12 急変
リーリエが平静を取り戻したのは、ナタリーが食後の紅茶を届けに来て程なくしてからのことだった。
「……それは朝から受難でしたわ。リーリエ様、お気の毒に……」
テーブルの上の濡れた新聞を丁寧に折り畳んで片付けながら、ナタリーが眉を下げる。
「聞いてくれてありがとう、ナタリー」
ナタリーに話して幾分か落ち着いたリーリエは、手許のカップを口許まで運び、既に飲み干していたことを思い出した。
「もう一杯お淹れしましょう」
苦笑を浮かべながらカップをソーサーの上に戻すリーリエに気づいたナタリーが、すぐにティーポットを手に取る。温かな湯気を立てながら新しい紅茶が注がれるのを目を細めて眺めていたリーリエは、にわかに騒がしくなった玄関ホールの音を敏感に感じ取って視線を彷徨わせた。
「どなたかいらしたようですわね」
同じ音を聞き取ったナタリーが、カップをリーリエの手許に差し出しながら扉の方を見遣る。と、甲高い叫び声に似た罵声が、二階にまで届いた。
「どういうことですの? 許嫁のわたくしを差し置いて、婚約など――」
聞くに堪えない剣幕に、ナタリーは困惑の表情を浮かべ、「様子を見てきます」と部屋を出た。その表情からただならぬものを感じたリーリエも、暫し迷った後、ナタリーを追って大階段の方へと向かった。
廊下に出ると、玄関ホールからの声は明瞭に聞き取れるほど大きくなった。
「落ち着いてくれ、アンナ」
「いいえ。落ち着いてなどいられませんわ」
アルフレッドと女性が言い合う声が響いている。激しく言い合っているというよりは、女性が一方的に喚いているような印象を受けた。
「その新しい婚約者とやらが、本当にアルフレッド様に相応しいかどうか、わたくしが見極めて差し上げますわ」
「アンナ!」
アルフレッドの元許嫁のアンナが、靴の踵を鳴らしながら苛立ったように階段を駆け上がってくる。その行く手を阻むように、踊り場にナタリーが佇んでいた。
「アンナ様」
「下がりなさい、ナタリー。使用人の分際で、わたくしに意見するなど許しません」
ナタリーの制止を聞かず、アンナが彼女を追い越す。ナタリーはアンナをそれ以上引き留めることも出来ずに、進んでいくアンナを慌てた様子で追いかけた。
「ですが――」
「お義母様だって、あの娘のことを認めていないでしょう? それなのに屋敷に住まわせて、その上、今更教育なんて……!」
「君は意見すべき立場にない。下がってくれ、アンナ」
ナタリーを追い越し、アンナの腕を掴んだのはアルフレッドだった。
「まあっ!」
踊り場に引き戻されたアンナは、怒りで紅潮させた顔で鋭くアルフレッドに詰め寄った。
「わたくしに酷い恥をかかせて、どういうつもりなんですの? アルフレッド様といえども――」
「なんですか、朝から騒がしい」
アンナの激しい口吻は、どこからともなく響いた静かな声によって遮られた。
「お義母様!」
誰よりも早くその声に反応したアンナが、階段を駆け下りる。階下のエリザベートは、冷ややかな視線でリーリエを一瞥すると、実の娘に向けるような慈しみの視線をアンナに向けた。
「アルフレッドが、わたくしをないがしろにするのです。わたくし、許嫁の解消などまだ認めておりませんわ」
胸に飛び込み、か弱く泣くアンナの背をエリザベートはそっと撫でていたが、不意に思い出したように再び視線を上げ、リーリエを睨むように見つめた。
「……そこで何をしているのですか、リーリエ?」
「…………」
咎めるように呼びかけられ、咄嗟に声が出なかった。
「わたくしのことを笑いにきたに決まってますわ! なんて恐ろしい女!」
「そんな、私は――」
アンナの決めつけにリーリエはたじろぎ、蹌踉めくように半歩下がった。
「リーリエ、部屋に下がりなさい」
「……申し訳ございません」
憎悪の視線から逃れるように頭を垂れると、リーリエはドレスを翻して自室へと引き返した。
「……っ」
ベッドに突っ伏し、呼吸を整える。恐怖のせいか、まだ身体が震えている。
「どうして、どうしてこんな……」
幸せであるはずの恋に不穏な影が差している。次々と向けられる敵意に、リーリエは唇を引き結び、かたく目を閉じて涙を堪えた。
☘
どのぐらいそうしていただろう。ベッドに伏せていたリーリエは、どこからか漂ってきた焦げ臭い煙のような臭いに顔を上げた。
暖炉の火を入れるような季節ではなく、火を使うようなものは思い当たらない。窓から吹き込む風は、濁ったように白く、独特の臭いのする煙にリーリエは咳き込んだ。
「火事……?」
鼻と口許を抑えて窓から外を見る。そこに広がっていた光景に、リーリエは息を呑んだ。
「あ、嘘……」
ガラス張りの温室が、煙で満たされている。破れた天窓からは黒煙が渦を巻いて漏れ出していた。
アトリエが燃えていたのだ。





