」
――これは、恋なの?
まだ見ぬ世界のように、恋への憧れはあった。けれど、実際にその機会に恵まれた今は、喜びよりも大変さの方が勝っている。
身分が違ってなかったら、素直に喜び、笑いあうことができただろうか。アルフレッドの家族にも祝福してもらえただろうか?
ふと浮かんだ考えを、リーリエは苦笑を浮かべて否定した。
「……それで、お披露目会はいつ? 来週だったよね?」
「うん、週末の予定」
アスカの問いかけに現実に引き戻され、リーリエは机の上の暦を一瞥した。
「新聞に載るかな? リーリエの晴れ姿。なに着るのか決まった?」
「真っ白なドレスかな、多分」
屋敷に来た日に採寸に来た衣装係が手にしていたデッサンには、白いドレスが描かれていたはずだ。
「ドレスか~。貴族はお堅いね。リーリエなら、カラフルなのも似合うのに」
「今回の舞踏会は正装だから、仕方ないわ」
二人の婚約発表の場として催される舞踏会で、リーリエとアルフレッドは二曲目に演奏される円舞曲を踊ることが決まっている。
「まあ、無難だよね。舞踏会と言えば、またダンスパーティーも行きたいよね。去年みたいにリーリエと朝まで踊り明かしたーい」
「大学の芸術祭の?」
「そうそう……」
アスカの相槌を聞きながら、リーリエは昨年の美術大学の芸術祭の夜を頭の中に思い描いた。花火の咲き誇る夜空の下、集まった若者たちが踊り明かす特別な夜だった。
「……今年もやるかしら?」
「うん! また二人で目立っちゃおうよ」
来年も行こうと約束したが、リーリエは即答出来なかった。
「あ、公爵家に入るとそんなに浮いた真似は出来ない……のかな?」
「……わからないわ。でも、アルフレッドが一緒なら」
「いいね! きっと大学側も歓迎するんじゃない?」
「時期が来たら伝えてみるわ」
結婚後のことを考えても仕方がなかったが、明言は避けた。アルフレッドは、リーリエが描くスプレーアートを始め、若者文化に興味と理解がある。無下にはしないだろうという信頼もあった。
「そうしてみて。リーリエのダンスは最高なんだってところ、見せてあげようよ。きっと惚れ直すよ」
「そうかな?」
自信なさげに問いかけると、アスカは声を張ってリーリエの良さを語り出した。
「絶対そう! 貴族のあの堅っ苦しいやつじゃない方が、リーリエらしさが伝わるもん。まあ、リーリエらしさで言えば、絵を描いてるときのリーリエが一番なんだけどね」
親友の心からの言葉に目頭が熱くなる。
「……ありがとう」
目許を押さえながら紡いだ穏やかな声に、扉を叩く音が重なる。
「リーリエ様」
扉の向こうから聞こえたナタリーの声に、リーリエは立ち上がり、アスカとの電話を終えた。
「ごめんね。また電話する」
受話器を置く前に、入り口の扉が開かれた。
「ナタリー、どうしたの?」
やってきたナタリーは私服姿で、トランクをひとつ抱えている。
「リーリエ様。急なのですが、少しの間田舎に帰ることになりました」
「えっ?」
突然の出来事に、リーリエは思わず問い返していた。ナタリーは淋しげに微笑み、深々と頭を下げた。
「……どうか理由は聞かないで下さいませ。ただ、リーリエ様のせいではないと、そのことをお伝えしたくて……」
「ナタリー」
「どうかお元気で」
歩み寄ろうとするリーリエを制するように、ナタリーが扉に手を掛ける。眉根を寄せたその視線は、リーリエに追って来ないでと訴えているかのようだった。
扉は、音もなく静かに閉ざされた。





