13 疑惑の現場
庭へと降りたが、アトリエは既に手の施しようがなく、庭師らの手によって火が消し止められられた頃には、あの美しかったガラス張りの建物は熱で大きく拉げ、原形を留めていなかった。
焼け跡から集められたスプレー缶が、水の中に沈められている。可燃性の塗料ということもあり、そのいずれにも激しく燃えた痕跡があった。
「お嬢さん……」
リーリエに気づいた庭師の一人が、焼け焦げた木枠の一部を示す。それがアルフレッドとの初めての共作であることに気づいたリーリエの目からは、大粒の涙が零れた。
「どうしてこんなことに……」
リーリエに付き添っていたナタリーが震える声で呟く。リーリエは焼け跡を呆然と見つめながら、手の甲で涙を拭った。
「…………」
火気には充分に気をつけていた。火種になるものなど何もなかったはずだった。リーリエは目許を擦り、アトリエの跡に目を凝らした。
最も燃え方が激しいのは、スプレー缶とその保管場所である棚。アトリエはガラス張りではあるが、普段はカーテンを使って遮光されている。カーテンももちろん燃えてしまっているが、そのカーテンを隔てた先に飾られていた共作の絵が不自然に燃えている。それよりもスプレー缶の棚に近いテーブルと椅子よりも、燃え方は激しかった。
ガラス張りという建物の構造上、自然発火の可能性がないわけではない。だが、その燃え方には明らかに人為的なものがあった。
「……まさか――」
「だから反対したのですよ」
最悪の可能性を口にしかけたリーリエは、冷たく浴びせられたエリザベートの声にぎくりとして振り向いた。
「あんな落書きの道具を、公爵家の敷地に持ち込むなんてことは」
放火による可能性を辛うじて呑み込み、リーリエは困惑のまま口を開いた。
「……火がなければ燃えません。ここには火なんて――」
「お黙りなさい。現に燃えているのですよ?」
リーリエにそれ以上の発言を許さず、エリザベートは扇子を広げて口許を隠した。
「おお、嫌だ。臭い、臭い」
これみよがしに扇子で扇ぐその口許が笑いの形に歪んでいる。そのことに気づいたリーリエは、ぞっとして思わず目を伏せた。
「お前たち、この場所は解体して処分してしまいなさい」
庭師らに言い付け、エリザベートはリーリエを無視して去って行く。その姿が見えなくなっても、リーリエの震えは止まらなかった。
「リーリエ様、大丈夫ですか?」
「……てた……」
恐怖が重く心を凍り付かせている。恐ろしい予感に舌がもつれ、上手く言葉を発することができなかった。
これほどまでの敵意を向けられたことは初めてだった。恐怖でがちがちと鳴る歯を抑えることも出来ずに、リーリエは泣き出しそうな顔で自らの恐怖を口にした。
「……奥様が、笑っていらした……」
「……え?」
問い返すようなナタリーの呟きは、驚きというよりもリーリエの言葉を確かめようとしているかのような響きを帯びていた。少なくとも自分の発言を疑われたわけではないのだとわかり、リーリエは震える肩を手のひらでさすりながら震える声で続けた。
「ナタリー……。私、嫌われているのよ。きっと……。アンナ様のことも、存じ上げなかった。私、この婚約はやっぱり――」
リーリエにそれ以上言ってはならないと忠告するように、ナタリーが悲しげに首を横に降る。
「私はどうこう言う立場にはございません。……ですが、リーリエ様とお話になられるアルフレッド様は、とてもお幸せそうです」
「ナタリー――」
温かな言葉に安堵の声が漏れた次の瞬間、アトリエの中に残されていたスプレー缶が爆ぜ、残っていたガラスが割れた。
「ナタリー、嬢ちゃんを連れて離れた方がいい。ここは儂らに任せてくれ」
安全を優先し、庭師らがナタリーとリーリエを屋敷へと促す。リーリエは庭師の男らと目を合わせ、深々と頭を垂れた。
「……ごめんなさい」
「あんたのせいじゃないってことは、わかってる」
困ったような声がリーリエを励ますように伝えられる。顔を上げたリーリエは、彼らの温かさに潤んだ目を擦りながら、もう一度頭を垂れた。
「……ありがとう……」
「さあ、参りましょう」
ナタリーがリーリエの背を支え、屋敷へと促す。アトリエから少し離れてから、ナタリーは周囲を伺うように首を巡らせ、小声で囁いた。
「……実は私も、奥様が笑っていらしたのを見たのです。それと、アンナ様も、あちらからご覧になられていました」
「……え?」
ナタリーが視線で示した窓に目を向ける。彼女の言うとおり、その窓辺にはアンナの姿があった。
傍らにはエリザベートの姿があり、二人が親しげに話している様子が窺える。
「あまり見てはなりません。気づかないふりをしていてくださいませ」
忠告に素直に従い、リーリエは視線を逸らす。顔を伏せると、ナタリーは耳許で続きを離し始めた。
「……アンナ様は、私、正直に申し上げて苦手でしたわ。あの方は、自分のために他人を陥れるようなお方です。今回のことも――」
「ナタリー」
呼びかけに、ナタリーの身体がびくりと震えたのがわかった。
「煤を払うのを手伝ってくれない?」
顔を上げると、別のメイドが掃除用具を手にナタリーを呼んでいるのがわかった。
「また後で、参りますわ」
ほっとしたような表情で互いに顔を見合わせ、ナタリーがそっとリーリエから離れる。
「あたたかい紅茶とミルクをお持ちしますね」
「ありがとう、ナタリー」
信じられないような悪意に晒されてもなお、逃げ出さずにいられるのはナタリーのお陰だろう。そのことを実感しながら、リーリエは心細く彼女の背を見送った。





