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10 祝福の拍手

 婚約が成立してからの日々はめまぐるしく過ぎていく。

 母ミシェルと、アルフレッドの父クロードの祝福を受けたリーリエは公爵家によるお披露目会に備えた『教育』のため、リヒテンブルグ家の邸宅へと移り住んだ。


 専属の家庭教師がつき、礼儀作法などを教え込まれる日々は、リーリエにとって厳しくも新鮮な出来事の連続で、公爵家に嫁ぐことの意味を改めて思い知らせるものだった。


 アルフレッドが選んだという側付きのメイドのナタリーは、リーリエと年齢が近いこともあり、何かとリーリエを気遣い、プライベートの時間を何不自由なく過ごせるように尽力した。ナタリーの働きもあり、リーリエは邸宅での過ごし方にも少しずつ慣れていったが、アルフレッドの母エリザベートからのあからさまな敵意にだけはいつまでも慣れなかった。


 エリザベートは婚約が成立した際も、一人リーリエを認めずに、まるでいないもののように振る舞っている。全ての人に歓迎されていると思ってはいなかったリーリエだったが、エリザベートが指定した家庭教師からも次第に厳しく当たられるようになり、リーリエの心は憂鬱に沈むようになり始めた。

 それでも、毎日の日課は変わらずに訪れる。


 いつものように重苦しい空気の中、午前の授業を受けたリーリエは、家庭教師の退室を見送り、大きく息を吐いた。

 早めの昼食を兼ねてマナーを学んだが、なにをどの順番でどう食べるかに集中しすぎて、味を全く感じていない。重苦しい空気を逃すようにリーリエは窓辺に進むと、締め切っていたカーテンを開いて窓を開けた。


 窓の外には、アルフレッドがリーリエのために設けたアトリエが見える。あのアトリエにも、ここに来てからは数えるほどしか足を踏み入れていなかった。


 窓辺に(もた)れ、大きく溜息を吐く。人の敵意に晒されることに慣れていないせいもあり、屋敷での生活は心細かった。ナタリーがいなければ、堪えきれなかったかもしれない。多忙とはいえアルフレッドとの時間が取れないことも、リーリエの不安に拍車をかけていた。

 もう一度溜息をつきかけたところで、扉が規則正しく二度叩かれた。ノックの音にリーリエは慌てて背筋を伸ばし、扉向こうに視線を向ける。


「アルフレッド……」


 訪ねて来たのはアルフレッドだった。


「一人きりにして済まなかったね。今日は屋敷を見て回ろう。北棟を案内するよ」


「でも、午後のレッスンが――」


 アルフレッドの突然の申し出にリーリエは逡巡する。


「それならもう断ってある。君は私の婚約者なんだ。教育のために私との時間がなくなるのは本末転倒だろう?」


「…………」


 悪戯っぽく微笑むアルフレッドに、リーリエは思わず薄口を開けた。


「ダメかな?」


「いいえ。嬉しいわ、アルフレッド」


 孤独で心細かった心が、光が差したように明るくなる。アルフレッドに手を引かれ、リーリエは屋敷の北棟へと出向いた。



☘



 屋敷の北棟は、美術コレクターであるアルフレッドの母のコレクションが多く収められている。


「陽の光が当たらないように、北棟なのね」


「そうだね。その分、外の風景を描いたものや花の絵が多いかな」


 廊下や展示室の至るところに飾られた絵のほとんどは、印象派と呼ばれる明るい色彩が特徴の絵ばかりだ。特に花の絵が多く、リーリエはその豊かな色彩に顔を綻ばせた。

 アルフレッドの母のことは苦手だったが、彼女の心のなかにこうした花や風景を愛でる意識があるのだとわかると、向けられる悪意の感情が幾分か和らぐように思う。


「……なにか描きたいかい?」


「え?」


「そう見えたから」


 アルフレッドに問いかけられ、リーリエは無意識に動いていた手に気づき、目を瞬いた。


「……アルフレッド……その……」


「アトリエでは狭いかな? 街へ行こうか」


 自分の希望を口にして良いものか迷うリーリエの心を見透かしたように、アルフレッドが提案する。これ以上ない提案に、リーリエは声を弾ませた。


「いいの?」


「構わないよ。絵を描く君を見るのが好きなんだ」



☘



 急遽出された蒸気車両が、昼下がりの一般市民外へと進んでいく。

 数日ぶりに店へと戻ったリーリエは、鎧戸を開けて従機を出した。思えば、従機に乗ること自体が久し振りで、起動と同時に懐かしさで胸が一杯になった。


「待ってたぞ、リーリエ」


 鎧戸をくぐって路上に出たリーリエを、街の人々が歓迎する。彼らはリーリエの従機を先導し、新しく竣工したばかりの建物の前に誘った。


「ここに、好きなように描いてくれ」


「俺たちは、それが見たくて待ってたんだよ」


「……ありがとう」


 真っ白に塗られた壁は、リーリエのために残された巨大なキャンバスのようだ。リーリエは微笑むとエアブラシを操作し、太陽のように美しく咲く花々を描いた。

 滑るようになめらかな動きを見せる無骨な従機を使ったドローイングに、街の人々が次第に集まってくる。リーリエは心に浮かんだ光り輝くような花々の景色を大胆かつ繊細に描き、白い壁を彩っていく。


 絵が仕上がる頃には、噂を聞きつけた新聞社と映像配信会社が駆けつけ、アルフレッドとリーリエの姿を、完成したばかりのスプレーアートと共に写真や映像に収めていった。

 アルフレッドと肩を寄せ合うリーリエは、いつの間にかいつもの笑顔を取り戻していることに気づいた。


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